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衝撃を受けたあの事件から四年

しばしば、予期せぬタイミングで、やり切れないような凄惨な事件が起こります。私にとって、どうしても記憶から消せない事件の一つに、2016年7月26日未明に起こった相模原障害者施設殺傷事件があります。きわめて後味の悪かった事件であり、事件発生から4年経過した今でも、思い出すと心がざわつきます。

この事件に巻き込まれてしまった方々に、不快な感情を抱かせる意図は微塵もありません。しかしながら、以下の記述の中には、「不穏当だ」と感じさせてしまう表現があるかもしれません。当然、異論もあると思います。それらを承知の上で、自分があの日衝撃を受け、以来心の底に溜まっているものともう一度向き合って、吐き出してみたいと思います。


相模原障害者施設殺傷事件とは?

相模原障害者施設殺傷事件は、2016年(平成28年)7月26日未明に神奈川県相模原市緑区千木良476番地にあった神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」にて発生した大量殺人事件。元施設職員の男U(事件当時26歳)が施設に侵入して所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。

Wikipediaから抜粋

大々的に報道された事件なので、ご記憶の方も多いと思います。私がこの事件で特に深く考えさせられたのは、以下の点でした。

▶ 犯人は自己愛性パーソナリティ障害?
▶ 「障害者は社会で生きる価値がない」いう趣旨の発言
▶ 介護従事者の直面する現実
▶ 「障害者の保護者の苦労を軽減させてやった」という趣旨の発言

自己愛性パーソナリティ障害とは?

自己愛性パーソナリティ障害を知るきっかけは、この事件でした。

【自己愛性パーソナリティ障害の症状】
●人より優れていると信じている
●権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
●業績や才能を誇張する
●絶え間ない賛美と称賛を期待する
●自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
●人の感情や感覚を認識しそこなう
●人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
●人を利用する
●劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
●嫉妬されていると思い込む
●他人を嫉妬する
●多くの人間関係においてトラブルが見られる
●非現実的な目標を定める
●容易に傷つき、拒否されたと感じる
●脆く崩れやすい自尊心を抱えている
●感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える

これらの症状に加え、自己愛性パーソナリティ障害の人物は傲慢さを示し、優越性を誇示し、権力を求め続ける傾向がある。彼らは称賛を強く求めるが、他方で他者に対する共感能力は欠けている。一般にこれらの性質は、強力な劣等感および決して愛されないという感覚に対する防衛によるものと考えられている。

Wikipediaから抜粋

調べていくうちに、ドキリとしました。私自身にも当てはまりそうな項目があるからです。私の中にもこのような特質が潜んでいる……、自分の尊厳を否定され続けると劣等感の裏返しで自我が決壊するのではないか…… という恐怖感を持ちました。

介護業務を通じて味わった不快感をきっかけに、相手を無価値な人間とみなして殺害を正当化していった犯人の思考回路は、私には今も理解不能です。同情の余地もありません。が、自分自身にも自己愛性パーソナリティ障害の素養があるかもしれないという恐怖を自覚して以来、この事件が異世界の出来事とは片付けられなくなっています。

「障害者は社会で生きる価値がない」いう発言

犯人がこのような趣旨の発言をしていると報道で聞いた時、絶対に許される考えではないと強い憤りを感じました。同時に、このような極端で狭量な考えを持つ人が確実に生息するのだ、という現実も同時に直視せざるを得ず、恐怖を感じました。

とはいえ、私自身が「社会にとって有益な人とそうでない人はいる。それらが全て同じ人間として平等に扱われてしまうのはおかしい」という危険な要素を含む考えを持っていることも認めざるを得ません。

私が言いたいのは、才能の傑出している人、頑張っている人は、社会からそれ相応の称賛と敬意と特権を付与されるべきだし、与えられた持ち場で懸命に頑張り続ける人は相応に報われる社会であってほしい、ということです。裏を返せば、社会に迷惑をかけ続ける人は排除されても仕方がない、という狭量で寛容性を欠く考えでもあります。私の考えと犯人の考えとは明らかに違う、と言い切れるのでしょうか……

犯人の理屈では、障害者施設で暮らす重度障害者は「社会に害悪をもたらすだけの人」だったことになります。労働も社会奉仕活動もせず、社会に価値を還元していない、と言いたいのでしょう。独力で自活することが難しいので他人の力を借りているのも確かです。重度障害者が生活を送るための費用を本人以外の誰かが負担しているのも厳然たる事実です。

私は、今も犯人の論理は間違っていると確信しています。人を葬る理由として決して正当化することはできません。でも「お前も根っこでは似たこと(有益な人/無益な人)を考えているんじゃないのか?」と問い詰められた時、背筋に冷たいものが流れます。

介護従事者の直面する現実  

重度障害者の介護業務は重労働です。障害者と意思の疎通が図れない場合もあるし、介護者によって、言動や態度を変える障害者もいることでしょう。犯人からみれば、自分は正当なことをやっているのにちっとも報われない、と感情を害した局面が何度もあったのでしょう。

介護とは、「そういうものだから」という共感性と自己犠牲が備わっている人、心底その仕事が好きな人、使命感のある人でないとできない仕事なのだと痛感します。人間性と適性が求められる本当に難しい仕事です。

苛酷で理不尽な仕打ちも受けるかもしれない仕事です。恥ずかしながら、介護業務に従事する人の苦労に、思いを馳せられるようになったきっかけは、この事件以降のことです。

「障害者の保護者の苦労を軽減させてやった」という発言

これも最初に聞いた時には、絶対に容認できなかった発言でした。遺族の方が語った「障害があろうとも私たちにとってかけがえのない存在でした。」ということばに偽りはないと思います。

ただ…… 私も息子が産まれて初めて実感したことですが、どんなに可愛い我が子であっても、子育てって辛いなあ…… と考えた瞬間は何度もありました。「何はせずとも、子は育つ」なんて嘘です。最大限エネルギーを投下することが求められるムチャクチャに大変な作業が子育てです。

重度障害を持つ子の親は、健常発達の子供とはまた違った種類の苦労を経験します。身辺自立、社会的自立の難しい子が年齢を重ね、親も高齢になってくると「支えるのが大変だ」「これからどうなるのか」と不安を感じる機会が増えるだろうことは想像できます。

障害者の生きていく権利・安全・場所を確保するのは、精神論や心情論だけでは片付けられない問題だと再認識したのもこの事件でした。

ここまで書いてきて、かなり辛いテーマでした。あのような痛ましい事件は、もう二度と起こって欲しくありません。しかしながら、潜んでいる根深い問題が完全に解決されている訳ではないことも、また理解しておくことが必要だと思います。

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