さかな

長崎出身、東京都在住。学生時代に台湾人と国際結婚、大学を中退し台湾へ移住。20代後半に…

さかな

長崎出身、東京都在住。学生時代に台湾人と国際結婚、大学を中退し台湾へ移住。20代後半に大学を再受験し、学生をしながら事務、家庭教師、接客の仕事をしながら過ごし、現在は会社員。

最近の記事

帰国へ背中を押してくれた人達

私は生徒さん一人ひとりに、 合格すれば、翌年2017年4月には日本の大学へ戻ることを、離婚の計画と合わせて伝えた。 すると、彼らは皆、大賛成してくれた。 ありがたかった。 図らずも、彼らとの出会いは本当に私にとって財産になった。 働き始めた当初、旦那の実家とその近隣が台湾の全てだった私にとって、台湾人は「考え方の合わない、苦手な人種」だった。 レッスンをする際も、表向きの顔で、猫かぶって、ただこなすだけだった。 パーソナルな質問をされても、戸惑いながらも笑い話として話し

    • 一度退学した大学の再受験を志す

      退学をする際、いつかこの門をもう一度くぐるんだ、と言う気持ちだった私。 大学へ出してくれた母への申し訳なさと、物事を中途半端なまま終わらせることの悔しさからだった。 日本でのひとときを過ごした後、私は母や兄が言う通り"大学からもう一度やり直すなら今かもしれない"と思った。 旦那にそれを伝えたところ、 「もう少し待てないのか」と言われた。 「今みたいな生活状況で、あとどれくらい待てばいいの?」 と言うと、それ以上の言葉は帰ってこなかった。 こうして、大学再受験に向けて準備

      • 母との対面

        日本への帰国に際し、日本語の生徒さんたちへ仕事を休むことをお詫びしたが、皆快く送り出してくれた。 夢にまでみた飛行機に乗って、子供たちを連れていざ日本へ。 叔母と母が関空まで迎えにきてくれていた。 到着ゲートで待っていてくれた母から出た言葉、それは「まぁこんなに痩せて」だった。 確かに私は台湾での生活で、いつの間にかガリガリに痩せてしまっていた。台湾に移ってしばらくした頃からずっと胃腸の不調が続いていたのが原因。 久しぶりすぎる母と叔母。私は言葉が出なかった。 母も叔

        • 母と私をつないでくれた人

          日々いろいろあるが、相変わらず睡眠導入剤と抗うつ剤を飲みながら仕事を続けていた私。 そんなある日、大学時代に非常にお世話になっていた神父さんから連絡をもらった。 「お母さんに会って話をしたらどうか」ということだった。 その頃母は、すでに退職しており、四日市にいる叔母のもとに身を寄せていた。 母が私の心配ばかりしていて、一人でいるとどうかなってしまうのではと心配した叔母が、こっちに来ないか、と母を呼んでくれたのだった。 神父さんがつないでくれたおかげで、母と会うことになっ

        帰国へ背中を押してくれた人達

          トイレでの不可解な体験

          私は仕事を始める前から、毎日全身の倦怠感に悩まされていた。 仕事を始めてからそれはよりいっそう酷くなり、いつも背中に鉛の塊を背負っているような、そんな感覚だった。 大病院で検査してもらったがどこにも異常がない。 最終的には、心理的なものなのではということで精神科に通い、睡眠導入剤と抗うつ剤を処方された。 それを飲み始めてしばらくした頃。 ある朝トイレに行くと、陰部に痛みを感じる。 なんだかおかしいなぁ、と思ったが、気に留めなかった。 しかし、それが、たびたび起こるように

          トイレでの不可解な体験

          ヒモになってしまった旦那

          それまでの結婚生活、いろーんなことがあったが、ともかくも私は仕事を始めた。 掲示板で「日本語教えます!」と募集し、完全マンツーマンの日本語レッスンで平日5日間が少しづつ埋まっていき、常時10〜15名程度に教えていた。 給与水準が日本の1/3程度の台湾で、しかもレッスン料も高くつくマンツーマン日本語レッスンを希望する人がいるのかと驚いた。 生徒さんたちと話し合いながらレッスン料を決めるのだが、大体相場は1800円から2400円程度。1時間の単価が高い分、生徒さんがきちんと

          ヒモになってしまった旦那

          旦那の携帯を見てしまって…

          旦那が専門商社に入ってしばらくした頃。 ある休日、子供たちと旦那が寝てしまったあと、私は何とはなしに旦那の携帯をいじっていた。 そして、見てしまったLINE。 そこにはいろんなものがあった。 旦那の母親からの私を追い出せメッセージや、旦那の元カノとのやりとり、また出張先でのデリヘル嬢とのやりとりなど、生々しいものが色々、出てくる出てくる。 私が味方のいないこの家でたった一人で義両親たちと戦っている間、こいつは一体何やってたんだと腹が立って仕方なかった。 「きっと明日は

          旦那の携帯を見てしまって…

          人生で初めてナイフを突きつけられた日

          仕事を始めたはよいものの、私の台湾のイメージは悪かった。 仕事を始めるまでに、本当にいろんなことがあったからだ。 4つに絞るならば、①義両親の過干渉と息子への異常な執着。②旦那の出張先でのデリヘル利用、③旦那の無職生活、④そしてDV。 ①について、悩みが尽きず何度も旦那に「義両親と離れて生活したい」と訴えていたが結局実現しなかった。 まず、二人子供がいるにもかかわらず、義両親の目には長男しか映っていなかった。 例えば。 義両親が時折外で買ってくる孫へのおもちゃ。子供二

