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キレイゴトではすまなかった、すさまじい反抗期の知的障害児と向き合って至った境地

スピとリアルでスピリアリズム☯️✨ココロもカラダもまるっとまるごとマリ真理学のマリエ・セレスティーヌ・サイトウです。

自分の中の暴力という課題

 どうもこの数年の私のテーマは”暴力”だったみたいで、心も身体も結構痛い思いを経験しました。

 今回の総仕上げとも思える経験は、重度知的障害児の息子とのことで、彼は思春期に入った途端ものすごい暴力を発動し始めました。いや、ほんとにすごい。ほんとにすごいです。もちろん壁に穴は開き、ガラスは三ヶ所割れ、テレビは斜めになり、iPadAirも割れました(でも奇跡的にまだ動いています!)。
 そして、わたしはずっと、言葉と態度で受容と共感を持って付き合ってきました。
 でもある日、もうだめだ、これは放置してはいけない。「そういうことを人にしたらこういうことが起きると神経に叩き込まないといけない」とそう思い、とうとう体罰、暴力発動しました。息子を思いっきり引っ叩いたり殴ったり。それによって息子は、今までブレていたものがカチッと合ったみたいでこれはこれでアリという感じがしました。

 2回目は、多分ちょっと微妙だったと思います。私の方も指の関節を痛め、手首も腱鞘炎になりそうになりましたし、足蹴にもしたのが、人が人を足蹴にするってこんな気持ちなのか、となんとも言えない気持ちになりました。

 でも、幸いなることに、息子の父親が近所に住んでいて、全て話すことができ、彼も今まで子どもに手を挙げたことなんてなかった人ですが、気持ちがわかると言ってもらえて、ほんとに救われました。二人でどうするか話し合いながら、預けあって乗り越えました。

そして逆の立場に

 私がキレたのは結局3回で、3回目に息子は家を飛び出し、探すのが大変で、私はその時暴力は金輪際やめようと思いました。その後、1週間以上、息子は父親の家から私の家には帰ってきませんでした。でもある日「ママんち」と言ったというので帰ってきました(父親への負担はすごかったと思います。感謝しかない)。

 でも、すぐに荒れ始め、その日は、どうにか乗り越えたものの、翌日荒れ始めたらもう止められませんでした。わたしは、前の罪悪感もあり、彼の気持ちを受け止めながら対処していたら、私の暴力を思い出したのでしょうか、彼の怒りがマックスになりとうとう私に手を出しました。最初はためらっていましたが、わたしは敢えて、殴ってもいいよ、とやってごらん、と殴られることに甘んじました。その間、私は、自分の弱さを感じ、この状況をどうしていいかわからない気持ち、そして彼がどれだけ痛かったか知ろうと思いました。これが結構後からも痛くて1日経った今も痛いです。
 彼はもう分裂病の如く、すぐに謝ったり、泣いたり、ケロッとしたり、また怒り出したりで、怒り出すとしばらく止まらない。一軒家で良かったと思います。もうこれは、お薬とか外に助けを求めないとかなーと真剣に考えました。そして自分はそういうことから逃げていた部分もあるのでそれも問題だ思いました。

 で、父親に一時預かりとかしてもらい

 今日から自分のスタンスが決まりました!


それは


エリザベス一世👑🏰です!



意味不(笑)


 実はスピリチュアル的に昔のイギリス女王エリザベス1世(こないだ崩御された方ではありません)はいわば私の写身なのです(俗にいう前世の記憶)。

 
 で、わたしは、やっとそのスタンスになれたんです。


受容→暴力→毅然とした高貴な態度


受容期:彼は、同じことを何度も言うし、ご近所に響き渡り声で、叫ぶし怒鳴るし唸るし自分を殴ったり、物に当たるし、すごい力で床を踏み鳴らしたりします。受容の時は根気良く付き合って、尊重すればいつか日の目は見える、と思っていました。でも、それはどこか人ごとの様な半分逃げていた様な感じだったと思います。

暴力期:暴力の時期は、逆に前に出て、人にそういうことをしたらこういう風になるんだということを身体と脳みそに教え込もうと思いました。最初の一回は成功した様に見えました。結局それは続けれるものではなく、ただ私にとってはひとつの必要な過程だったと思います。”暴力”というものを頭から否定していた私のクリアしないといけない問題でもあったのかもしれません。

エリザベス期:今は、根気良く毅然と振る舞うことになりまして、左から大きく右に触れ、真ん中あたりで振動する中庸に様相になったのです。
 でももともと私の個性だったのだと思います。ちょっと威張ってハッキリしている。今はきっぱり「◯◯静かに!」そして黙ったらすかさず「OK👍」を出す。今までの全部を融合した形です。

 その様にしていたら息子はとても落ち着いてきました。私が今までと違うからですね。母性と父性とそして真ん中辺になったのです。まさに陰と陽。

 暴力は、結局、煮詰まった状況を打破するためのカンフル剤にはなる場合もあるけれど問題解決には決してならない。ただ、ここぞという時が皆無ではないと思います。その是非は自分が感じるしかないですね。
 互いに殴られる痛さ、殴る痛さを経験しました。最終的には経験できてよかったです。手首も肩もまだ痛いですが。

 本来私はとても穏やかで心底平和な人間で、根気良く理性的受容的に付き合うのは暴力より得意なのだということを知り、穏やかでいいのならそっちの方が楽じゃん、と思いました。

 あと「真剣に生きろ」という様なメッセージも受け取りました。すぐ俯瞰して見ようとしてしまうので、それはいかんと。

”意識”と”心”と”身体”がひとつであれ、
常に率直で真摯であれと。

 次のフェーズになるまでしっかり
今のスタンス(役割)キープして生きようと思います。

 私の人生には暴力はありませんでした。なので経験したことのない感覚を自分の肌と心で感じることができました。これは私に必要な経験だったと思います。

 そして、
心の暴力と身体の暴力、どちらがより悪いっていうのはない」
という自論をさらに深めれると思います。

 お読みいただいてありがとうございました。

スピとリアルでスピリアリズム❣️ココロもカラダもまるっとまるごとマリ真理学のマリエ・セレスティーヌ・サイトウでした。


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