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ある本屋で、コーヒーと。5

続きものです。
からお読みください。

 ふたりの時が止まった。
 その瞬間が永遠に思えるほど二人は強く見つめ合った。 
 私は突然、あまりの痛さに目を開けることが出来なくなった。
 両手で顔を覆い、しばらく身悶えていた。声も出せない程の痛み。

 どれくらいの時がたっただろうか。
 ようやく目を開けた私は窓に映る自分の顔を確認した。
 すると、私の目に、正確には瞳孔に、彼の姿が焼き付いていた。
 360度どの方向を見ても、そこにいるはずのない彼の残像が映る。
 彼は私に、刻印を押したのだ。一生消せない罪を背負わせるために...。

「そういう、君は誰なの?」

 私の目には、彼の残像ではなく、生身の彼が映っていた。彼は【待津野ひまわり】の小説に登場する彼と同じように真っすぐに私を見ていた。私が何と答えるか楽しみにしている、まるでクリスマスプレゼントを心待ちにしながら眠りにつこうとしている、少年のような表情をしていた。こういう時、ウイットに富んだオシャレな返しが出来たらいいのだが、私の頭の中には、一つの答えしか浮かばなかった。

『魔女よ』

 言えないよ、魔女だなんて。小説と同じセリフなんて。私は降参した。

「松野、さくら、です」

「まつの、さくら、ちゃん」

 噛みしめるように彼は言った。私は無意識のうちに慌てていて、【待津野ひまわり】とは漢字が違うことを聞かれてもいないのに説明した。ただの、松野。松ぼっくりの松に、野原の野。だれも気にも留めない名前。だけど、ひまわりさんの本と出会ったとき、私は姉妹みたいに感じた。漢字は違うけど名字の響きは一緒で、おんなじ花の名前。だから本を手に取ったんだ。

『私を見つけて』

 光すら、一切見えない真っ暗闇の中で私は叫びながら彷徨っていた。
 自分が歩いているのか走っているのか、
 上を向いているのか下を向いているのか、それすら分からない。
 ゴトッ、っと足に何かが当たって、私はその何かを地面を這って探した。
 ようやく探し当てて、手に取った。その感触を私は知っていた。
 ーーー本。
 その懐かしく、どこか柔らかで、古い木の香りがする本を抱きしめながら
 いつの間にか私は眠りに落ちていた。

 そう、あの時、ひまわりさんの本は「私を見つけて」と念を送っていた。それは運命だと、思いたかった。私は表紙をそっと撫でた。

「待津野ひまわりと似てるね」

 いつの間にか彼は私が外したはずの眼鏡を掛けていた。

「桜は向日葵より先に咲くから、さくらちゃんがお姉さんかもね」

 お姉さんなんて恐れ多い。でも、私が密かに感じていた名前の共通点を彼もすぐに見つけてくれたことが嬉しかった。彼はコーヒーを静かに飲んでいた。その姿を見て、私は我に返った。私の質問がなかったことになっている。聞かなければ。

「あの・・・あなたは?・・・名前」

 彼はコーヒーカップをそっとテーブルに置いて、身を乗り出して顔を近づけた。そしてちょっと意地悪な顔をして言った。

「知ってるくせに」

 私は目を見開いた。何なの、この人。魔法使いなのか。いや、やっぱりバレていたのだろうか、私があの日、あのカフェで、後ろの席に座っていたことを。この本を持ち出して逃げたことを。そうならば、私にもいっそ刻印を押してほしい。もう彼の姿を一生見ることができないように、罪の印を残してほしい。私は身体を固くして、下を向いて、彼の次の言葉を待つことしかできなかった。

「アオイ。僕は、あおい。知らなかった?」

 そう言って彼は鞄の中から、5cmくらいの金色のプレートを取り出した。それはカフェの名札だった。確かに「AOI」と書かれていた。まるで空気栓を外されたビーチボールのように、全身の力がふにゃふにゃと抜けていくのが分かった。そんな私を見て、アオイ君はとても満足そうにニコニコしていた。その笑顔につられて、私も笑っていた。

