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「是々非々で判断」の注意すべき点

昨日は、肉体的疲れから執筆意欲が湧いてこず、またまた投稿をお休みしてしまいました。休み明けの本日は、思う所があって、数日前から書こうと考えていた『「是々非々で判断」の注意すべき点』という、私にしては硬派なテーマを取り上げてみます。

きっかけは参議院選挙

このテーマを考えることになったきっかけは、先日の参議院選挙において、日本維新の会(維新)、国民民主党(国民)といった、いわゆる『是々非々型の政党』が躍進を見せたことでした。

あるメディアでは、野党第一党だった立憲民主党(立民)の凋落と崩壊が止まらない一方で、維新や国民が台頭している背景として、自民党のスキャンダルへの批判一辺倒、政策には何でも反対、という立場を取らず、案件毎に是々非々で対処する姿勢が、反自民の人々の支持を集めている、という解説がなされていました。

私には、2009年の衆議院議員選挙で地滑り的勝利を収めて政権を担った民主党(当時)に対しての失望感が、今なお大きくあります。経験不足を露呈してしまった当時の政権運営のドタバタは、目を覆わんばかりの惨状でした。その後野党に下ってからの、党内部の意見対立と内紛、分裂の繰り返しにも幻滅しかありませんでした。そうなると、日本を舵取りは、消去法で自民党所属の政治家に委ねざるを得ないのではないか、というのが、私の現在の基本的な立ち位置であり、現実的な判断です。

是々非々は一見理想的だが……

選挙や政治に限らず、「物事は、内容の是々非々で判断する」という立場で行動することを公言する人は少なくありません。たとえば、ホリエモンこと堀江貴文氏は、自身のYouTubeチャンネルでそう公言しています。自分と意見や信条が違う人間の主張にも一旦は虚心坦懐に耳を傾けるし、自分と近しく、親しい人間であっても、その主張や行動が、自身や社会の価値観に照らし合わせて理に合わないと判断した場合は、しっかりと批判する…… というスタンスだということです。

そこだけを聞くと、理想的な立ち振る舞いに思えますし、自分もそうありたいと思う気持ちは確かにあります。是々非々で判断する為には、何を是とし、何を非とするか、自身の考えをしっかりと持ち、発言や行動にも責任を持つ覚悟が必要になります。

是々非々で物事を判断する為には、自分の中で揺るぎない判断の軸を持ち、称賛や批判は、自身で受け止めるという覚悟が必要な生き方と言えます。『俺がルールだ』という揺るぎない自信があってこそ、成立する立場です。中途半端に軽々しく宣言できる生き方ではないと思います。

是々非々を肯定することの怖さ①ー自分が基準

「是と非の判断は、飽く迄も自分自身である」という立場は、肝腎の自分の軸がぶれていたり、自信がなかったりしていては、却って害悪となります。或る意味、傲慢で独尊的な考え方のような気もしています。時には、世間一般で通用している法や社会秩序よりも、自分自身の判断に信認を置く、という依怙地な姿勢にいきつきそうな危うさも漂います。

私は、「何事も是々非々で判断する人間である」とは胸を張って言えません。そういう生き方に憧れはありますが、全てを自己責任で処理するという自信と覚悟がありません。「自分に直接的利害に関係しないことについては極力大勢に迎合し、どうしても譲れないことだけは、その時の感情や気分で覚悟決めて判断する」という振る舞いをしてきました。内面では、もう少し強くありたい、自立した存在でありたい、と思いつつも、外から見える実際の行動は保守的・消極的です。様々な制約の中で、ぎりぎり許される範囲で、自由に振る舞っているに過ぎません。

自分なりの是々非々で動くと決めている人に付いていくのは、結構不安だと思うのです。その人の信条をよく理解しているつもりでも、最終的にはその人のその時の基準で判断が揺れ動く可能性があります。気紛れな独裁者に身を委ねてしまい、結局は臣従することにもなりかねません。是々非々で動く人は、そういう人が自分の周りに現れるのを迷惑に感じ、自分の責任だと非難されることに困惑していると思います。

是々非々を肯定することの怖さ②ー勝ち負け思考に囚われる

是々非々で判断することを信条とすると、行きつく先は、『勝ち負け思考』に落ち着くように感じてしまいます。この判断は、正しいのか、間違っているのか、みたいな捉え方です。

自分がこうだと意見表明して、同じ考えをもつ人の理解と賛同を得られれば嬉しいし、説得力のある反対意見を返されると、凹みます。そこで、無意識に勝ち負けを意識してしまうと、嫌な気分になります。勝ち負けに囚われる人生は、結構なハードモードです。私も早く脱却したいと願っていますが、まだまだ完全には達観できていません。

勝ち負けに拘って過ごすことの非生産性は、これまで嫌と言うほど味わってきました。私は、「勝つ」というよりも一段消極的な「負けない」を大前提に色んなことを決めてきたように思うので、自分の選択が、社会常識的な「負け」と結論付けざるを得ないとわかった時の絶望感は、すこぶる大きかったのです。「負ける訳のない道を選択したにもかかわらず、負けるオレは何というクズなんだ……」と自分の不甲斐なさに刃を向けて、追い込んでしまったことが何度もあります。

その原因が、是々非々で判断を決める、という考え方にあったような気がしているのです。自分の判断に挑戦や雑音を受けた時のプレッシャーに耐えられないという心の弱さが根底にあるのかもしれません。



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