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ある本屋で、コーヒーと。7
続きものです。
6からお読みください。
本屋のイベントスペースはカフェと反対側にあった。小さなステージと、20名ほどが座れる長椅子が並べられていた。サイン会だけではなく、ちょっとしたトークも行われるらしく、ステージには2つ高いスツールが準備されていた。本屋の店員が行ったり来たりしているだけでまだ誰も来ていなかった。サイン会の場所を確認した後、私は【待津野ひまわり】の特設コーナーへ行くと、2人ーサラリーマン風の男性とフリーターっぽい女性ーが本を手にしていた。男性は本を棚に戻し、女性は本を持ってレジの方へ歩いて行った。
まだ1時間ほど時間がある。私はカフェカウンターへ向かった。俯きがちでコーヒーのSを注文する。かつての習慣が蘇った。
「にひゃくきゅ…」
値段を聞く前にキャッシュトレーに300円を置く。流れは知り尽くしている。
「いつもありがとうございます。さくらちゃん」
名前を呼ばれ、ハッと顔を上げた。レジカウンターを隔てて、アオイ君がおつりの10円を渡そうとしていた。そう言えば今日は水曜日だった…。ひまわりさんのサイン会で頭がいっぱいで考えが回らなかった。
ー嬉しい。
条件反射としてはそう思ったが、改めて脳内で「あぁ、いたのね」くらいの反応をするように指示が出たようで、私は澄ました顔でおつりを受け取った。
「サイン会、来てくれたんだ?」
アオイ君はまるで自分のために来てくれたように嬉しそうな顔をした。私は「えぇ」と軽く頷いて、コーヒーを受け取るために横のカウンターへ移動した。コーヒーはお願いしなくてもフタつきで、紙のカップには
「THANK YOU」
と書いてあった。カフェは比較的空いていた。二人掛けのテーブル席に座り、コーヒーを一口飲んだ。熱さのせいか、喉が焼けるような感覚がした。食道を熱くて苦い液体が流れていく。私は待津野ひまわりの本を開いた。
桜は儚く散るから尊い。
向日葵は太陽を求めるから力強い。
私は死を覚悟しているから生きている。
そうやって季節が巡り、時は流れる。
見上げた空は底抜けに澄んでいて宇宙まで見えそうだった。
だけど何故か私の目は涙で滲んでいた。
その時、思いもよらない感情が胸を駆け抜けていった。
『会いたい』
失うことなんて想像できない。
いつまでもいつまでも私のそばにあると信じていたもの。
握りしめていると思っていたのに、手のひらを解くと、何もなかった。
私の耳に、優しくて、温かくて、切ない声が響くだけだった。
「まもなく館内にて、待津野ひまわりさんサイン会を行います」
次のページをめくろうとしたとき、館内アナウンスが響いた。その詩のような物語の始まりに、どっぷりと浸かりかけた瞬間だったから、サイン会を放棄しかねなかった。しかし間もなく、夢にまで見たひまわりさんに会える。本を読むのは著者本人に会ってからでも遅くはない。まだ温かいコーヒーを持って、会場へ移動した。
長椅子にはほとんど人が埋まっていて、立っている人も10人ほどいた。私はゆっくりと前の方で見たかったので、絶妙にお尻3分の2ほど空いたスペースに座っている両サイドの人にお辞儀をして少しずれてもらい座らせてもらった。私の読み通り、ひまわりさんの認知度はちゃんとある。私は彼女の何物でもないが、それが誇らしかった。司会者であろう本屋のスタッフさんが少し緊張した面持ちでマイクを持って登場した。
「まもなく、BOOKSTORE大賞に入賞された待津野ひまわりさんのサイン会が始まります。その前に少しお話もお伺いします」
時計に目をやると、開始時間まで1分を切っていた。やっと会える。ひまわりさんのイメージは出来上がっている。前髪はパッツンで黒髪、サラサラヘア―、丸眼鏡を掛けているはずだ。と、ふいに司会者が立ち上がった。
「お待たせしました。ご登場いただきましょう。待津野ひまわりさんです!」
会場は拍手に包まれた。そして、ステージの袖からゆっくりとひまわりさんが歩いてきた。それは予想していたフォルムとは正反対の人物だった。だからと言ってガッカリしたわけではない。
今の私の状態を正確に表す言葉が存在する。
「開いた口が塞がらない」
何度目をこすっても、瞬きをしても、二の腕をつねっても、ステージに立っているのは・・・
アオイ君だった。
私は真っすぐにアオイ君を見つめていた。アオイ君と目が合った。
「実は、彼はうちのスタッフなんです!」
司会者が得意げに言った。お客さんは驚きとも称賛とも取れるような反応をした。そして、アオイ君の視線は司会者へ向いた。
ーアオイ君が、待津野ひまわり?
