新一万円札

渋沢栄一とESG投資

 新一万円札の顔に内定している渋沢栄一(1840~1931)は、約470社もの企業の創立や発展に努めました。その講演集をまとめた『論語と算盤』を読むと、もう100年以上前、日本に資本主義が入り始めた頃から、ESG投資と同様、持続的成長の精神を渋沢栄一が唱えていたことがわかります。

 『論語と算盤』は、間にある「と」が大事、とは栄一の玄孫の渋沢健さんの解説。「論語」とは道徳、「算盤」とは経済を指します。「と」によってこの二つが並列であることが示されているのです。そのエッセンスを紹介しましょう。

真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでない
                       「第四章 仁義と富貴」

 単なる儲け主義に走って利殖(利益)を増やしても、仁義に基づかなければやがては衰退する。当時の新規事業として石油や製粉、人造肥料を挙げ、成り行きで事業を行うのでは永続しないと述べています。これこそ事業の持続的成長(サステナビリティ)ですね。
 他方で、道徳のための道徳教育のような空理空論を推し進めた結果、元に攻められ滅びた宋という国家を例にとって、組織は道徳のみで持続できるものでもないということも示唆しています。

  また、道徳と経済とが分断されてしまった経緯にも触れています。

孟子は、利殖と仁義道徳は一致するものであるといった。その後の学者がこの両者を引き離してしまった。仁義を成せば富貴に遠く、富貴なれば仁義に遠ざかるものとしてしまった。
                       「第五章 理想と迷信」

 天保生まれの栄一は、江戸時代、武士は、道徳(論語)はあるが、お金(算盤)にこだわることは賤しいと距離を置き、一方で、賤しめられた商人は、卑屈に流れて儲け主義一点張りとなったといっています。その結果、経済活動と道徳は成り立たないものとされてしまったのだが、これが彼のいた時代の日本という国家の発展を遅らせることになったといっています。

 『論語と算盤』では、道徳なき商業における拝金主義と、道徳論者の商業蔑視は、どちらも問題であることを行ったり来たりしながら繰り返し述べています。
 現代においても、企業・個人にとって同じことがいえると思います。道徳と経済発展は、どちらか一つでは走り続けられない車の両輪なのです。
 この令和の時代に、渋沢栄一が新一万円札の顔となったのは、持続的成長をあらためて考える時代となった証なのでしょう。

 ESG投資やサステナビリティについて、先日は企業が努力すべきことについて述べさせていただきましたが、個人にもできることがあります。個人の資産運用を考える際にも、単に高い利回りを追い求めるのではなく、投資先の企業や団体が、どのように社会に貢献しようとしているのか、知る努力を行ってほしいと思います。もちろん、利回りを捨てろと言っているのではありません。社会に役立つ事業を行った結果、その企業が適正な利益を得て成長するかどうか、長い目で見て選んで投資してほしいのです。

 個人でそのような分析をすることが難しいと思われる場合には、プロが選んだ投信などの金融商品を購入することもひとつの方法です。前述の渋沢健さんが会長を務めるコモンズ投信や、「ガイアの夜明け」で紹介され話題になったレオス・キャピタルワークスの運用するひふみ投信のように、長期スパンで企業の見えない資産と成長性を評価し、投資先企業と個人投資家をつなぐ投信会社もあります。大手金融機関でも「ESG」や「サステナブル」と名前のついた投信などを多数そろえています。

 あなたの資産のほんの一部だけでも、そのような「仁義道徳に基づく真正の利殖」に投資してみるのも悪くないと思います。少額でよいのです。渋沢健さんは、自身の主催する経営塾で、お金を水滴にたとえて、こんな話をしていました。

 一滴一滴のしずくは、溝にたまっていたり、ただ流れてしまったら、役に立たないが、それを集めて大河とすることで、国を富ませることができると栄一は銀行設立の際に言っていた。
 現代では、共感によって寄り集まったお金と、共助で補うあうことによって、「今日よりもよりよい明日」を共創することができると解釈している。

 私も、少額ですが、資産の一部をこのような投信等で運用しています。利回りを期待していませんでしたが、意外と堅実に儲かります。何より、投資先の企業を応援し、よりよい明日につなげているつもりなので、気分がよいのです。


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※この記事は特定の金融商品を推奨するものではありません。

参考資料:『論語と算盤』渋沢栄一(著)角川ソフィア文庫


IR(インベスター・リレーションズ)の経験などに基づいたテーマで記事を書いています。幅広い層のビジネスパーソンにも読んでもらえたら嬉しく思います!