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【雑記】私は動画と配信での発言を自ら禁じた(およびエクラ*タタンさんへの心からの謝罪)

当初は自分のFANBOXで書いていましたが、現状報告というよりは「自己の発見」という面が強かったので、noteに書き残すことにしました。元の副題は「自覚・沈黙・葉隠・恭敬」です。最近は単語の列挙表題に収まりの良さを感じていて、小説分野でも試してみようかと思いつつ。

さて、話を始めましょう。特に最近そうなのですが、動画投稿者さんのコメント欄、配信者さんのライブコメント欄。私は、これらを使用しないようにしています。重要なことなので初めに書きますが、当記事をご覧の皆さんはぜひ使用してください。積極的に、その情熱のままに。


動画&配信におけるコメントは重要

「検索エンジン最適化」の終わらぬ戦い
それはYouTubeでも変わりなく

動画サイトにおける価値向上判定は、検索上位を目指すにあたって欠かせません。すなわち、ざっくり言われるところの「YouTube SEO」において、動画や配信でのコメントは大きな要素です。ポジティブな盛り上がりは、その動画や配信が関連動画やレコメンド対象として選定される確率を引き上げます。

とりわけ、YouTubeの検索アルゴリズムは改革を続けているとはいえ、基本的に「チャンネル登録者数が多く、再生数や同接の多い大手チャンネルが上位表示を独占しやすい」ものです。これは検索エンジンのビッグワードにおける企業サイトの寡占状態と同根の問題、とも表現できるかもしれません。

そして、SEOならあるいは戦略によって上位獲得を狙える一方で、動画サイトSEOは違った戦略を必要とします。ゆえにこそ、海外を中心にYouTuber支援サービスがサブスクリプションとして存在しているわけですね。『TubeBuddy』や『BidIQ』といったサービスの利用によってチャンネル登録者数が鋭進した事例はよく聞きます。

こうしたツールがVTuberさんたちのあいだでも導入されたら(すでに試行されている方もおられるでしょう)、また新しい戦略が見えてくるかもしれません。実際に私がそれをやりたかったのですが、すっかり身体の障害が深まってしまいましたし、「自分が時間を投入したい作業」が他に生まれたので、結局は画餅になっちまいやしたね。

もっとも、私は基本的に独りよがりだもんで、コメントへの対応が億劫だからとコメント欄を閉じてしまうほどなので、双方向性のある媒体自体が向いていません。魅力あるコンテンツの提供という面でも、YouTubeでの活動ではそれを果たせませんでした。結果として、「YouTubeでやっていくには、きみの人間性には問題がありすぎる」と言われても反論しがたいところです。

まさにこの点こそ、私が私の愛する表現者の皆様のコメント欄の活用を極力控えるに至った理由なのです。

観客席で雨傘を開くやつがあるか

人が傘を開く時
それが予期せぬ意味を持つことがある

競馬場で雨傘を開くことは、推奨されていません。牧場やパドックでも競走馬がいる場所で音を立てて開くのは、カメラのフラッシュを焚くのと同等の危険な行為です。

他のスポーツ観戦でもそうですが、本来は確かな物理的措置によって身を守ってくれる雨傘が、誰かの観戦体験を著しく阻害する可能性を考えねばなりません。

そして、動画および配信における雨傘は、娯楽施設における事案に等しいか、より深刻であると私は捉えています。

重要な事実です。コンテンツの主役は、画面の向こうにいる演者さんです。そこにいるのがVTuberさんでも、琴葉姉妹のようなNEUTRINOの皆さんでも、法律問題を教えてくれる専門家でも変わりありません。

概要欄に書いてある場合もありますが、書いてない場合も当然のこととして、「演者より目立つ観客がおったらアカン」もんだと思うてます。

もちろん、「雨の中で傘をささずに踊る自由」があってもいいでしょう。それはまさに"Ye not guilty"です。ただ、それは他人様の領域でやることではありません。まして、コンテンツの提供される場とは、気合の入ったホームパーティーのようなものです。それどころか、アニバーサリーな内容であれば、貴賓席が設けられるほどの壮麗な円舞の場かもしれません。

心より悔しく情けない話ですが、私は無自覚に雨傘を開くタイプなのです。しかも、それは異様なグラデーションで、目を引いてしまう。速やかに、「法の外に置く」を実行されても文句は言えませんわな。

忍ぶ恋・競う愛

新鬼煩寃旧鬼哭
天陰雨湿声啾啾

四字熟語「鬼哭啾々」のもとになったのは、"詩聖"と称された杜甫の『兵車行』です。いったいどれだけの表現者の理想が、YouTubeひとつをとっても、はらりはらりと散っていったことでしょう。

