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肝臓をいただく、ということ③

術前評価

入院直後の検査はレシピエントの健康状態を正確に知るために行われる検査だった。
手術前に身体をいかにいい状態にもっていくか。そのための方針をたてるために必要な情報を集めていたということだ。
私はそのころ黄疸を引き起こすビルリビンの数値がありえないほど高かった。
健康な人なら0.2〜1.2 mg/dLくらいなのに、私はいちばん高いときで21まで上がっていたから、肌も目も黄色くなっていた。
鏡を見るのも嫌だった。
また出血が止まりにくく常に貧血で、成分輸血と普通の輸血を1日に何パックも身体に入れていた。
「みなさんの貴重な輸血が…」
と、後ろめたいような気分になったこともある。
毎日、朝昼晩、ずっと何かの点滴がつながっていた。
だが、貧血が解消され、不具合が軽減されていくと、身体に力がどんどんみなぎってくるような気持ちになってくる。
朝、A先生が「大丈夫だね?」と顔を見せるたび「元気です!」と答えていたら「ビルリビン20超えている人は元気じゃないんだよ」と言われていた。
看護師さんと「元気って言っているんだから、そんなこと言わなくてもいいのにねー」と言っては笑っていた。

血液不適合移植に向けて

ドナーになってくれた夫は私と血液型が違う。
血液型不適合の場合、手術前の入院期間が通常より2週間程度長くなる。
抗体関連拒絶という致死率の高い拒絶反応を予防する薬、リツキサンを手術2週間前に投薬するためだ。
そこが私にとって手術へのカウントダウンのスタートになるのだろうと思う。
リツキサン投薬前日、H先生から詳しい説明があった。
でも「リツキサンが保険適用になる前は、不適合移植で亡くなる方も少なくなかった」という一言のインパクトがすご過ぎて、ほかはあまり覚えていない。

リツキサン当日

リツキサンは腕などの静脈に点滴する。
通常の点滴と違うのが、点滴を注入する針は看護師ではなく医師が刺すこと。
リツキサン投薬前に研修医の先生が来て、準備を進めようとしてくれた。
だが、そのころ私の両腕は点滴跡だらけで、皮膚が固くなっていた。さらに病気のせいで血管がやせ細っていて、採血も難しい状態だった。
研修医の先生も必死に頑張ってくれていたが、5回針を刺してもうまく静脈に入らない。
プライマリーナースのYさんが駆けつけてきてくれて「頑張ろうね」と笑顔を見せてくれて、私も「大丈夫だよ」と言っていたが、本当は大丈夫かな?と少し心配に思っていた。
結局10回刺しても入らなかった。
研修医の先生は「ちょっと待っていてください」と言って、いなくなってしまった。
Yさんに「研修医の先生、大丈夫かな。焦っているんじゃないかな」と言うと「早川さんは自分の心配してね。何か変なことがあったら、気を遣わないできちんと伝えてよ」と言っていた。
点滴開始時間も迫っていた。
リツキサンは抗がん剤の一種で、副作用が強く出る場合もあるから、先生方が揃っている時間に行う必要があるのだ。
どうなるのだろう、と思っていたら、研修医の先生が戻ってきた。
結局、今まで入れていた針をそのまま使うことになって、投薬が始まった。

リツキサンの副作用

リツキサンの副作用として一般的に浮腫 、 咽喉頭炎 、 鼻炎 、 口腔咽頭不快感 、 血圧上昇 、 頻脈 、 潮紅 、 嘔吐 、 口内炎 、 腹痛 などの症状が挙げられる。
私はそれまでもあまり薬の副作用などが出たこともなかったし、リツキサンを投薬しても体調に変化はなかった。

リツキサン後

リツキサンの投薬が無事に終わって「おつかれさま〜」と来てくれた看護師さんは「最初に、トイレに立つときはナースコールしてね」。
処置後のトイレに付き添ってもらうというのは、ふらつきを警戒してのことで、定番なので驚かなかったが「トイレは2回流して手も2回洗ってね」と言われたときは、自分の中に入った薬がそれほどまでに強いものなのかと怖くなった。
幸いなことに投薬後の体調変化もなく、無事、終了することができた。

