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全体最適の中では、誰もが主役になれるわけではない

本日のテーマは、『全体最適の中では、誰もが主役になれるわけではない』です。私の思う所を、できるだけ素直に綴ってみます。内容がどのように受け取られるか、些か不安があります。


「あなたはあなたの人生の主役」 

「あなたは、あなたの人生の主役です!」みたいなことばがあります。学校の始業式や会社の入社式なんかで、これから経験する出来事への期待と不安で一杯になっている人を勇気づけ、鼓舞するポジティブなことばとして語られがちです。

私は、このことばに真実が含まれていることは認めるものの、意味の歪曲・欺瞞が含まれており、受け取る人を誤解させて、コントロールしようとするために悪用される危険なことばでもある、と考えています。

「主役」とは?

主役(しゅやく)
1. 劇・映画などの主人公の役。また、それを演じる人。
2. ある事柄における主要な役割・役目。また、それをつとめる人。

デジタル大辞泉

この記事では、「主役」ということばを、2.の意味の中からさらに限定した「社会や組織の中核で権威と権限を持ち、スポットライトを浴びて、尊敬と称賛を集める存在」という意味で用います。

「あなたは、あなたの人生の主役です!」の「主役」には、上記の辞書的な意味を拡大して「自分自身でOKと思える自分」みたいなニュアンスで理解させようという企てを感じます。そのことが私の不信感の一因です。

会社組織の中で与えられる役割

私が会社に入社した最初の新入社員研修で掲げられていたテーマが、「あなたが会社の主人公(主役)」(詳細は違っているかも……)でした。会社組織の中で、存在感を発揮し、自発的に行動・貢献する社員に育っていって欲しい、という良心的な願いがこもっていたのでしょう。

私は、会社組織に所属する者は、その組織で期待されている役割をこなすことが当然であり、義務であると思っています。組織の掲げる目的・目標の達成が優先で、個人の願望や野心や都合は二の次である、という考えです。

会社には、社会の健全な公器であるべきという制約があるので、営利追求の為の反社会的な行動は許されないし、社員を非人道的に取り扱ったり、劣悪な待遇に置くことも許されるべきではありません。社員を奴隷のように扱うことも、社員の意見を完全に封殺することも、あってはならないことです。

だとしても、会社の方針や事情が、個人の意思や願望に優先するのは当然と思います。なので、誰もが「主役」をあてがわれる筈がありません。実際には、やりたくない役割をやる人がいて、浮かばれない役割を果たして一切省みられない人がいて、賞味期限を終えてポイ捨てされる人がいて、まわっていくのが会社組織の宿命だと私は考えています。

会社組織の中で「主役」をやりたければ、経営の中枢に座る必要があります。自分自身で立ち上げた事業のオーナー社長でない場合、自らの企業人的価値をアピールし、実績で証明し、権限を持つ先人に選抜されてその地位に昇り詰めないといけません。「主役」の数は有限なので、大多数の人たちは組織内の「脇役」として働き続けることになります。

「あなたが「主役」」という言い方は、会社から与えられた地位と待遇に文句を言わず、どんな状況であろうと「主役」の意識で献身・貢献してくれ、というメッセ―ジです。それこそが、会社の運営に都合良く、社員を錯覚・納得させることでもあります。

社会も、全体最適 > 個人 それが現実

誰もが尊厳を保障されるべき市民社会においても、私は、個人の満足度よりも全体最適が優先されるのが当然、という価値観を持っています。

共同体と個人、双方の満足が両立される努力や仕組み、個人が誰一人置き去りにされない寛容性は必要だと思いますが、最終的な判断基準は社会全体が最適になっているかどうかであるべき、という考えを支持します。

● より優秀な人間が優越的な地位につく……
● 優越的な地位に君臨する人間の考えが優先される……
● 社会全体への貢献度に応じて、分け前は異なる……
● 人類の全体最適に著しく有害な人間が排除される仕組みがある……

といったことは、受け容れねばならないルールだと思っています。どんなに「主役」になることを強く望んでいる人であっても、その資質を満たさないと判断されたら、全体最適上の「脇役」「その他大勢」「存在しないも同然のような存在」「制度の限界の犠牲者」といった役割に甘んじざるを得ない、というのが私の考えです。

実際問題としては、自分を評価する人は万能ではないので、正当ではない理由で不都合な役回りを押し付けられることは十分にあり得ます。その評価や境遇に納得いかない場合は、拒否することができるというのが大前提です。所属する共同体を選ぶ自由と選択肢が充実していることは、人材の流動性を高め、社会を活性化する、と思っています。

まとめると……

結論として、「誰もが主役」という誤解を与え易いメッセージは安易に使うべきではない、と思います。丁寧に背景が語られた上でのメッセージならば、理解できなくもないですが、どうも冷徹な現実から目を背けさせるための美辞麗句のように使われている感じがしてしまうのです。

そういった現実を理解した上で、「誰もが主役」が目指せることは、健全な社会を維持するために大切だと思います。理想は、主役は交替制であるべきです。限られた人が「ずっと主役」に居座り続けるのではなく、「一度は主役」を経験している人が増えるのが豊かな社会だと信じます。

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