ゆえにこそ、私はその活動を爛々と続けるクリエイター、パフォーマー、エンターテイナーを尊敬します。その人品が美しく感じられたならば、なおさらです。

ご覧のとおり、私は長文癖です。冗長杜撰。これはスピード感やライブ感が大切なコメント欄に向いていません。プラスマイナスゼロなら良いところで、下手をすると「血栓」になってしまいます。

いわゆる「推し」。いわゆる「お気に入り」。その対象がいかなる個性を持っていたとしても、上位において無条件に敬うべきでもなければ、下位に見て嘲弄していいはずもありません。

佐賀藩士である山本常朝の言行について、二回りほど年下の田代陣基が書き残した『葉隠』。ここに「忍ぶ恋」という表現が出てくる点について、SNSでも何度か触れました。曰く、恋心は決して明かすことなく、「一生忍びて思ひ死にせよ」と。死んで焼かれて煙になる。それを恋い焦がれた人が見て、ついに真意を知ってくれたら良いと思えと。

これは『葉隠』の方向性のひとつである「死狂い」「犬死気違い」「常住死身」に立脚したものなので、そのまま適用するのは適当ではありません。

ゆえにこそ、私は私なりの「推し方」「愛し方」を見出したのです。すなわち、「競う愛」です。しかし、この愛が「ラヴ」であるのか、「アガペー
」であるのか、「エロース」であるのか、「プラグマ」であるのか、我がことながら判然とせんですね。

ただ、スタンスは明快です。私は表現者を尊敬し、その活躍に輝かしさを覚え、同時に強い悔しさも覚えます。負けず嫌いなのです。ならば、その横にありたいと。

そのうえで、今まさに人生の波濤に挑む方々が、立ち止まっているわけもありません。距離は開く一方です。

追わねば。

だが、背中ばかりを見ていられない。一方で、前へ出て抜き去りたいわけでもない。個々人として特別な絆を結びたいわけでもない。私が無名の戦士で終わろうとも、墓碑銘に何も刻まれぬ絶無の徒であろうと、目指す場所さえも違えど。

その輝きの横で、死線さえも越える咆哮さえ挙げながら"何か"へ疾駆したとき、私はきっと"Faster Than Light"であり得ることができる。

ゆえに、望み、行うのです。

競い、並び、征く。それこそを。

大恥を抱え、汨羅江に沈まず

吾令帝閽開関兮
倚閶闔而望予

屈原は悲憤の果てに石を抱き、汨羅江へと沈みました。ところで、私のメンタルの不安定は、この7ヶ月間に特に顕著なものとなって、SNSでもこれまで以上の醜態を晒しました。

しかしながら、およそ奇妙に思われるかもしれませんが、「死んでしまおう」と自ら思うこと、あるいは考えたことはほとんど無いのです。「死んじまうかもしれねえ」という激烈な恐怖こそが、常に私の動揺の根源でした。

なお、今も朝からシャワーを浴びるリスクを背負ったので、左胸が痛いです。昨日浴びるタイミングを逃したばかりに……。

齢40にして、ようやく世の20歳ほどには一個の大人になれたでしょうか。18歳の時に東京へ出てからも、私はずっと「大人が行っているらしき振る舞いを真似る子ども」でありました。

物を知らぬ。我慢が利かない。病に振り回される。

ウォルト・ディズニーは良い娯楽作品づくりのために子ども心を大切にしたと言いますが、私が持っていたのは「自儘な稚気」であり、「はつらつとした子どもの精神」ではなかった点を、何度でも考えねばなりません。

今もそれは完全に克服しきれておらず、「強直性脊椎炎由来の身体障害」「重度の発達障害(ADHD/ASD併発)」「軽度の知的障害(生活面での困難)」という属性さえ言い訳にしかならぬ、怠惰の柱にすがりついたまま白骨にならんとする筋肉デブであるのです。

無礼・卑小・誠実

ゆえに、この大恥の根源を出力しましょう。私はいつだってかっこ良くありたいんです。Twitter(X)やってて、お気に入りのVTuberさんにフォローされた時の喜びといったら!

