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"見えない悪意はそこにある" 透明人間 (2020) (ネタバレレビュー)

ある真夜中、オーシャンビューの綺麗な豪邸で女は目を覚ます。横には彼氏と思われる男が寝ている。こんな綺麗な豪邸で暮らす2人はさぞかし順風満帆なのだろうかと思いきや、彼女の顔は不安と恐怖でいっぱいだった。その後、彼女は音を立てないように準備していた荷物を持って豪邸から出て行く。彼氏を薬で眠らせた上で、スマホと連動した監視カメラで監視するという細心の注意を払って…。

この冒頭のあらすじだけを読んでH・G・ウェルズのSF小説やユニバーサル・モンスターズに登場する名キャラクターである透明人間に結びつく人はなかなかいないのではないだろうか?2020年版「透明人間」はそんな古典的なホラーアイコンを現代的に解釈し、新たな恐怖を巻き起こす映画だ。今この時代に透明人間を復活させるためにリー・ワネルは何をしたのか?それは男性の加害性と支配欲に傷つけられてしまった女性の誰にも理解されないような苦しみを描く事だ。

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今作の主人公であるセシリアの人生は彼氏のエイドリアンに支配されていた。光学分野の権威であるエイドリアンは思い通りにならないとすぐ暴力を振るい、彼女をコントロールしようとする完璧主義者だ。自分の気に入った服を着せ、自分の好きな話題の会話をさせ、自分の子供を産ませようとする…そのおぞましいまでの支配欲や束縛にセシリアは肉体的にも精神的にも追い詰められていく。彼女が一身に受ける事になるDVや男性社会的な支配、ミソジニー的な価値観は現代を生きる女性にとって切実過ぎるテーマだ。

そんな彼の執拗な支配と暴力に苦しめられたセシリアは前述したような脱出を試み、彼の追跡を逃れるために姉の親友である警察官の家に匿ってもらう。しかしいつ居場所を突き止めてくるか分からない…ポストに届いた手紙を取りに行くこともままならない程にセシリアはエイドリアンの影に怯え続けていた。だが事態は呆気なく好転する。多額の遺産を彼女に相続させるという遺言を残して、エイドリアンが自殺したというのだ。これで安心して日常に戻れると誰もがそう思っていた。しかしセシリアはにわかに信じられないような気持ちを抱えていた。

そんな彼女の不安は少しずつ具現化していく。誰もいないはずなのに視線を感じる、鞄に入れておいたはずのポートフォリオが無くなる、突然気を失ったかと思えば体内からエイドリアンに使った薬物が検出される、洗面台に脱出した時になくした薬のケースが置いてある、見えない力に襲撃される…数々の不可解な現象と豪邸に残された光学スーツからエイドリアンは生きていて、優れた光学技術を使って透明になっているとセシリアは確信する。しかし自殺した人間が生きていて透明になれるという話を信じてくれる人は誰もいなかった。

そしてセシリアはどんどん孤立していく。送った覚えのないメールによって姉と絶縁状態になり、匿ってくれていた警察官の娘が突然目に見えない力によって殴られてセシリアのせいにされてしまう。そして誤解を解こうとエイドリアンの豪邸で見つけた証拠について姉に話そうとすると宙に浮いたナイフが姉の喉を切り裂き、セシリアは殺人容疑で現行犯逮捕されて精神病棟へ移送されてしまう。しかもここで重大な事実を知らされる事になる。なんとセシリアはエイドリアンの子を妊娠していたのだ。彼に内緒で避妊薬を服用していたにも関わらずだ。姿が見えなくなった事でエイドリアンの猟奇的な支配欲が更に醜悪でおぞましいものになっていく。

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このようにセシリアが精神的に追い詰められて孤立していく様は誰にも理解されないDV被害者達の苦悩をどうしても連想してしまう。身体的にも精神的にも傷ついたDV被害者は常に見えない恐怖に怯え続けている。そんなDV被害者を周囲の人々は支えようとするのだが、DV被害者の不安定な精神状態はそんな人々を困惑させ、遠ざけてしまう。そしてどんどん孤立してしまうという悪循環に囚われる。真の意味で被害者の痛みを理解する事、そして壊れてしまった精神を立て直す事は相当な覚悟と時間が必要なのだ。また女性が男性の悪意ある眼差しに晒されていても誰も気に留めようともしないという社会構造も連想する。例えば痴漢やストーカーなど女性達がいくら被害を訴えようとも見て見ぬフリをしたり、被害者を責める人もいる。そんなセカンドレイプを容認する不健全な社会や悪意を今作は透過させずに鏡のように反射させようとしている。なんと巧みだろうか。