東大病院以前

どのようにして東大にたどり着いたのか、少し話そうと思う。
東大に入院する2〜3年ほど前から病状が深刻になった。
まずは周りが心配するほど痩せた。
そして黄疸、腹水などの症状が出て、外見からも肝臓が悪いのは明らかだった。
病状が進むにつれ、食道静脈瘤での救急搬送や腹水治療ために外来で通院していたみなと赤十字病院に入院することが多くなっていった。

みなと赤十字病院

2022年11月の初めも、みなと赤十字に入院していた。
このときの症状を言うなら「生きる気力がなくなった病」だろう。
3昼夜ほど眠り続けていたらしい。
ずっと悪夢を見ていた。
その悪夢には繰り返されるメッセージがあった。
「お前はいらない人間だ」
「お前は何の役にも立たない人間だ」。
起きたら、今がいつなのかも分からなかった。ただ、もうこんな自分がイヤになっていた。
夫が私を近くのクリニックに連れていった。
もう何もかもどうでもよかったけど、夫の後ろをトボトボ歩いてついて行った。
診察後、そのままタクシーでみなと赤十字病院に行き、入院になった。
生きているだけで迷惑な自分。
入院なんてしたくなかった。
このまま放っておいて、消えてなくなってしまいたかった。

みなと赤十病院でもひたすら眠っていた。
眠っている意識のどこかに、声が聞こえた。声は今思えばナースステーションにいる看護師さんたちの話し声だった。ぼわーんと鈍く響いて、まるで海の底で人魚たちが話しているようだった。
丸一日ほど眠っていただろうか。
起きたら強烈にお腹がすいていて、その日出された昼食を全部食べたことを覚えている。

それから10日ほど入院した。
みなと赤十字は地元の病院だけあって看護師さんとの話題も近くの美味しいパン屋さんや、地元球団の今季の成績についてなど、まるで友達と話しているみたいだった。
すごく気の合った看護師さんが2人いた。
1人は1年目の新人さん。私のテーブルの上に置いてあったファッション誌を見て「私もその雑誌、大好きなんです」と声をかけてくれたことから、ファッションやコスメについてや看護師でなかったらどんな仕事をしたかったか、などたくさん話した。
もう1人は同じくらいの年齢の子供がいるベテランさん。
横浜ベイスターズのことや、子育ての悩みもいっぱい話した。
「自分が生きるに値しない人間だ」ということは考えなくなっていた。

退院日、主治医の先生から話があった。
「余命3ヶ月ほどです。もしかしたら年は越せないかもしれません」。
そして「生きる道は移植だけかもしれませんね。東大に連絡してみたらどうでしょう」。
結局、この段階では、東大病院での移植はかなわなかった。

自宅療養の準備

みなと赤十字病院を退院する前に自宅療養する環境を作る準備を始めた。
具体的には

  • 介護ベッドの導入

  • 訪問看護師を探す

  • 訪問診療の先生を探す

の3点だ。
医療連携センターのOさんが退院後の生活環境の聞き取りをしながら、地域の訪問診療、看護ステーションと連携して進めてくれていた。
Oさんは私の顔をよく覚えてくれていて、「今日、コーヒーショップの前で友達とお話ししていたでしょう」と言ってくれたときは驚いた。
「私」という個人を覚えてくれている気がした。
介護ベッドについては頭の部分が起こせればいい、あとの機能は特に必要ないと思っていたが「将来、もし麻里さんをお世話しなければならなくなったとき、ベッドを上げられないと介護者が腰を悪くするよ」
とアドバイスしてくれた。
介護という言葉に、下のお世話というイメージがあったので、なんとなく夫が私を介護している姿を想像して、やるせない気持ちになった。
ベッドを搬入するにはそれなりの広さがあり、家族の目が届きやすい場所が必要となる。
もともと子供部屋だった場所に搬入することになって、部屋をかなり整理しなくてはいけなくなった。
いらないおもちゃや服、家具などを処理するのに、義母が泊まり込みで来てくれて、片付けをしてくれた。
病院にも来てくれて、私に顔を見せてくれたときは元気だったが、やっぱりかなり負担だったのだと思う。
疲れた顔をしていた、と夫に聞いて、申し訳ないなと思った。

ベッドは退院した翌日に搬入された。すごく快適で、病院と同じように眠れることに安心した。

医療連携センター

医療連携センターは、患者さんが住み慣れた地域でその人らしい生活を送れるように、地域の先生方と円滑な連携を図り、安心で信頼できる地域医療連携を行うためにある。医療事務職、看護師、医療ソーシャルワーカー、精神保健福祉士などが在籍し、地域の医師と患者をつないでいる。

