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山田かまちの世界に触れた日

本日無事に51歳と211日目、無職31日目を迎えることが出来ました。感謝!

山田かまちという人をご存知でしょうか?

山田かまち(1960/7/21-1977/8/10)は、群馬県高崎市の生まれです。17歳で不慮の事故により夭折したものの、生前に書き残していた膨大な絵や詩、散文から、その豊かな芸術的才能と文学的才能が死後に見い出されました。

1990年代には、彼の綴った言葉を纏めた「17歳のポケット」という本が話題になり、全力で駆け抜けた短い生涯が注目を集めました。

即断即決で高崎へ

山田かまちという名前は、私の頭の片隅に残っていました。昨日ふと思い出し、Wikipediaでググったのは全くの偶然です。運命なのか、宿命なのか、いてもたってもたまらなくなり、青春18きっぷを手に高崎市にある山田かまち美術館を訪れる決断をしました。普段は腰の重い私が、今回は即断即決、自分でも驚きの行動を取りました。

高崎市山田かまち美術館は、高崎市街から烏川を渡ったエリアにあるコンパクトな美術館でした。平日の昼間ということで、来訪客は私ひとりでした。全ての展示物をみて回るのに一時間もかかりませんでしたが、じっくりと鑑賞ができ、いい時間を過ごすことができました。

この世の中で最も難しいことって何だと思う?

山田かまちが幼少の頃、母親に「この世の中で最も難しいことって何だと思う?」と尋ね、「わからない、何なの?」と答えた母親に、「何も考えないことだよ」と言ったというエピソードが好きです。

何も考えずに無の境地になるのは、大人になっても本当に難しいことです。人一倍感性が豊かで、敏感だったかまち少年は、考え過ぎて疲れきってしまうことも多かったのでしょう。自分を追い込み過ぎて疲弊してしまう毎日がしんどいと考えていたかもしれません。

山田かまちは、ロックミュージック、中でもビートルズとクィーンを愛していました。小学校からの同級生だった、氷室京介や松井常松らとバンドを組んでいたこともあるほどロックにのめり込んでいました。

山田かまちの死の報を聞いて駆け付けた氷室京介が、かまちの母親に「かまち君はハードロックでした」と呟いたというエピソードが残っているようです。高崎は、氷室、松井に布袋寅泰、高橋まことの加わったBOØWY、Buck-Tickなど伝説的なロックバンドを産んだビートパンクの街でもあります。

山田かまちの遺した言葉

死後40年にあたる2017年には山田かまち再発見の動きがありました。歌手の加藤登紀子が、山田かまちが死を迎える10日ほど前に書いたという印象的な詩、「生きる」に感銘を受けて曲を作っています。

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おまえの生き方をつらぬけ。
それは意地ではない。
美しさだ。

というフレーズ、私は好きです。心に刺さります。

もしも、山田かまちが生きていたら‥

もしも、現代に山田かまちが生きていたら……

いや、ああいうタイプの天才がこの矛盾だらけの世界で生き抜いていくのは難しいんじゃないかな…… というのが正直な感想です。彼は、短くとも濃厚な日々を生きた人だったように思います。

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