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"月参り"で人生は変化する!参拝の効果を感じられない時に覚えておきたいこと【鳥居編】

今回のコラムのタイトルは『"月参り"で人生は変化する!参拝の効果を感じられない時に覚えておきたいこと【鳥居編】』となっています。

そもそも神社参拝とは「効果」を求めるものではありませんので、自己矛盾を抱えつつ、このタイトルをつけさせていただいています。それには理由があります。

これまで「月参り」に関する記事を中心に、神社仏閣への参拝によって人生は如何様にも変革することができるということをお話しして来ました。

いくら参拝をしても、いくら神仏に頼っても、現実が変わらないではないか・・・


中には、こういう気持ちが沸いているという方もいらっしゃるのではないでしょうか。こうした思いが高まると・・・

現実が変わらないということは、神仏が存在していない証拠だ、だから神社仏閣への参拝は全く意味がないことなのだ・・・

という結論にたどり着いてしまいます。

それでは、わたし自身不本意ですし、とても残念です。

まずお伝えしておきたいのは、神社仏閣は「幸運を招き入れる余地のある、自分自身の心のあり方」を形作る場所ではありますが、「幸運を自動的に生成してくれる便利な場所」ではありません。

自分自身の心のあり方が変わるからこそ、その変わった心に対して神仏はアプローチします。

しかし、頑なに心を閉じて、自分自身を客観視出来ないままでいると、神仏がたとえあなたに寄り添い、手を貸そうとしても、そのことに気付かないばかりか、目の前に巻き起こる巧妙で、不思議な有難い出来事でさえ、否定的に捉えて、自ら神仏のアプローチを拒絶します。

私は口癖のように皆さんに、「自分の不幸の数ばかりを数えず、ささやかな幸せの数を数えて下さい」と申し上げます。

あなたは、あなたが思う以上に幸福であるのに、その幸福に全くお気付きではないということが、非常に多いのです。

そして神仏が常にあなたの心のドアをノックし続けているのに、ドアを開けようとせず、ノックの音にすら耳を貸そうとしていない。部屋の片隅で膝を抱えて丸くなったり、耳を塞いで日々をただやり過ごしているという方もまた、多いのです。

私のコラムをキッカケに、月参りをするようになったという方のご報告をたくさん頂戴します。神社仏閣に触れる機会を持っていただけたことは非常に喜ばしい限りです。

そんな中にも上記のように、「月参りをしているのに、苦境が好転しない」「私の声は神様にちゃんと届いているのだろうか」というお声をいただくこともあります。

神社参拝には、確かな「効果」があります。それに期待をし、得られる「効果」そのものが「目的」となることは本分から逸れてはいますが、間違ってはいないというのがわたしの見解です。

その「効果」を得るためには、神様に対しての深い尊崇と畏怖が必要です。それらを前提とし、しっかりとしたお気持ちと、作法・所作で神社や神様に頼っていただければ必ず耳を貸していただけます。

いただいたお声にお応えをし、神様とのご縁をさらに深め、月参りによって人生が開かれるためのヒントを、今回から数回にわたってお伝えしたいと思います。

これまでの「月参り」に関するコラムでご紹介している参拝方法を実践いただいていることが前提となりますので、是非この機会に読み返していただけますと幸いです。


鳥居之祓(とりいのはらえ)

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月参りで神様と相対し、対話をさせていただくためには、まず参拝に来させていただいたことを神様に認識していただく必要があります。

日々、たくさんの方々が神社へ参拝なさっていると思いますが、基本的に神様は作法を重んじ、礼を尽くし、いつも「畏れ多い」という謙遜の気持ちを持っている者にしか視線を向けては下さいません。

これは相対し、対話する以前の問題です。こうした姿勢を欠いたまま、どんなに通い詰めて願をかけられても、それは叶えられることはありませんし、参拝に来させていただいたことすら認識していただけません。

「鳥居之祓(とりいのはらえ)」という祝詞があることをご存知でしょうか。鳥居の前で一礼をして、奏上する祝詞です。参拝が終わって境内を出るときも、本殿に向き直ってこの鳥居之祓を奏上します。

