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伊藤博文と山縣有朋

昨日の西園寺公望に引き続いて、元老シリーズです。本日は、明治の日本を牽引した伊藤博文と山縣有朋についてです。山縣(以下の記事では山県と表記)については、過去に私見を残しています。


菅前首相の弔文より

2022年9月27日に行われた安倍晋三元首相の国葬で、菅前首相が友人代表として読み上げた弔辞は、情感溢れていて非常に感動的でした。菅氏が官房長官や首相在任中に行っていたスピーチは、抑揚が乏しく、淡々とした喋りが迫力に欠けることが多く、むしろスピーチ下手の印象がありました。ところが、この弔辞については、導入・ボディ・締めのバランスが非常に良く、朴訥とした喋りが、逆にエモーショナルな雰囲気を醸し出していて、いいスピーチだと感じました。

菅氏は、弔辞の中で、故安倍氏の読みかけとなってしまった岡義武『山県有朋: 明治日本の象徴』(岩波文庫)の中にあった、山縣有朋が、ライバルでもあり、同志でもあった伊藤博文を悼んで詠んだ句

かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ 

を引用しました。

奇しくも、伊藤博文(1841-1909)も安倍氏(1954‐2022)も68歳になる年に、凶弾に斃れて絶命しています。明治という時代を、国家の為に遮二無二に働き、多くの仕事を成し遂げた伊藤と山縣。その関係を、自信を喪って漂流しようとしているこの国の再建の為に奔走した安倍氏と自身の関係にも、投影させたいという思いがどこかにあったのかもしれません。

長州藩の巨魁として

しばしばロマンチックに語られることもある明治維新ですが、実態は、徳川封建体制から薩長藩閥勢力への権力移行であった、とも言われます。(服部之総『明治の政治家たち』の見解)

明治新政府の権力の中枢は、基本的に薩摩・長州の出身者で占められ、継承されていきました。最初期のリーダーであり、リアリストであった大久保利通(薩摩)が意志半ばで暗殺された後、明治という骨格を形作ったのは、明治憲法を起草し、この国の権力の在り方の形を設計した伊藤博文(長州)であり、徴兵制や各種制度を整備した山縣有朋(長州)であった、という分析には説得力があります。

伊藤と山縣の二人が、大きな仕事を幾つもこなし、よくも悪くも後世の日本社会に絶大な影響を残したことは間違いないところでしょう。

一対のコンビ

年齢的には、山縣が伊藤よりも3歳年上(因みに菅氏は安倍氏よりも6歳年上)だったものの、年下の伊藤の方が華やかな印象があります。明と暗、陽と陰、動と静…… 実際、国民的な人気や知名度も、伊藤博文の方が断然上で、現在でも山縣は不人気です。

合理主義者で、政党の可能性に着目し、開放的な印象のある伊藤に対し、山縣は、権威主義的で、政党嫌い、権謀術数を尽くす陰険タイプの政治家だったとされます。好色家の伊藤、吝嗇家の山縣とも言われます。政治手法や考え方には相容れない部分が多かったように見える二人ですが、お互いに力量を認め合い、お互いの存在を必要としていた部分は間違いなくあったでしょう。そして、日本という国家の行く末を慮る気持ちは、嘘偽りなく真剣だったと信じます。

安倍氏も菅氏も毀誉褒貶のある人物ですが、純粋に日本の可能性を信じ、国家の繁栄を思う気持ちに嘘はなかったと信じます。意図が伝わらなかったり、誤解や批判を受けたりの日々に、絶望感・徒労感も多かったとは思うものの、「日本がどうなろうと関係ない」と投げ出す気持ちは、最後まで微塵もなかったのだろう、と思います。

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