見出し画像

存在することで影響を与える

私は「自分が生きていることの意味」をしばしば考えます。年齢を重ねたこと、自由時間が増えたことで、以前よりも考える頻度が上がっています。本日は、『存在することで影響を与える』というテーマで、思考の整理をしてみます。

きっかけは、ファンであるCOTEN RADIOで2019年4月放送された『【番外編 #6】 社会に最も影響を与えるのは「行為」以上に「存在」である』を聴き直したことです。深井氏と楊氏の語っていた内容を拾いながら、私が思ったことを膨らせてみようと思います。

行動と成果で評価され、存在価値を推し計られる

資本主義の競争社会で生きる人は、何をやったか、そのやったことで短期的に何を達成したかという成果で評価され、その評価を本人の価値と結び付けられて取り扱われることが避けられません。

年齢、属性、仕事内容、成果などから評価する手法には、豊富なテンプレートがあるので、それらの該当項目に当て嵌められてカテゴライズされ、ビジネス人としての価値が推し計られることになります。

行動できない人間、短期的に成果を上げられていない人間は「ダメな人」「冴えない人」「負け組」というレッテルを貼られ、資本主義社会では価値の乏しい、役に立たない存在と見なされてしまう。そのことで、居心地の悪い生き方を強いられてしまう、という傾向は確実にあります。

成し遂げた成果で人間としての価値が評価されてしまう現実は無視できないものの、
● 儒教という広く行き渡った思想を遺した孔子、
● キリスト教の始祖であるイエス・キリスト、
● 松下村塾で偉才たちに薫陶を与えた吉田松陰、
が生前に自身の手で成し遂げた成果は、さほどのものではありません。

孔子は有力侯への仕官が叶わず、生涯の大半を浪人として限られた弟子たちとの対話を繰り返して過ごしたし、キリストの説教を直接耳にしたのはせいぜい数百人程度と言われていますし、吉田松陰自身が明治維新に果たした功績はかなり限定的で、江戸幕府的価値観が存続していれば、倒幕を企てた地方の一罪人という評価のまま忘れ去られた存在でしょう。にも関わらず、彼らの思想や存在は後世の人々に、大きく深く影響を与え続けています。

歴史への造詣の深い深井氏は、

人間とか社会には長期的な影響もある。長期的な影響は、えてして行為からは生まれなくて、こういう人がいたという存在を認知されることで影響を与える。

という意見を言われており、興味深く感じました。

生きることを否定される場面

2年前に『生きているだけで価値がある』という記事を書きました。

丁度、吉本興業所属芸人の『反社会集団主催イベントでの闇営業(直営業)問題』が取り沙汰されている頃で、「価値のなくなった人間には用がない」かのような言説や批判に気持ち悪さを感じました。

あれから2年が経ちますが、不適切な言動、不祥事の発覚した人を標的にして、過剰かつ陰湿に叩く傾向は止むことはなく、むしろ悪化している印象すらあります。誰でもカジュアルにコメントできてしまう環境が整備されたことで、事態を増幅させているのかもしれません。人間の尊厳を全否定するような過剰なことばには心が痛みます。

人間は生きているだけで影響を与えている

人間は生きているだけで影響を与えている。いい、悪いに関係なく。評価は関係ない。

という考え方を、私は支持します。個人の存在が、集団/社会の多数派の価値観で評価される機会に遭遇することは避けられないことですが、その評価結果で自分の生きている価値を規定する必要はないのです。

自分には受け容れられない価値観を持った人が世の中には存在する、と認知することが重要です。行動や思想の評価は相対的なものであり、価値観が揺れ動く歴史の中で二転、三転するのが普通です。現代で支配的な多数派の意見に与する必要なんて全然ありません。

自分が生きていることは奇跡。自分も他人も、ちっぽけな生き物です。今、この瞬間に生きていることに感謝して、精一杯向き合うことが大切なのだと思い直しました。

サポートして頂けると大変励みになります。自分の綴る文章が少しでも読んでいただける方の日々の潤いになれば嬉しいです。