 でもきっと他人が見たら、八の字眉の困った顔にしか見えないだろうけど。
急にお手洗いに行きたくなって、彼に一言言って席を立った。トイレの狭いスペースに囲まれると、大きなため息が出た。私は不思議と、得体の知れない大きな安心感に包まれていた。ポケットに入っているスマホを取り出して、インスタを開く。今日もまた私の投稿に1つだけ「いいね」が付いていた。あの、ひまわりの画像をアイコンにした誰かさんが、本とコーヒーの写真にハートマークを付けてくれている。私はもう訳が分からなくなって、髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回しながら、足をドタバタ鳴らした後、身体を小さく小さく折りたたんで丸まって、目を閉じた。

 どこか遠くで誰かが私の名前を呼んでいる。誰かが私の肩を揺すった。
 目を開けるのが怖かった。あの暗闇に囲まれるのは、もう嫌だ。

 『大丈夫。起きて』耳元で声がした。
 『いやだ、いやだ、いやだ・・・』私は両手で自分の顔を覆った。
 『いつまで逃げるつもりなの。自分の殻に閉じこもるのは雛のすることだ』

 コツコツコツ・・・

 頭の中で、卵の殻にヒビが入っていく音が響いた。
 誰かが私の中に入ってこようとしている。
 こんなに硬くて、分厚い殻で覆ったはずなのに。
 何者かに汚されるくらいなら雛のままでいい。
 ずっとこの中に守られて生きていきたい。

コンコンコン・・・

「入ってます?」

 誰かがトイレのドアをノックした。私はハッと顔を上げ、急いでトイレから出た。待っていた女がすれ違いざまに舌打ちした。先日カフェでアオイ君と一緒にいた女に見えて振り返ったが、背格好もヘアスタイルも全然違った。ただ、女が歩いたあとに残る香水の匂いは同じだった。

 私はトイレから席までゆっくり歩いた。遠目から彼を見ると、本を読んではいなかった。パソコンを広げ、ものすごい速さでキーボードを叩いていた。彼は大学生だと言っていたから、論文か何かを書いているのかもしれない。その顔はいつも見る優しい表情とは違って、鬼気迫るものがあった。私がテーブルのそばまで来ても気付かないくらいに。

「論文、とか?」

 私は立ったままで聞いた。彼は顔を上げ、いつもの笑顔で頷いてから、パソコンをパタンと閉じた。あっ、という顔をした私に彼は言った。

「あと少しで終わるから大丈夫。それより・・・」

 彼はテーブルの上の、【待津野ひまわり】の本を手にして、予想だにしないことを言った。

「これ、どうしたの?」

 私は質問の意味が分からなかった。どうしたって?本屋で買った・・・いや違う。この本は、私があのカフェで、勝手に持ち帰ってしまった本。彼の本。私と彼を繋げるたった一つの糸。たった今、その糸は切れてしまった。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のようだ。自分だけが彼を独り占めしようとしたから、糸は切られ、私は地獄に落とされたのだ。何も言えずにただ立っていた。どこか一点だけを見つめているようで、何も見えてはいなかった。彼がどんな表情をしているかも、自分がしている表情すらも分からない。

「ねぇ、さくらちゃん」

 彼に名前を呼ばれて、ハッと我に返った。その音の響きには叱責や軽蔑が含まれていなかった。恐る恐る私は彼を視界に捉えた。

「これ忘れてた?僕のだよね?」

 なくしたと思ったから、よかった~などと呟きながら、嬉しそうに本を手に取り、ページをめくっている。私が盗んだなどと微塵も思っていないように見えた。彼が言うには、よく本をなくすらしい。あと、人に貸したまま返ってこないこともあるようで、今回もその類だと思い込んでいるようだ。私はその様子をただぼんやりと見ていた。本当のことはやはり言えなかった。

「あ・・・アオイ、さん」

 初めてその名前を呼んでみた。声が裏返っていないか心配になったが、彼は名前に反応し、いつもの笑顔で応えて、私が何を言うのか待っている。

「帰ります」

 これ以上、いられなかった。いてどうなる。本当のことを何ひとつ言えない自分に、本当のことを何ひとつ気付かない彼に、どうしようもなく苛立っていた。鞄を持って、その場から立ち去ろうとしたその時。

「水曜日、会えるよね?」

 私は振り返った。

「さくらちゃんを待ってる」

 私は何も答えなかった。
 カフェを出た瞬間、涙が溢れてきた。涙を流しっぱなしで私は歩き続けた。

つづく。

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