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名前をつけること、について

例えば不登校。例えばLGBT。
例えばSDGs。例えば発達障害。例えば。

いろんなものに名前がついて括りができる。名前がつくと何故か急によく見えるようになって、認識されて、世界が世界に広がる。論争も起きる。みんなが使い方に慣れるまで、「休日」とか「夫婦」とかよくわかんないけど、違和感なくそうやって一般化されるまで、どのくらいの時間がかかるんだろうと思う。

昨日「ざんねんないきもの」というタイトルこそが差別的でざんねんだ、という議論を見かけた。生き物の特徴をおもしろおかしく紹介している辞典だと、個人的には思っているのだけれど、なるほどそういう話もあるのか、思った。確かにそうかもしれない。でも、偉人伝にありがちな「失敗談」とか「大成功話」とかだって、きっといくつかはあとから編集されたものなんじゃないかと思う。この間見た角川のゴッホ展、あれも人生のアップダウンを表すグラフがあったけれど、本人がどう思っていたのかは今となっては知る術がない気もする。
当事者以外が名前をつけて括りをつくって、知ってもらうため、課題とするため、見える化するため、「こういう感じでいこう」と決める場面は思っているよりたくさんあるのかもしれない。


「括りをつくることで掘り起こして、課題として解決に向かう。
だから名付ける時点では、言葉がなくなることが目標。」

と、だいすきな人が言っていたので、きっとあえて使った方がいい言葉もたくさんあるのだろうと思う。でもやっぱり、これを書いている今も、口に出すときもちょっと「こわいな」と思う自分がいる。

まずはそれが、なにを表しているのか。
自分で言い換えられるようになったら、少しはこわくなくなるんだろうか。


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