          人生で初めてナイフを突きつけられた日

          日本語講師に

          息子が幼稚園に上がり、相変わらず平日昼間は娘と二人で過ごすことが多かった。 その間、娘を連れて近くのプレイルームに連れていったり、一緒に買い物へ出かけたり、娘をなるべく外に連れ出す工夫をして過ごしていた。 そんな毎日が1年ほど続き、そろそろ娘も幼稚園に入れる年齢になってきた。 そのタイミングで、私は仕事を探し始めた。中国語に自信がなかった私は、大手の日本語学校へ履歴書を持っていったが、大卒でない私は門前払いだった。 そこで私は、日本語家庭教師と、生徒さんをつなぐ掲示板

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          子供達との格闘

          度々体を壊す娘を病院に連れて行く日々。 片方は赤ちゃん、もう片方は1歳児。 てんてこ舞いだった。 また、息子については、何かにつけて義両親が外へ連れ出そうとする。 「子供二人とも見るのは大変だから」と、連れて行かれるのは毎度息子のみ。 義両親との適度な距離を保つために、我々夫婦は息子を保育園に入れることにした。 息子との時間を過ごせなくなる義両親からは猛反対の嵐にあったが、最終的には反対を押し切り保育園に入れた。 そして、私はといえば、昼間は娘を見ながら家事をし、夕方以

          子供達との格闘

          2度目の台湾での出産

          息子の時と同じ病院での出産。 1回目が帝王切開だったので、必然的に娘も帝王切開。1度経験していた私は、出産翌日から精力的に動いた。 その結果、なかなかお腹の傷が塞がらず、一度塞がりかけたお腹の傷がまた開いたりと、回復に時間がかかった。いくら若くても、出産はやはり大変だ。 また、生まれた娘はあまり体が強くなく、 しょっちゅう中耳炎やらインフルやらにかかっては重症化・長期化し、いつも何か薬を飲んでいるような状態だった。 あるときには、娘が40度の高熱を出し、病院にかかりただ

          2度目の台湾での出産

          台湾での生活

          毎日憂鬱で仕方がなかった。 ただでさえ、息子を取られるのではと思うほどに執着心の強い義両親に息子を預けて日本で過ごしてしまった半年間を経て、私と彼は台湾へ戻ったのだ。 彼の仕事は、飲食店スタッフを次々と転々とした。 台湾人はよく転職するとはいうが、それにしても頻度が高いことははじめは少し気になったが、数ヶ月スパン、短いところは1、2ヶ月のちょうド短期であまりに点々とするので感覚が麻痺していた。 彼は、私と付き合うようになって「これまではチャラ男だったが君と出会って変わった

          台湾での生活

          大学復学、2度目の妊娠

          長男を出産し、5ヶ月ほどが経った頃。 私は彼と共に日本へ戻ることを決意した。 私は大学へ復学し、旦那は日本で仕事を探す。 その間息子は彼の両親に預け、日本での生活が整ったら息子を台湾へ迎えに行く。そう決めた。 その年の後期から大学に戻った。 昼間は大学で学び、それ以外の時間はビアレストランでアルバイトをして、なかなか忙しい毎日だった。 一方、彼はなかなか就職先が見つからなかった。仕方なく、居酒屋でのアルバイトに明け暮れる毎日。 これではいつになっても息子を迎えにいけない

          大学復学、2度目の妊娠

          犬猫のように可愛がられた次男

          離婚して、父の元へ行った次男は、 何度も私や長男と一緒に過ごしたいと子供心に思ったそう。 それを見て、心を痛めた優しい祖父は、何度も「母親のところに戻してあげたら」と提言してくれたそうだが、祖母や父が離さなかったそうだ。 次男は、かつては母や私、長男も暮らしていた父の実家で育てられた。 正しい愛情を注がれず、いつも犬猫のように可愛がられた次男。 一番多感な中学生の頃、父が再婚するというのを噂に聞いて、それが真実になったことにショックを受けたようだ。 彼に、時に優しく、時

          犬猫のように可愛がられた次男

          兄の発病

          少し時を遡るが、私達三兄弟が再会したのは私が高校2年の夏。 長崎市内の大学に通う次男とはそれからちょくちょく映画を観に行ったりご飯を食べに行ったりと、何度か会っていた。 高校2年の冬のことだった。 次男に、「おばあちゃんに会って欲しい」と言われた。おばあちゃんとは、つまり父方の祖母だ。私に会いたがっているという。 私は当時17歳。父親ともまだ当然再会していない。 年頃だった私は、母を苦労させた父や祖母に対して嫌悪感でいっぱいで、祖母に会うなんてそんな余裕は全くなかった。

          兄の発病

          「長男」へのこだわり

          長男を出産し、病院での一週間を経て帰宅した私。 ほんの一瞬の泣き声にも、毎度毎度義父母が飛んでくるのには正直疲れた。 私の子供でいながら私の子供でなく「この家」の子だという感じがして、心地悪かった。 それもそのはず、彼の家では男尊女卑の観念が非常に強かったのだ。 彼には二つ年下の妹がいるが、彼女は精神疾患を患っている。詳しい病名を聞くことはなかったが、おそらく統合失調症ではないかと思う。 原因は、母親の愛情不足。 30代になってもなお、母親から愛情を受けることがなかった

          「長男」へのこだわり