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私の好きだった曲⑩:ハングリー・ライク・ザ・ウルフ

『私の好きだった曲』シリーズの第十弾は、デュラン・デュラン(Duran Duran)の『ハングリー・ライク・ザ・ウルフ~狼のように飢えて Hungry Like The Wolf』です。

MV初体験

この曲には特別な思い入れがあります。それは、洋楽のミュージック・ビデオを初めて観たのがこの曲だったからです。

出会いは、小林克也氏がディスクジョッキーを務めていた伝説の音楽番組、『ベストヒットUSA』でした。正確な時機は覚えていませんが、1982年の年末か1983年の1月でしょう。この頃を境にどんどん洋楽の魅力にのめり込んでいきました。

懐かしのデュラン・デュラン旋風

1978年にイングランド中部のバーミンガムで結成されたデュラン・デュランは、1981年にデビューを果たすと、メンバー全員のルックスの良さと演奏の確かさ、キャッチーな楽曲から、1980年代前半のニュー・ロマンティック(New Romantic)ムーブメントの旗手となり、全世界で大変な人気を博しました。1997年に不慮の事故死を遂げたダイアナ元妃(1961/7/1-1997/8/31)も彼らの音楽のファンだったと言われています。

デュラン・デュランはまた、ミュージックビデオを効果的なプロモーションに使い、『MTVの申し子』とも呼ばれました。セカンドアルバム『リオ』からシングルカットされた『ハングリー・ライク・ザ・ウルフ』は、1982年5月に英国でヒット(5位)した後、1982年12月にアメリカで発売され、1983年3月にビルボードTOP100チャートで最高位3位を記録しています。大ヒットした背景には、1982年4月にスリランカで撮影され、MTVでヘビーローテーションされたこの印象的なビデオが一役買っていることは間違いのないところです。

当時から女性人気は凄まじく、アイドル的人気が先行し過ぎていた感がありました。メンバーの演奏技術や音楽的造詣は確かで、ポップで売れ筋まっしぐらな楽曲作りの裏に、お洒落なセンスが垣間見えることにうっすらと気付いていました。今だから言えることなのですが、当時の私を含むロック少年からは、実力が過小評価されていたきらいは否めません。

1985年頃からはメンバー個々での音楽活動が目立ちはじめ、バンドが空中分解、解散していた時期もあったものの、アンディ・テイラー (Andy Taylor-G)を除く最盛期のメンバー、ニック・ローズ (Nick Rhodes - Key)、サイモン・ル・ボン (Simon Le Bon- Vo)、ジョン・テイラー (John Taylor-B)、ロジャー・テイラー (Roger Taylor-Ds)の四人を中心にバンドが現在も存続しているのは嬉しいことです。

私の洋楽への傾倒は『ベストヒットUSA』

私の中学・高校時代 ~正確には1982年12月から高校卒業する1987年3月くらいまで~ の思い出を振り返る時、洋楽のロック・ポップスにのめり込んだことは、絶対に外せない要素です。

そしてその中心は、土曜日深夜放送の『ベストヒットUSA』にありました。私の音楽的嗜好は、この番組から確実に大きな影響を受けています。毎週末の放送を心待ちにし、人気アーティストの新作や有望アーティストの情報のかなりの部分を、この番組を通じて得ていました。

『ベストヒットUSA』は数々の変遷を経つつ、現在もBS朝日で金曜日の0:00から30分の枠で放送を続ける大変な長寿番組になっています。パーソナリティは、御年80歳の小林克也氏が務めており、オープニングのテーマ曲にはVapour Trailsの『Surfside Way Don't Worry Baby』が使われ続けています。私が楽しかった頃の記憶が薄れゆくなかで、気が付くとそこに居てくれる存在には救われる思いがします。



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