この鳥居之祓をしっかりと奏上いただければ、神様は「礼を尽くす者が来たり」と、こちらの存在を認識していただけるはずです。

非常に短い祝詞ですので、是非覚えてみてください。自信がない場合は、メモをして読み上げるか、このページをスマホで開いて読んでくださっても構いません。

【鳥居之祓】

神の在座 鳥居に伊禮ば 此身より 日月の宮と 安らげくす

かみのます とりいにいれば このみより ひつきのみやと やすらげくす

鳥居之祓には、もう一つ種類があり、こちらは鳥居の外より本殿にお祀りされた神様に礼拝するための祝詞となります。

社地が広大であったり、山懐にある神社を麓から拝むような場合は、こちらの祝詞を鳥居の前で奏上して下さい。

【鳥居之祓・二】

今の現に 不思慮も
大神の御門辺 欲過と為て
慎み 敬ひ 拝み奉る
此状を 平けく 安らけく
聞食と 恐み恐み 白す

いまのうつつに ゆくりなくも
おおかみのみとべを すぎなんとして
つつしみ うやまい おろがみたてまつる
このさまを たいらけく やすらけく
きこしめせと かしこみかしこみ もうす

月参りや、日頃の神社参拝のご参考のためにお読みいただく方がほとんどだと思いますので、大抵は短い方の鳥居之祓を奏上いただくことになります。
もしご都合があって、境外から参拝しなければならない時などは鳥居之祓・二を奏上ください。


鳥居をくぐることの意味

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さて、鳥居に関してもう一つ留意しておかなければならないことがあります。

神社の入口には、どの方角にでも必ず鳥居があります。ですから、神社へ参拝される際は必然的に鳥居をくぐらなければなりません。

しかし稀に、鳥居をくぐらないという状態が発生することがあるようです。

信仰している宗教の関係で鳥居をくぐらずに境内に入る方がいらっしゃるとお聞きしたことがあります。家族で七五三や、初詣、神社で開かれる神事や祭事に参加した場合かと思います。または、うっかり鳥居をくぐるのを忘れてしまったという故意ではないケースもあるかもしれません。

鳥居は私たち世俗の者の罪穢れをフィルターで濾過する役割を果たします。あくまでフィルタリングであって、鳥居をくぐるだけで罪穢れが祓われるわけでは決してありません。フィルターのキメの細かさは、参拝される神社に祀られている祭神の性質によっても異なります。

現在の世情でいえば、鳥居はマスクの役割をしているとイメージしていただければ分かり良いかもしれませんね。

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鳥居をくぐらないということは、私たち人間と一緒に世俗の不浄なものを、清浄であるべき神社の境内に持ち込むということになります(手水舎で手と口を清めないという行為も同様です)。

故意に鳥居をくぐらず、境内へ足を踏み入れることが常態化している場合には、神様がこれを重く受け止められるのは当然です。

不浄なものが持ち込まれれば、それを排除しようという動きが必ず働きます。

こうした神様に対しての不遜な態度は、家族運、仕事運、健康運の低下に繋がってしまうので注意が必要です。

この場合、鳥居をくぐらなかったり、神社や神様に対して無礼を働いた本人ではなく、その家族に悪影響が出ることもあります。

鳥居をくぐる真摯なお気持ちがないのであれば、また何かの事情があって鳥居をくぐれないのであれば、神社への参拝は控えた方が良いでしょう。

昨今の神社ブーム、パワースポットブーム、ご朱印ブームなどによって、神社は清らかで、癒しに満ちた素晴らしい場所であるというイメージが先行しています。もちろん、それも神社の一つの側面です。

しかし、神社には畏怖を感じざるを得ない側面も多々あります。そうした恐ろしさがある故に、人々は古から神々にひれ伏し、その大きな力に頼って生きてきたのです。

陽があれば、陰があり、恵みがあれば、障りもあるのが神社です。

禁足地に無断で立ち入る、社殿・手水舎・鳥居・狛犬・御神木などに無礼をはたらく、境内の草木・動物・昆虫などをみだりに傷付けた場合などには、大なり小なり影響を受けます。

神に障ると「右半身」に影響が出るのが特徴です(反対に左半身に影響が出る場合は、ご先祖からの警告やメッセージの意味合いがあります)。

触れてはいけない御神木に触れ、さらにその根をヒールで傷付けた方が右足を怪我されたケース、立ち入ってはいけない場所に立ち入り、見てはいけないものを見た方が、右目に病を抱えるというケースが実際にあり、ご相談を受けたことがあります。

知るべきことを知り、正しい態度で参拝をすれば、必ず神様に存在を認識していただけます。

上に書いたような「障り」について書きますと、「神社は怖いところだ」「怖くて行けない」と思われる方もいらっしゃると思います。

しかし、そうお感じになられて実際に神社から足が遠のいてしまう方というのは、そもそも神社とのご縁、神様とのご縁は深くはなく、既に現在の生活に満足しておられるのではないでしょうか。

「障り」があるということが指し示しているのは、神社や神様には人智を超えた大いなる力があるということ。

本当に自分の人生を切り開きたい、変革したい、より善き自分でありたいと願われる方は、そうした「負」の側面を知った上でも、神社へ参拝したいと思うものなのです。

それが神社の魅力でもあるのです。

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