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ひとに言われたことにとらわれないで。だいじょうぶ。

理解と説明は違う。
説明するということは、感覚レベルで身に付いているものを、客観的にとらえ、なにもない状態と比較して違う部分について言葉で説明しようとすることなのでは。
主観から一度引き剥がすという不自然なことをする。しかも公共性の高い言葉で。
昔母に言われた言葉「説明できなければ、理解できたということにはならない」は間違いだった。やっぱおかしいと思ってた。


それを、仕事のできる先輩と関わる中で、ちゃんとわかった。
その人は、すごく仕事ができるけど、仕事について質問しても本人自身が理由をわかっていないし、わかってても説明できない。

スポーツをしていたときも何人もそういう人に出会った。質問をしてもそのシーンにならないと分からないということをいわれたり、感覚って答える人に出会った。


理由がわからないけどはっきりわかる事もあるし、
確信に近い直感もあるよね。
なんか、人に言われたことを聞きたくない自分にも気づいたし、その嫌なことを何歳まで続けるんだろうというのも思った。
なんで大人は自信満々で話しかけてきたんだろう。自分はいつになったら自分の意見を強くもてるんだろう。今やればいいのか。人の意見は流していけばいいのか。

承認がないと落ち込むというのは自分に自信がないというか、よくないことだと思う。まわりになにかいわれないと自分を定義できないというのは、自分の思うやりたい人生じゃない。
人の言葉にとらわれているってことは、承認欲求に振り回されてるってこと。まわりの承認がないと自分の気持ちやスタンスをとれないなんて、書いてみると赤ん坊だと思う。
誉められたいとか、かっこいいと思われたいとか、どう思われたいとかそういうも少しづつ捨てていくんだ。
そうじゃないと、自分の気持ちに正直になれないや。
そう確信してる

今は仕事がなくなる不安も友達を失う恐れももって生きてる。かけがえないから。
でもいっぽいっぽ、自分を確立して、半年後には、ちゃんと自分の気持ちを言える大人になるんだ。

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