みなと在宅クリニック

退院したその日の午後いちばんで来てくれたのが訪問診療の際、私の主治医となるU先生だった。
入院中に受けていた診療、今後、訪問診療でやれることの説明ののち、事務手続きをした。
先生が私に初めて会った印象は「聞いていたより元気」というものだったらしい。
「年は越せないかも」と聞いてきていたが、そんな雰囲気ではなくてびっくりしたという。
このとき夫のほかにテスト期間中で早く帰宅した次男が一緒に話を聞いてくれたのは嬉しかったし、先生も「なかなかそういうお子さんは少ない」と言っていた。
このU先生は訪問看護師さんたちが口を揃えて「神」という人だった。
すごく優しくて、丁寧に話を聞いてくれて、心から患者に寄り添う人だからだそうだ。
「早川さんがまだ若く、自宅療養の毎日は辛いことが多いかもしれない、とみなと赤十字のOさんがU先生にお願いしたいと頼んでくれたみたいよ」と看護師さんが教えてくれた。

訪問診療

訪問診療とは月に2度の訪問診療を行い、容態の観察や悪化の予防をする医療サービス。 次回日時を約束して医師が計画的に訪問するため、自宅などでの長期療養が可能になる。 
当番医が常駐していて24時間365日体調の変化に対応してくれるのも心強い。

アイビー訪問看護ステーション

アイビー訪問看護ステーションから状況確認や事務手続きに来てくれたのは退院翌日の午前中だった。訪問診療の主治医U先生とも密に連絡を取って情報共有をしてくれていたが、やはり「寝たきりくらいに考えていたからお会いして驚いた」と言っていた。
いま、生活で1人でできなくて困っていることは特にないため、バイタルチャックはするとして、何をしましょうか?という話になった。
具体的に何をしてほしいという要望もなくて、どうしようかなと思っていると「アロママッサージもできますよ」と言われて、わくわくした。
このときも夫、長男、次男が同席してくれて心強かった。

訪問看護

かかりつけ医の指示を受けた看護師等が病気や障がいを持つ人の生活場所である自宅等で、その人らしい療養生活を送れるように支援するのが訪問看護の役割だ。

自宅療養中の過ごし方

自宅療養中の1日は
6:30  起床・子どものお弁当作り
8:30  朝食
              家事
10:00   仕事
12:00   昼食
13;00      仕事
17:30   家事
19:00   夕食
23:00      就寝
という感じだった。
体調がよくないときは夫がご飯を作ってくれたり、家事をやってくれたりもしていたが、夏ごろまではそこまで悪いと感じることは多くなかった。
夕食後は家族でトランプをしたり、子どもとおしゃべりをして過ごした。
子どもの学校のことや友達のことも、この時間でたくさん知った。すごく楽しくて、穏やかな時間が幸せだった。

食事

食事はいちばん食欲がある朝に、たっぷり食べた。
だいたい好きなベーカリーのパン、鎌倉のオーガニック野菜のサラダ、ヨーグルトを食べた。昼はパスタ、夜はおにぎりと豚汁などで、季節のフルーツをおやつ代わりにしていた。夫が1週間に一度、買ってきてくれる鎌倉野菜は野菜のブーケという数種類の野菜の詰め合わせで、見たこともない珍しいものや華やかな色のものがあって、楽しかった。

仕事

仕事は家でできる仕事だったのが幸いした。
ライターは自分にない選択肢や考え方、価値観を前向きに受け入れ、咀嚼してアウトプットする仕事だ。
今までも大好きな仕事だったが、病気になってからは「自分が社会的に生きる場所」としてなくてはならないものになった。
お小遣い程度だが、子どもに何か買ってあげられたり、一緒にケーキを食べに行けたりするくらいは収入があるのも嬉しかった。

身辺整理

私は手仕事、編み物や裁縫も趣味程度だけど楽しみでやっていたから、きれいな色の毛糸やかわいいテキスタイルのファブリックを集めていた。
本や雑誌は何度引っ越しても必ず一緒に持って歩くものが本棚3個分くらいぎっしりあったし、好きな洋服は大事に取っておいていた。
でも意味がなくなるかもしれないと、使ってくれる人や大事にしてくれる人に譲ったり、思いっきり捨てたりして荷物を減らしていた。
今から思えば身辺整理だったのだろうと思う。

