ロマンチシズムと失意の8月
夏が終わりを告げる。
今年の夏も、コロナの夏。
8月は初っ端からコロナに感染し自宅療養。
軽症だったけど、もし酷くなったら…と不安はずっとあった。
とは言え、お盆前には問題なく復活し、九州から遊びに来ていた父と東京観光が幕を開ける。そのあと、毎年恒例の富士登山だ。
わたしは父が還暦となった60歳から毎年、一緒に富士山に登っている。初期の頃は富士山経験者の父の友人が付き添ってくれたり、近年は従妹や私の友人を参加したり、二人きりだったり、メンツは変わりつつもかかさず登ってきた。コロナ全盛期の2020年は富士山が閉山していたのでスキップしたが、去年も登れたし、父が68歳の今年も登るつもりで計画を立てていた。
去年の様子はこちら。
通年は混雑期を避けて登っていたが、今年はペルセウス座流星群がお盆にMAXとからしくて、星が大好きな父はそれを富士山で見たい!!と言いだし、仕方なくハイシーズンに登ることになった。雨のように流れ星が降ってくるからとか言って。なので事前に山小屋を予約し(実は富士山の山小屋は初めて)、すべての準備は整っていた。
なのに…
台風である。
メアリーとかいう名前のそれが、じわりじわりと近づいてきているというニュースはのはいやが上にも耳に入る。前乗りした父とはとバスで東京めぐりをしている時にも、常に話題はそれだ。
いけるかな
いけるやろ山の上は。
今までも悪天候を退けてきたけん。でもヤバそうやぞ。
みたいな会話をしながら、結局当日になってみないと分からないよね、と堂々巡り。だが今いる東京よりも富士山は西にあり、台風はそちらからやってくるという。
結論。
無理して登って何かあったら怖い。そこまでして登る必要はない。また登ればいい。という結論に至り、断念。
ホテルや山小屋はキャンセルしたが、時間と借りたレンタカーだけはあるので、台風の来ないところ、ペルセウス座流星群を見れる場所へと北上した(富士山に一緒に行く予定だった友人も含め3人で)。行きついたのは福島、猪苗代湖。
しかしお盆は日本各地天気が悪かった。台風は免れたが、空は曇天。急遽取った、とっても老舗の、うん、とてもノスタルジックな旅館から真夜中に抜け出し、山の中にある駐車場へ。
しかし満月だったから明るいのと、雲が多いのとで、空がお出ましにならない。長いこと空を見上げて首が痛くなってもう帰りたいと思っていた矢先に、ピュン、と、たぶん、流れ星が。
わたしは2つほど見たところで帰ろうと言ったが、父は譲らない。もう少しもう少しと、首が麻痺しそうになっても居座ろうとする。
最後に3つくらい流れ星ラッシュを見届けて、ようやく旅館に帰ることができた。心底嬉しかった。流れ星を見た嬉しさよりも、布団に再び潜り込むことができることのほうが。
あぁ私の中にあるロマンチシズムは消え失せたのだろうか。
そういえばもうずっと現実としか向き合っていないような気もする。妄想は妄想であって実現する可能性は限りなく低い。毎日マスクをして、人との距離を保って、気付いたら心の距離も離れて、一人で過ごすことに慣れた。寂しいと思わないのは、そう思うことをやめたからなのかもしれない。
星を見て美しいと思ったり、流れ星に願い事をしたり、まだ見ぬ王子様を思い描いたり、明日運命が変わるような出来事が起きると想像したり、そんなことはもう随分していなかったような気がする。
首が痛くて星どころじゃなかったお盆のわたしが、今こうして振り返ると、ロマンチシズムは人生において重要な要素であると思える。そしてそれをいまだに失わず、ただペルセウス座流星群が見たいがためだけに(周りを巻き込んで)福島に出陣できる父は敬服に値するのかもしれない。
翌日は晴れのち曇りといった塩梅の猪苗代。
東京へ帰ってきた。
帰ってきた頃が一番台風のピークだったけれど、みんな元気に戻ってこれた。
翌日、東京最終日の父と台風一過の炎天下の中、小江戸川越へ。暑すぎて死ぬかと思った。
そして父は元気に(一旦)九州へ帰った。もう一度、シーズン中に登ると宣言して。
富士山の閉山は9月10日まで。
それまでに行けるタイミングを探っていた。
はじき出したのは、9月1日~2日。ここであれば、わたしのスケジュール的にもギリ行ける。父はもうリタイアの身なので、すぐさま東京へ来る算段を付けて意気込んでいた。再び山小屋とレンタカーを予約し、準備を整えた。
だが。
8月30日。
父からの着信。
祖母がコロナ陽性になり、富士山を断念せざるを得ない状況だと告げられる。
2022年の富士登山が絶望的となる。
不思議なものだ。
誰に決められたわけでも、それをやらないと不幸になるわけでもないのに、どうして今年富士山に登れないことを「悔しい」と思ってしまうのだろう。どうせ登ったら、キツイ、つらい、何やってんだろ、苦しい、と思ってしまうのに。だけど達成感というものがやっぱり勝って、中毒症状みたいなものを引き起こしているのかもしれない。いつの間にか出来上がった毎年のルーティーンに対して、義務とか、義理とか、勝手に感じているのかもしれない。
もしかしたら、そこにロマンチシズムがあるのかもしれない。
だから、失意を覚えたのかもしれない。
そんな8月だった。
来年は、のぼる。
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