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時間についての考えの変化

今日は昼間は穏やかな天候だったものの、明日は大陸から寒波がやって来て、この冬一番の冷え込みになると予想されています。今日は『時間』という永遠のテーマをネタに、現在の私の立ち位置を深めてみようと思います。

流すつもりはないのに、時間は流れてゆく

世の中に、時間が大切だと考えている人は非常に多いようです。分刻みでスケジュールを詰め込み、隙間時間を精一杯活用して高い生産性を維持している人は、一般的に成功者と呼ばれる人でしょう。そんな達人と競うつもりは毛頭ないものの、私も持てる時間を有効に使って、充実した毎日を送りたいという願望は持つ一人です。なので、自分が意図せぬ形で無為な時間を過ごしてしまった…… と気付いた時には、喪失感、後悔の念が襲ってきます。まあ、一瞬ですが。

流すつもりはないのに、いつの間にか流れているのが時間です。自分が支配権を握って自由に使える時間は、貴重で短く感じます。一方、他人に委ねていて、自分の意志で好き放題に使えない時間 ーたとえば、仕事の定例会議ー なんかは、時計の進みが遅く感じてしまいます。

こうした時間の特性を熟知した使い方の巧拙、努力の積み重ねが、長い期間で大きな差になっていくのだろう、と頭では理解できます。

自分の時間を確保することが何より大切だと感じていた頃

私には、自分以外からの要請や強制でブロックされている時間は少なければ少ないほど幸せだ、と強く信じていた頃がありました。自分で自由に使える時間こそ何より尊くて、他人に譲り渡している時間は地獄、という固定観念が強く刷り込まれ過ぎていました。人を道具扱いする他人のコントロール下で右往左往する奴隷なんかにはなりたくない、という極端な考えを抱いていました。自分の時間が欲しい…… 誰からも邪魔されずに自由気ままに過ごしたい…… という願望は、私にとってかなり優先順位が高い願望で、自由時間の多寡が自分の幸福感に直結する、と錯覚していました。

最近になって、自分の自由時間を囲い込むことに執着がなく、他者に拘束されてしまう時間にも割と鷹揚に対処できています。駅のホームでの電車待ちの時や、クルマを運転中に渋滞に引っかかっている時に、ワクワクしている自分に気付くことがあります。自分に落ち度のある明らかな時間の無駄遣いに対しても、割と寛容になっている気がしています。

おそらく、自分が自由に使える時間が増えても、有効で生産的な時間が増えるとは限らないと悟ったからだと思います。普段から時間がないことに自覚的になって「時間ができたら、これとこれとあれをしよう」と事前準備が整えられているから、自由時間を有効に活用できるのです。自由時間を確保すること自体に躍起になっているのはナンセンスであり、目的と手段を履き違えている、ということに今更ながら気付きました。

自由な時間に過剰な期待をしない

大変残念なことに、私には自由時間がたっぷりあったとしても、何が何でもやりたいことはそれ程多くはない、ということにも気付きました。二年間モラトリアムを過ごしてみて、後半にはそのことがはっきりとわかりました。自由に使える時間がありすぎても困るのです。そう思い始めたタイミングで、たまたま縁あって社会復帰できたのは誠に幸運でした。好き勝手に振る舞えない窮屈さや、寄る年波に勝てず容赦なく襲ってくる肉体疲労や、人間関係での面倒臭さをちょっとだけ我慢して、自分のペースで無理なくできる仕事をしている方が、少しは世の為、人の為になっているような気がしています。

理想を言えば、週四日はライスワークをし、週三日はフリーに自分のその時興味のあることに注力する生活がベストです。週に四日の各8時間+2時間くらいを、社会人として生き延びるために義務をこなす時間と割り切り、エゴを捨て、求められる役割を全うし、自発的に創意工夫をして組織に貢献することに捧げても、決して不幸にはならないように思います。何かに強制されていれば、持ち前の怠惰な性格も隠せますし、抑制的な生活もできます。心身の健康にもプラスでしょう。

他人が、自由な時間を謳歌していることを羨望しても意味がありません。自分の日常を見つめ直して捻り出せる時間を発掘する努力も大事ですが、捻出した時間を使って、何に取り組むかを先に決めるべきです。必要もないのに膨大な自由時間だけを確保しても、うまく使いこなせずに持て余すだけです。これは、お金の管理にも似ているように思います。


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