正直に言えば、最初は相互フォローになったからファンになったのです。個人勢VTuberで、グループを組んでいる「エクラ*タタン」さん。それに、元個人勢、今は企業勢VTuber。あおぎり高校の「我部りえる」さんは。

自分を賢く見せるために、「返報性の原理」でデコレーションしましょうか。なんてこたぁない! 私は2次元でも3次元でも美しい人が好きで、その人たちにフォローしてもらえたから舞い上がっとるだけです。女性関係無縁の中年男性らしい感じでございましょう。

ああ、性欲がでっけぇのは、知能が高いからじゃろなという勘違いしていたことも告白しておきましょうか。知能指数なんて無意味だなんてうそぶきながら、自分が拠って立つのはこの全検査IQ130くらいしかないと、わりと頼りにしていました。権威嫌いを装った権威主義者なわけですね。ひどいもんです。人口の2%はいるんだから、全然レアじゃない。病のほうがよほど珍しいです。おかげで、根治療法がまだ見つかっておらんわけですから。そもそも、こんな考え方をしとる時点で愚劣と断ぜられてしまうでしょう。

しかし、違った。私は恥じました。言ってみれば、性欲が発端で彼女たちに興味を持ったようなもの。万一にも、私が今応援しているVTuberさんたちがこの記事をお読みになったら、さぞかし幻滅するでしょう。でも、後段で言い訳をしますが、今は違います。でなければ、この7ヶ月の苦しみが無駄になってしまいますから。

翻って、我が恥の話。SNS等を通じて、イラストレーターさんたちや動画制作者さんたちともつながりができる。私の自己顕示欲が満たされます。

そりゃ、ものづくりをしてはいました。小説も書きましたが、一番当たったのは動画です。過去の遺産だけにすがる人生。それもお世辞にも著作権に配慮したとはいえないやり方でつくられた、二次創作動画。

私は、二次創作に肯定的な見方を持っています。実際に、二次創作でもすぐれた作品は多く、クオリティの高さゆえに単著として出版された作品もあるわけですから。

問題なのは私の動画づくりのほう。イラストレーターさんたちの努力を踏みにじるアイコン拝借で、昨今の生成AIを巡る議論において、「私は過去の罪を棚上げしました」として額縁に入れて飾られても文句は言えん立場です。法学の学士号持ちでありながら、知財法関連でのこの振る舞い。私の恥は青天井に伸びていき、私の株が上場ゴールのベンチャー企業のように急降下していくのを感じます。

1999年、友人に見せるために小説を書き始め。2008年、24歳から25歳になる段で動画制作者に。生来の病は速度を増し、たどり着きたる40歳。

年寄りの繰り言のようになりますが、私はかっこよくありたかったのです。でも、今は「銃を取り、創る者の戦線へ」に集約されました。もちろん、銃は比喩です。しかしながら、私の感情の源泉は常に後ろ暗さにあり、それは暴力的な兵器でしか形容できないでしょう。

私は尊敬します。創る人を。働く人を。懸命な人を。

そして、私は「模範的存在」でありたいのです。「あのイラストレーターさんのファンはすごい」「あのVTuberさんは同じく前を見据える人が応援している」。私がそれぞれのファン代表だなんておこがましいにも程がありますが、誰かがそう認めないとも限らない以上、恭敬の表現としての自己練磨は、何をおいても成すべきこととなりました。

ひいては、この「意識高い」と言われてしまいそうな、それでも決して無駄にはならないであろう現在の結論にたどりつけたのは、何も生まない鶏になって以降もFANBOXで支援し続けてくれた方々。さらにはSNSで私と温かい交流を続けてくださった方々のおかげです。

40年の生涯で最も悪いかもしれない体調で迎えた誕生日に、私は「報恩」を命題として掲げました。ですが、それはあまりにも自滅的で、自ら朽ちてゆく選択だったのかもしれません。

自分のことも愛してください

同じ日に、VTuberさんとイラストレーターさんから、そうした内容をおっしゃっていただけました。私は果報者です。なれば、助言に耳を貸すことこそが誠意です。

せめて「」になりたいと。「人間」になりたいと。シノペのディオゲネスが探すような、真なる人間とまでは言いません。それでも、獣欲に基づく無計画な生活ではなく、理知と誠実でもって自立を果たし、自らを養い、全体への貢献を行える存在に。

で、こういうこと言うとると、「お前、死ぬんちゃうか」と心配されるくらいに、私はインターネット性欲人間だったわけです。困ったな……。以前のネットタトゥーは、それはもうひどい発言ばかりですよ。人倫が欠如した内容が並んでいるはずです。

