足相

 以前、怪談番組のMCをしていた時に、出演者の住職さんから足相を見られたことがある。「見られた」と言うのは、そのお寺の中での撮影だったために靴を履いておらず、たまたま私の足が「見えた」住職が、何の気なしに「僕は足相を見ることができるんです」と教えてくれたからである。そして、私の足を見た住職は『あ~』みたいなことを口走った。私はその反応が気になって、足相の診断結果を教えてもらった。

美に対する執着が強い

 住職はそう言った。しかし私はあまり合点がいかなかった。とりわけオシャレにうるさいわけでもなく、美容にこだわるタイプでもない。服はファストファッションが多いし、化粧品もどっちかと言うと安いものを買う。整形願望もないし、あと部屋もそんなにキレイではない(自爆)。しかし住職が言うには、そういう類の美意識ではないようで、例えば歳を取ったら自然とシワとかたるみが増えたり、髪は白くなったり少なくなったりするような「老化」による若い時期とのギャップに耐えられなくタイプだと言う。自分が思う、自分のあるべきカタチとの乖離が生まれた時、しんどくなってしまうのだそうだ。

 そう言われるとちょっと思い当たる節がある。私は「こうあるべき」「こう見られたい」のような欲求と言うか願望が比較的強いと自覚している。よく言えば「向上心が強い」「意識が高い」とかになるのだろうけど、実際はその理想は叶わないことも多かったり、20代くらいまでの柔軟性も減ってきたりして、「意固地」「追い込みすぎる」という循環に入ってしまっていることもあるように思う。

 なぜ、半年以上前の出来事を今書く気になったかというと、新しい環境に来て、新しいことを始めた私は、住職に言われたその足相についてふと思い出したからだ。

 35歳の私に対して周りは、どんな新しいことを始めたとしても「新人」とは見てくれない。それは「経験」があるから。同じ仕事でなくても、この年齢の人だったら「これくらいのことはできる」と思われるのが普通。今までの経験や知識を生かして、より早く仕事を覚えて、順応していくことが望まれる姿である。でも正直、全く知らないことや分からないこともある。出来ないことだってたくさんある。とびぬけて複雑で難解だったり、専門性の高過ぎるものだったりしたら「できません」と言える。だけど、できそうな感じのことが出来なかった時に私は、ものすごく落ち込んで、自己嫌悪になってしまう。きっとそれは「出来るべきである自分」が崩れてしまうからだ。プライドが高いとか完璧主義という表現もあるが、私は住職に言われた「足相」が全てを言い表しているように思った。

私の中の「美」は「理想の自分でいること」。

 しかし、やはりそれは時に自分を苦しめる。エスカレートすると、住職に言われたように、加齢に伴って、どんどん自分を嫌いになってしまう恐れもある。だからその執着が少しでも薄まるように、この新しい環境の中でたくさん恥をかいて、苦い経験を積んで、泥水すすって、出来ない自分を認められるようになろうと思う。もちろん、出来るように努力しながら。

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