お出かけや旅行

2月の私の誕生日には憧れのレストランで食事し、大好きだけど手が届かなかったブランドの服をプレゼントしてもらった。
母が不慣れなうちのキッチンで子どもの好きなロールキャベツを作ってくれたり、当面の作り置きをしてくれたことも何度もある。
妹は一緒にかき氷を食べに行ったり、可愛いカフェや美味しいレストランに行ったりした。
結婚してからこんなに頻繁に一緒に出かけることはなかった。

春には沖縄と熊本を旅行した。
ずっと食べていて、ずっと笑っていた。
自分が病気だなんて、信じられないと思った。
でもやっぱり旅行後はかなり疲れていたようで、そこから半月くらいは発熱が続く不安定な体調だった。
それでも訪問してくれる先生や看護師は「奇跡」だと言った。
余命宣告まで受けた人がここまで回復して生活しているのは「奇跡」だと。
あまりに私の体調が良すぎて「何をしてあげられるのだろうと思うときがある」とよく言っていた。
私にとっては先生は安心を、看護師さんはたわいないおしゃべりと癒しをくれる人だった。

衝突

夫は私の看護のため、会社に頼んでリモート勤務をしていた。
いつも私のことを第一に考え、私が移植手術できる日まで歯を食いしばって頑張ろうとしてくれていた。
いつもいつも感謝していたが、それでも24時間ずっと一緒にいて気にされているのはストレスが溜まった。
監視されているような気分になって、少しだけでいいから1人になりたかった。
誰かに相談したくても「心配しているのよ」という言葉ですべて片付けられてしまう。
私が拒絶する態度をとると夫は悲しそうな顔をする。
分かっていたが、やめられなかった。
中学の時からの親友A子は「麻里ちゃんの気持ちは分かる」と言ってくれた。
「でも、うちのダンナは、俺、そこまでできるかなって言っていたよ。誰にもできることではないよ」。
それはそうだよな、私だってできるか分からないと思っていた。

思いもよらない怪我

7月の初め、右足に13針縫う怪我をした。
血が止まりにくいのに大量出血をして、救急搬送された。
足に力が入ると傷口が開いて出血する可能性があるため、立つことができない。
家では車椅子で過ごし、毎日のガーゼ交換は夫がしてくれていた。

車椅子でのグランピング

8月の初め、グランピングで河口湖に行くことを計画していた。
このとき「行きたいか、行けるか」と聞かれてすごく困ったことを覚えている。
行きたいが、自分がお荷物になることは分かっていた。
その迷いをどう説明したらいいのか分からなくて、黙り込んでしまっていた。
長男Rは反対した。
次男Sは「行きたい」、夫は「子どもを連れて行ってあげたい」という気持ちだった。
結局、行くことに決めた。
車で行くから負担は少なかったが、サービスエリアやパーキングエリアの多目的トイレは男性トイレ、女性トイレそれぞれに少し奥まった場所にあって、夫や息子が車椅子を押して女性用の多目的トイレに入るのは勇気がいった。たまたまトイレにいた女性に助けてもらったこともあった。
世界規模のファーストフード店なら設備がしっかりしているだろうと思ったが、トイレの入り口に高い段差があって、それを上がることができなかった。
お店も混み合っていて、目線が届かない車椅子には注意が向かない人もいて、ぶつかられて怖かった。
ただ目線が下になったため、今まで見逃していた商品を見つけることができたのは楽しかった。
今まで考えたこともなかったが、車椅子という要素が加わるだけで世界の見え方が変わることを実感した。
バリアフリーなんてまだまだ遠いと思った。

キャンプは楽しくて、Sがピザ釜で毎年焼いてくれる本格的なピザも美味しかった。
だが、いざ眠ろうとしたら普段と環境が違うせいか身体中が痛くて、眠れない。
だんだん悲しくなったけど、泣くのをずっと我慢していた。
そんな私の様子にRが気づいて、そっと近づいてきて、背中をさすってくれた。
私はいつの間にか眠りについていた。
翌日からは元気に眠れて、少し歩けるようにもなった。
やっぱり行ってよかった、と思って、支えてくれた家族の存在がさらに愛おしく思えた。