公式は頭に入っているのに、どうしても解けない数学の問題のように、目の前で起こっていることが理解できずにいた。いや、理解しているのかもしれないが、受け入れられずにいた。遠くから、司会者とアオイ君が話す声が聞こえていた。
彼の本名は「日向 葵(ひゅうが あおい)」、ペンネームの由来はもちろんその字を並べ替えた「向日葵(ひまわり)」であり、さらに彼の生まれが向日葵の咲く少し前の7月1日なので「向日葵を待つ」という意味で【待津野ひまわり】となったこと、勤務するカフェで人物観察をしてそれを作品に取り入れていたこと、たまに自分や自分の作品をエゴサーチして読者層や感想を調査していることなど、かなり赤裸々に話していた。彼、つまり、ひまわりさんはいつもの笑顔で司会者からの質問に丁寧に、そして時に笑いも交えながら答えていた。私は彼が自分が崇拝している作家とはどうしても思えなくて、他人事のように上の空で聞いていた。
私はね、どこにいても、誰といても、染まらない。
家族、友達、学校、職場、どんな組織に属していても
私は孤独を感じてしまうんだ。
一緒に笑ってみたよ、一緒に泣いてみたよ。
たくさん話をして、同じ作業をして、苦楽を共にしたよ。
だけど、私とみんなの間を隔てている薄いガラスが割れない。
そのうち空気もなくなって、太陽も当たらなくなって
もうじき私の身体は枯れてしまうかもしれない。
でもね、そういう自分がたまらなく愛おしいんだよ。
気付いたんだ。
みんなが孤独なんだって。
それに気づいていない人たちだけが幸せなんだって。
教えてあげないよ。
私は孤独をひとり占めしたいから。
「それでは只今よりサイン会に移ります」
司会者がそう告げると、スタッフが手際よくスツールを片付け、テーブルを準備し始めた。
私はトークを聞きながら、『向日葵が枯れる時』の一節を思い出していた。自分の孤独と共鳴できる本に出会えたと夢中で読んだ。孤独を抱えた少女の哀しい物語と思って読んでいたら、素敵なラブストーリーになった。まるで自分が主人公になれたような錯覚を起こし、救われた気持ちになったのだ。そう、私は、ひまわりさんの本のお陰で生きていると言っても過言ではない。
アオイ君は用意されたイスに座って、油性ペンを指先で回転させながら待っていた。30名ほどの待津野ひまわりファンが列を作り始めた。私は流れに乗って動かされ、5番目に並んでいた。
「ありがとうございます」
だんだんアオイ君の声が近づいてくる。シャ、シャ、っとサインを書くペンの音が聞こえてくる。私の前の人は50代くらいの女性で、今、彼にサインを書いてもらっている。女性は「頑張って下さいね」と言って去っていった。
私の番になった。どうしていいか分からなくて、自分の足元を見ていた。列を仕切っているスタッフに促され、テーブルの真ん前に立ち、恐る恐る顔を上げた。そこには私を見上げる彼の笑顔があって、何かちょうだいと言わんばかりに両手を前に出している。彼は何が欲しいと言うのだろう。プレゼントなんて持ってきていない。
「本、どうぞ」
ハッとした。そうか、サイン会だった。私は『向日葵が枯れる時』を慌てて差し出した。彼は慣れた手つきで表紙をめくり、ペンを走らせた。
ーさくらちゃんへ
彼はそう書いた。そして、何と書いてあるのか分からないサインを書いた。その横に『Later 🍯』と書き、最後に向日葵の絵を添えた。彼は表紙を閉じ、「いつもありがとう」と言って、本を私の方へ向けて渡してくれた。すると私の前に、彼の、ひまわりさんの右手が伸びてきた。私は手を出そうとして、手の平が汗でしっとりしていることに気付いた。それが恥ずかしくて、何度も服で拭いてから、ゆっくりと右手を差し出した。
「○○○○」
彼は口パクで何かを言った。私は何を言ったかハッキリと分かったけど、信じられなくて分からないフリをした。私は深くお辞儀をしてその場から去った。
つづく。
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