そしてラストもまたなんともいえない余韻を残す。エイドリアンは全ての事件を協力者だった兄になすり付け、セシリアに誠実さを誓おうとする。セシリアはその誓いを受け入れる…かと思いきや光学スーツを使い、エイドリアンを自殺に見せかけて殺すのだ。一見すると自分を苦しめてきた男を殺してすっきりしたような展開に見えるだろう。もちろんそういう一面もあるのだが、殺した後の彼女の表情は決して晴れやかなものではない。周囲の人々を傷つけ、姉を殺され、望んでいないのに妊娠させられ、世間は誰も味方してくれない…一人の男と社会によって人生を滅茶苦茶にされた彼女はこれからもこのおぞましい事件と向き合わなければならない。それでも彼女はしっかりとした足取りで豪邸を出て行く。冒頭のように怯えてなどいない…そこに少し希望を見出せる。ようやく光が見えかけたところで終わるという塩梅が今作の味わい深さを際立たせている。決して安心など出来ない地続きの問題なのだ。

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そんな女性を取り巻くおぞましい悪意や恐怖をリー・ワネルの脚本や演出が増幅させていく。まず見事なのがセシリアが孤立していく様をネチネチと嫌らしく積み重ねていく神経質な脚本だ。「エスター」や「パーフェクト・ブルー」、「アンセイン  狂気の真実」などサイコ・サスペンスは大好きなジャンルでよく見ている方だったが、今作はかなりキツい部類だと思う。透明化したエイドリアンの秘密を探るべく地獄のような思い出しかない豪邸に戻らざるを得ない展開や愛する人々が一瞬にして敵になってしまう展開、そして精神病棟に閉じ込められて妊娠を告げられる展開…精神的にキツくて嫌な展開ばかりでゾクゾクしてしまった。

またホラー演出もとても嫌らしくて恐ろしい。誰もいない空間や隅にカメラが向き、何事もなかったかのようにセシリアを捉えるという意味深なカメラの動きが何度も繰り返され、いちいち身構えてしまう。何かが出てくるのをじらされる時間ほど怖いものはない。そして遂に現れた透明人間のビジュアルも大変不気味だ。最新テクノロジーで作られた光学スーツは至る所に小さなレンズがひしめき合い、光にあわせてうごめいている…集合体恐怖症にはキツいかもしれない。そんな光学スーツの一部が突如として現れると強烈な異物感をかもし出す。ありふれた空間に出来たどす黒いシミのようだった。あとエイドリアンの顔を最後までちゃんと映さないというのも巧いなと思った。こんなに暴力的で狂っている男の正体はどこにでもいる優しそうな男の姿をしているというのが最後に分かる事で余計にこの事件のおぞましさを痛感させられる。

他にもアクションシーンの長回しやリー・ワネルの前作「アップグレード」でも使われていた超人視点のような直角的に動く素早いカメラワークなど面白い演出が沢山あって飽きさせない。ベンジャミン・ウォルフィッシュのホラースコアも相変わらずテンションが高くて聞き応え抜群だった。そしてエリザベス・モスの演技が凄まじい。どんどん精神的に追い詰められていく姿の切迫感が尋常じゃなかったし、錯乱状態に陥って叫び倒す姿は周囲の人々が遠ざかってしまうだけの気迫がある。また透明人間と格闘するシーンは当然一人芝居になるわけだが、その動きはとても躍動的だった。映画作品においては今作が現時点で彼女の代表作になるのは間違いないだろう。

DV、ミソジニー、男性的な支配欲、セカンドレイプ…女性を取り巻く様々な悪意を投影することで透明人間は蘇った。そして今も透明人間に怯えている人々が沢山いる…この事実を透過させないことが今作の意義なのだと思う。本当に身の毛もよだつ最高のサイコ・サスペンスだった。

透明人間


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