腹水との闘い

「そろそろもう一度、東大に相談に行く前段階として、みなと赤十字を受診したらどうか」という話が主治医のU先生からあったのは10月の初めのころだった。怪我をしてから病気はすごい勢いで悪化しているように思えた。
看護師さんは訪問のたびにバイタルチェックの他に腹囲を計測していた。
腹水の増減をみていたのだ。
だが10月を過ぎるころになると測らなくても腹水でお腹がパンパンなのが見てとれた。腹囲は15㎝くらい増え、体重は10Kgも重くなった。どこからどう見ても臨月の妊婦だった。
好きな洋服は着られなくなり、人に見られることが怖くてたまらなかった。

腹水

お腹にある臓器を包む腹膜は、臓器と臓器の摩擦を少なくするために腹腔とよばれる隙間を作っている。腹腔には健康な人でも通常20〜50mlの水が入っているが、さまざまな病気の影響で通常より多い量の水が溜まった状態を「腹水」という。
水が大量にたまると腹部は大きく膨らみ、内臓が圧迫されることで吐き気や嘔吐、倦怠感、息切れなどが起こり、日常生活に影響を及ぼすこともある。

腹水を抜く

腹水は溜まり続け、食べられないのにずっと苦しいという状態が続いた。
このころ骨粗しょう症による背骨の圧迫骨折もしていたから、自由に身体を動かすこともできず、ただ苦痛に耐えていた。
本来、腹水を抜くという処置は訪問診療でもできないことはない。
ただリスクはあって

  • カテーテルを入れて抜くため、内臓を傷つける可能性がある

  • 腹水と同時に栄養分などの必要なものも一緒に抜けてしまう

  • 抜いて楽になってもすぐに溜まってという繰り返しになることもある

さらに私の場合、

  • カテーテルによる出血が起こった際、血が止まらない可能性があり、訪問診療では対応できないかもしれない

という危険性が高かった。
先生とは何度も話し合ったが、苦しくて苦しくて私はもう「抜く」以外考えられなかった。

先生は腹水を抜く準備を始めた。
抜いた水を貯める2ℓくらいの空いたペットボトルを用意しておくように指示された。
その日たまたま学校行事の振替休日で家にいた長男Rが先生の助手を務めることになった。
「この面は清潔を保つために絶対に触らないで、袋を開封して」
などと言われて何が何だかわからないなりに必死でやっているRが少し面白かった。
いよいよ針を刺すことになったとき、エコーで場所を慎重に確認したものの、出血のリスクが免れないと判断したのだろう。
U先生はみなと赤十字に救急搬送を要請し、私はそのまま入院するためにRに手伝ってもらいながら荷物をまとめた。
サイレンの音がして「先生、ありがとうございました」と言ったのが、東大前に先生にあった最後になった。

再び、みなと赤十字病院

みなと赤十字病院では東大に相談する際に必要な事項について、調べてくれていた。
移植に携わったことのある医師が誰もいないから、一から始めないと分からないという状態だったそうだ。
私は仲良しの看護師さんたちがいる病棟に入院して、腹水も抜く予定だという話も聞いて、気が楽になった。
ただ抜くまでの、待つ時間はまるで地獄のようだった。苦しくて苦しくてベッドの上で一瞬もじっとしていられない日もあった。
腹水を抜く日は午後に予定されていた。
午前中はベッドでもんどり打ちながら、時計をずっと見ていた。
早く時間にならないかと。
始まってしまったら、すぐに楽になった。
涙が出るほど嬉しかった。

東大病院の予約がとれて、A先生のもとに行くことになるのはそれから数日後のことだ。
みなと赤十字病院を退院する際、仲が良かった2人の看護師さんが言ってくれた言葉が忘れられない。
「麻里さんとは好きなものがすごく合って、友達になりたかった。一緒に買い物にも行きたかった。絶対に元気になって会いに来てください」
ベイスターズ好きの看護師さんは
「看護師も人間だから、お話たくさんするのは楽しいからです。早川さんのものの捉え方は見習わなくちゃて思ったし、人間性がすごく愛されると思う。病は気からというなら、あなたは必ずよくなるよ。周りの人たちの気も早川さんを放っておかないよ」。
私は「ありがとう」っていうのが精一杯で、何も言えなかった。


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