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『自由と成長の経済学』を読む❷

昨日に引き続き、柿埜真吾『自由と成長の経済学』(PHP新書2021)の第2章・第3章の読書ノートです。

第2章 前近代の閉じた社会の道徳(P51-60)

短い章なのでさらっと読み通しました。ゼロサムゲームが基本OSとなっている有史以前続いてきた「閉じた社会」が、資本主義が起爆剤になって「開かれ、拡大(プラスサム)していく社会」が到来した、という見立てに異論はありません。

「脱成長」は「閉じた社会」への逆戻りを意味する、そんな社会を果たして望みますか? というメッセージとして、柿埜氏はこの章を配置しているように感じました。

第3章 なぜ資本主義は自由と豊かさをもたらすのか(P61-82)

『脱成長』を掘り進めていくと、どうしても資本主義のダークサイドに着目し、弊害を強調する論調に出会う機会が増えます。柿埜氏は、この章で資本主義のプラスの側面にスポットライトをあて、資本主義が人類に与えてくれた機会と功績について熱弁を奮ってくれます。資本主義が社会にもたらした有益な面とメカニズムを押さえる姿勢は大切だと思います。

いったん理解してしまえば、資本主義の原理は全く単純なものである。自発的な取引は必ず当事者双方に利益をもたらす。<中略>
自発的な取引は、誰かが得をすれば誰かが損をするゼロサムゲームではなく、当事者全員が利益を得ることが出来るプラスサムゲームなのである。(P62)
資本主義は、全体の目標や全体の構成を全く知ることなく、意見の相違も超えて膨大な数の人々の協力を可能にしているのである。(P67)
資本主義の下では、ゼロサム的発想からは、全体の利益を減らす悪だったはずの私的利益の追求が社会全体の利益になる。(P68)

個人的嗜好ですが、”比較優位の原理”の説明で取り上げられる、名探偵ホームズと相棒のワトソン博士の比喩は、あまり気持ちよくすっきり読めませんでした。現代目にしている資本主義社会からは、少数のホームズだけが賞賛と尊敬を浴びるだけでなく実益も独り占めにして、置き去りにされた報われない大多数のワトソンが怨念をたぎらせている構造を夢想してしまいます。資本主義社会全体ではバランスの取れた最適な構造になっているとしても、ホームズとワトソンの取り分はアンバランスになっている、という印象は消えません。ワトソンの満足度が減り続けているという格差問題を横に置いた資本主義の礼賛と受け取られかねません。

また、

労働力の商品化は歓迎すべきことである

という割と強いことばが置かれています。私は資本主義社会では、労働力=商品化を許容すべき現実と認識していますが、「歓迎」とまで達観するのは難しいものがあります。自分の有利な商品市場を選んで、競争に勝ち、優位な地位に昇り詰めればいい、という話ではあるのですが、誰かの価値観によって品評され、序列化されることにモヤモヤします。

労働力が商品化されない社会とは、奴隷社会か自給自足社会である(P76)

と見立てて、労働力商品化社会を肯定するのではなく、別の道は本当にないのか、と模索したい気がします。

最終項(P79~)の「アイデアの自由市場」は、興味深い論考で、

文化や芸術が花開くことを望むなら、少数派が活躍できる、多様性を認める社会が必要である。(P79)

には深く同意します。ただし、

市場経済の下では、少数派は多数派の決定に従う必要がなく、自らの信念を貫くことができる(P79)
国内外の自由な取引を認めれば、特権階級が知識や情報の独占を続けるのは難しくなる。(P81)

については、「果たしてそうなんだろうか……」と素直に首肯できない事例も見ており、もう少し掘り下げて議論を深めたいポイントです。独裁国家の方が、民主主義国家よりも自らに都合の悪い情報の統制に厳格である印象はあるものの、民主主義国家が何に対してもおしなべて寛容か?、という疑問があります。より狡猾で悪質な情報の隠蔽や個人の弾圧が潜んでいるイメージも私にはあります。

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