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あの人が教えてくれるもの⑫:石原莞爾

久々になる『あの人が教えてくれるもの』シリーズの第十二回は、怪物的軍人(by 保坂正康)、石原莞爾(いしわら かんじ 1889/1/18-1949/8/15)を取り上げてみます。

石原莞爾

スケールの大きな傑人との出会い

私が、石原莞爾という人物を知ることになるのは大学生の時です。突然読書に目覚め、貪るように本を読み漁る日々を送る中で、明治維新から日清・日露戦争を経て日本が太平洋戦争へと突入していくまでの歴史を扱った書物を読むようになりました。少年時代に軍艦が好きだった関係で、軍事史にはもともと興味がありました。歴史的事件に関わった軍人の伝記も沢山読みましたが、その中で一際異彩を放つ人物が、石原莞爾でした。昭和期の軍人の中では、海軍の山本五十六と並び、最大の”スター”と言っても過言ではないでしょう。

今回この記事を書くにあたって調べてみると、非常に多くの石原莞爾に関する書物が出版されていることが判りました。学生時代に私が読んでいた上下版の『石原莞爾』という書物は、著者名を失念してしまい、amazonでは発見できませんでした。この記事は、昭和史研究で定評のある保坂正康氏が著した『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書2018)の第二章・第三章の内容をベースにしています。

マルチな才能の持ち主

保坂氏は、石原莞爾の実像に迫るのは難しいと書いています。軍人、軍事思想家、東亜思想家、宗教家(日蓮宗)など、多彩な顔を持ち、どの側面に焦点を当てるかで、評価がばらつきます。また、彼を慕った人々によって神格化されている部分があり、存在やエピソードが誇張される傾向にあることも大いに影響しています。真髄に迫るには多くの補助線を必要とする人物だと考えられます。

保坂氏は、石原の評伝を書く為には、以下の三条件を挙げています。

・石原の質の良い評伝を書けるか否かで次代の者の能力を問われる。
・石原の歩んだ人生六十年の道には近代日本の全てが凝縮されている。
・石原の発した問いは消えることなく、今もわれわれに答えを迫っている。

P54

軍人・石原莞爾を説明する際、しばしば引用されるのは、関東軍参謀時代に首謀者として関わった満州事変です。この強引な軍事行動が、後に日中戦争を経て、太平洋戦争に至る日本破滅へのきっかけになった、という評価もあります。ただ、石原が画策した満州国建国の理念は、関わった人々の思惑で歪曲され、年月を経て変質しました。

また、陸軍きっての軍事理論家であり、著書『世界最終戦争論』は有名です。そのスケールの大きな着想と博識に支えられた理論は独特だとされています。

そして、石原理解に欠かせない要因は、犬猿の仲であった東條英機との対立です。石原は、時の権力者である東條を、「器の小さい人間」として徹底的に軽蔑し続けたと言われます。一方の東條も、危険な言動と身勝手な振る舞いで、自らが牛耳る陸軍の統制を乱しがちな石原を嫌い、影響力を怖れて、予備役に追い込んでいます。

私は、若い頃に読んだ伝記の影響から、石原莞爾びいきであり、東條という人物には否定的です。日本の一大事に、東條英機という、清廉潔白かつ能吏ではあっても、先見性に乏しく、指導者としての器量に欠ける人物が権力を掌握し、戦争指導者に担ぎ上げられてしまったことが悲劇であった、と考える一人です。

石原莞爾への憧れ

私が今も、石原莞爾というスケールの大きな人物に好感を持ち、憧れ続けていることは間違いありません。毀誉褒貶の激しい人物だったことは承知しています。一部の方々には、蛇笏のように嫌われていることも承知しています。

しかし、頭がすこぶるよいこと、クソ真面目ではなく時に羽目を外した振る舞いもすること、思考が柔軟で常識に囚われない未来思考の発想があること、自分の価値観に絶対の自信を持ち、歯に衣着せぬ毒を吐くこと、泰然自若としていること、など、それを上回る憧れの要素が満載だったからです。偏屈なタイプの人なのに、慕う人が周囲に集まってくるところも大変羨ましく思っていました。

保坂氏の言う『石原の残した問い』とは、具体的にどういうことだったのか? 改めて考える機会を持ちたいと思います。

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