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【開催記録】みんてつ#8「ふつう」

20240715 みんてつ#8

場所:なかまちBase
テーマ:ふつうってなんだろう?

なんだか、哲学対話っぽいテーマ。

集まった参加者は5名。

「ふつうって大嫌いなんです。」
「自分は昔からふつうとは違う気がしてました。」

という参加者も。

こんなことがあって嫌な思いをした。苦しかった。という話をできるのも、こういうテーマで、自分の話を聞いてもらえるっていう時間として設定されているからなのだと思う。

それぞれの思いが、互いに重なり合いながら対話が進んでいく。
「〇〇についてどう思いますか?」という問いかけもあったり。

当日の記録

参加者の声(一部抜粋)

大変有意義な時間でした!

自分の意見も言えて、周りの話もきけて、色んなジャンルの【ふつう】があることがわかり、視野が広がった!今日ご一緒した方に感謝です!

私の経験

小学校に通っていた頃は、ふつうに対して、別にそんなに違和感抱いてこなかったなぁ。

親や先生から求められることを求められる通りにこなすということが、私にとっては当たり前のことで、それはそんなに難しいことではなかった。

中学校で、部活に入って、初めて周りのノリについていけない感覚があったのかもしれない。

面白いことをする、盛り上がれる話題を持ってくる、変わった新しい物を持ってくる等、そういう面白さがないと中学生だった彼女たちの間では価値がなかった。

私は、そこに付いていこうという努力はあまりしなかった。基本的に練習には参加するし、それなりにみんなとも関わるけど、別にめっちゃ仲良しってこともなかったし、時には無視されてた。

でも、事を荒立てることが苦手な私にとっては、それを先生や親に言って問題が大きくなることの方が面倒だったし、それを理由に部活に行かないこともなんとなく悔しかった。

それが私の選ぶ「ふつう」だったのかも。


初めて、ふつうが嫌だって思ったのは、高校を選ぶ時だったかもしれない。

色々あって最終的な選択肢が
・普通科の高校か
・国際情報科の高校か
の選択になった。

この時、普通科の高校は偏差値という誰から見てもわかりやすい数値で序列化されるのが嫌だったので、県内唯一の国際情報科の高校を受験し進学した。

背景には、親から「私立には行かせない」と言われていたことがある。
それに対して私は、自分の稼ぎが少ないせいなのに、なんでそんな強気で言えるんだ?行かせられなくて申し訳ないとかなら分かるけど、私立なんて行かせないからな!みたいな態度(だと受け取っていた)。そんな人にわざわざ高いお金を出してもらって恩なんて感じたくない。私立に行くなんてこっちから願い下げだ!という反抗的な精神で公立受験一本勝負に決めた。

((ちなみに今は、親だって自分の人生なんだから、別に稼ぎが少ない事を子どもに対して申し訳なく思う必要はないし、お金を稼ぐことだけが子どもの選択肢を増やすことだとも思わない。))

地域性もあるが、当時の私の中学校では、少なくとも私立の滑り止め1校、本命の公立1校がスタンダードだった。

当然、中学校の担任には止められたし、なぜか小学校の時の担任にまでも止められた。

でも私は譲らなかった。が、さすがに高校に行けないのはやばいので、あまり挑戦した受験はできないと思った。そこで、普通科のトップ校よりも国際情報科を選んだという経緯もある。

これは多分、「私立受験をしない」「普通科高校に進学しない」という2点で、はじめてふつうに逆らった出来事かもしれない。

ちなみに、大学受験でも同様の理由+αで私立受験はしていない。


大学卒業して、新卒で就いた正規職を2年で退職する。その後、フリーター。

これは、ふつう?

ある時から、私は「変わっている」とか「変」ということに憧れていた。

小学校、中学校の時に、よく大人から言われた「真面目」という評価が、面白くないと言われてるようで嫌だった。

これはやっぱり、今考えると中学校時代の経験からなのかもしれない。

だから、今の自分の経歴が変わっていると言われるのなら、それはそれで嬉しいという気持ちもある。

しかも、実際に今私はそれで幸せだし、時間の融通がきく分、様々な出会いや学びがあって本当に楽しい。(お金がないのは大変だけどそんなに問題じゃない)

客観的に見ると、ふつうじゃない選択って、意外と周りに心配かけてるのかもしれない…


改めて、ふつうってなんだろう。

「多くの人がそうしていること」だろうか。

でも、ふつうの中のふつうの人は、ふつうなのだろうか?
つまり、1つ1つの事象では、多くの人がしている選択だとしても、常に多数派にいる人は多くいるのだろうか?

朝井リョウ『正欲』では、

「3分の2を2回続けて選ぶ確率は9分の4だ」

という表現があるが、まさにその通りだと思う。

いわゆる「ふつうの人生」として想定されるような人生を歩む人は、ふつうだと言えるほどいるのだろうか?

ひとりひとり違ってあたりまえ。
そんな価値観が社会的にも認められてきている。

でも、たしかに「ふつう」という概念は存在する。

ふつうが変化しているとも言えるかも。

ふつうは、時代や世代だけでなく、集団とか気分とかによっても変わっていく。

ふつうから外れると、周りから攻撃されたり、心配されたりすることもある。

それは、変化への恐れなのだろうか。

同時に、憧れや嫉妬である場合もありそうだ。

あなたは、どう思いましたか?

私、楽しそう

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