かっこよくありたいと思うからには、すなわち「現在進行形でかっこよくない」わけで、ついでに言えば「そう思うこと自体がかっこ悪いの極み」ですわいね。

証明完了と「エクラ*タタン」の皆さんへの心からの謝罪

「お前、重いんだよぉ!」
「お前、長いんだよぉ!」

この2つを示す5,000字超でございました。コメントせずとも高評価やROM同接貢献などをひっそりしていたりする、妖精ムーヴメントが最近の私です。

コメントが嬉しいものとわかっていても、場を白けさせてしまうであろう自らを認識しているからこそ……。

それに、言葉選びも下手なんですよ。「エクラ*タタン」さんのクラウドファンディングに2回参加させてもらったんですが、いずれも大きなリターンを求めないのを選んだんです。もちろん、資力に乏しい面もあるんですが、「そんな物品にこだわりがないんで」と余計なコメントをつけちゃって。

あとから読み返して消そうかなと思ったら、ああ、メンバーの皆さんに拡散されちゃったんですよ。

皆さんね、すごく頑張って、考えてグッズづくりされてるんです。こういうのを作ったら、クラン(リスナー)のみんなは喜んでくれるかなと会議をして、たくさんの想いを込めて作ってるんです。私のコメントって、上記のやつだけだと「グッズ興味ないんすよ」と読み解くしかなくて。

これはもうまったくの失言。障害のせいなんかにしちゃいけない、私個人の考え足りずの発言で、悲しませてやしないかと心配でならんのです。

グッズね、大好きなんですよ。例えば、実家の私の部屋には、今でも競走馬のぬいぐるみがずらりと並んでいます。一番大きいのはナリタトップロード。他には、ランニングフリーとかオグリキャップとかシルクジャスティスとかがいてですね。

私は実家と職場では綺麗好きなんですが、下宿では発達障害の掃除サボりが発動して、今や6畳間が2.5畳間になってます。床は見えません。動ける範囲はコタツの前の座椅子と敷布団。ほかのスペースは九龍城砦のようになった段ボールに侵略されました。で、この最下層に、引っ越してきた当時のウマ娘Tシャツがあるはずです。

そんな状況で、丹精込めてつくったグッズをいただくわけには参りません。「遺跡」が増えるだけなのです。

加えて、私は人生の怠業の果て、この年で貧困層まっしぐら。そらまァ、起業に失敗して8ケタ借金があったころよりはマシになったとはいえ、自らの能力を高めてこなかった報いをさまざまな形で受けております。

大切なこととして、生活者はもちろんのこと、表現者にとっての活動資金は当然に重要で、タイトロープな戦いを強いられることも少なくありません。まして新たなチャレンジをしようと思うなら、どれほど大変か。「誠意は言葉ではなく金額」は、今でも語り継がれる黄金銭闘士の言葉ではありませんか。

もちろん、「応援の気持ちも嬉しい」が真実であるクラウドファンディングで使うべき言葉じゃないかもしれませんが、ここで「10万ドルをポンと出せる経済力」があればと、私は思うわけです。ゆえにこそ、それに等しい投資を実施できる方と、投資をしてもらえる表現者の側との双方に尊敬と祝福を送るのです。

他方、私のようなアクションについて、世間に「弱者男性がバーチャルキャバクラに貢いでいる」という誹りがあることも存じております。私はその意見を受け入れましょう。なぜなら、(うっかり食費さえも削って)イラストレーターさんやVTuberさんを応援することで、私の「ちっぽけなプライド」が保たれ、今や復活を超えて新生とも言える時を迎えたのですから。

ええ、あとは『エアマスター』のジョンス・リーのように「"八極"とは"大爆発"の事だ」な衝撃的作品をものしたいですね。

生業は、時代によってさまざまに生まれるものです。おそらく、私が400年前に生きていても、性欲でよだれを垂らしながら、出雲阿国の官能的なダンスに投げ銭をしていたことでしょう。

ほーら、7,000字を超えたぞ! いつ終わるんだよ! ここで終わろう! 循環器内科へ行くんだ。口だけの謝罪より、今後の行動で示そうぜ、私よ!

最後にひとつだけ。私のこの迂闊さは、良いところもあります。つまり、嘘とお世辞がドヘタなので、良いと思ったものしか良いと言えないし、かわいいと思ったものしかかわいいと言えないのです。冗談を本気で受け止めるような性質だからこそ、この点だけは常に誠実ですし、勝手にそうなります。

もちろん、かわいい女の子は好きです。でも、それ以上に、性別あるいはジェンダーなどがまるで無意味なくらいに、「挑むもの、戦うもの」に尊崇の念を惜しみません。VTuberさんには「人間以外の種族」もいますし、競走馬だってヒト種ではないので、あえて"もの"を使わせていただきました。

そして、私は征きたいし、征くのです。その横へ。その列へ。競うために。勝つか負けるかはわからない。負けじの精神でやるけれど、勝つのが完全な目的ではない。その一瞬の閃光に、私の、理論物理学で示される多様体のような表現困難な意志を託して。