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子どもを真ん中に対話する

不登校支援ミニフォーラムに参加した。

不登校の子どもをもつ保護者と支援する施設・個人が
互いの悩みを共有した上で、補完し合う
よりよい支援のあり方を創ることを目的に
保護者、支援者、教員が参加し、交流が行われた。

不登校支援者と経験者のパネルディスカッションを聞き、
グループごとに意見交流をした。

それぞれの立場で悩み

とても当たり前なことかもしれないけど、
自分の立場でしか見えてない。

保護者の気持ちもよくわかるが、
学校には、学校なりの配慮や立場があって
簡単にはできないことも多い。

例えば…

●できるだけ学校に来られるよう様々な手を尽くす
(学校)
何もしないわけにはいかない。
何かできることがあればしてあげたい。
とにかく学校に来てもらわないと様子もわからず、できることはほとんどない。
(保護者)
学校の都合で登校刺激をしてほしくない。
ありがたいが、行けないことに申し訳なさや罪悪感を感じる。

●「学校では元気にしていました」と報告する
(学校)
少しでも子どものことを褒めてほしい。
少しでも保護者に安心してほしい。
学校に来ただけで💯
(保護者)
家での様子から、素直にその言葉を信じられない。
先生は表面しか見てないのでは?という不信感が募る。

保護者の方の悩みを聞いて、
学校の立場も分かるだけに
お互いに理解しあえていない部分も多いように感じた。

また、学校と当事者・保護者で
不登校のきっかけについても共有できていないことも多い。

学校や先生の対応をきっかけに不登校になる子どもが
文科省の調査以上に多いと聞いてショックだった。

学校には正直に伝えづらいこともあるんだろうな…

一人ひとり状況が異なる

これもまたよく考えたら当たり前なのだが、
様々な理由、要因で学校に行かない子どもたちを
「不登校」と一括りにしたところで
同じ対応ではうまくいかない。

学校に行きたくないのか
学校に行きたいけど行けないのか

また、行きたくない・行けない理由は何か。

学校に行っている子どもは
今の学校のあり方に不満がないのだろうか。

学校に行ってるか行ってないかで
「不登校」と判断することに
どれだけの意味があるのだろう。

学校に行かないことは悪いことじゃない。

けど、学校に行けない子がいるのに
学校は、公教育は、
このままでいいのだろうか。

公教育の役割についても改めて考える必要があると感じた。

大事なことは

結局、大事なことは「対話」なのではないか。

「対話」は、単なる言葉のやり取りだけではない。

人それぞれの中にある「思い」を共有することだと考えている。

だから、それには想像以上に時間がかかる。

でも、これを蔑ろにしていては
教育は“よく”ならない。

働き方改革とか、ICT推進とか
学校現場をよりよくしようと改革を進めるにも
人の「思い」は大事にしてほしい。

私はどんな立場で、場所で、子どもと関わっていくとしても
目の前の人との「対話」を大事にしたい。

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