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肝臓をいただく、ということ④

手術日が決まらない!

最初にA先生の診察を受けたとき「すぐに手術しないと、もたないかもしれない」と言われたが、入院中の処置で体調はどんどんよくなっていた。
それでも手術日が延期するかもしれないと聞いたときには驚いた。
東大病院の移植手術は、月・水・金曜日に行われている。
当初、12月11日で考えていた手術日が18日になるかもしれないと聞いたのだ。
主治医のH先生が「より重症な人を優先しなければならないこともあるから」と申し訳なさそうに言っていたから「私が元気だから、先に伸ばしても大丈夫なんですね!」と答えると「そういうわけではないのだけど」と困ったような顔をした。
確かに元気とは言えないけど、毎日、お見舞いの友人や家族、看護師さんとのおしゃべりしながら過ごしていて、楽しかった。

二転三転する手術日

手術日が延期になったことに対して「私より重症度の高い人がいるなら仕方ない」と思えたころ「やっぱり11日に手術するかもしれない」という連絡が移植コーディーネーターさんから伝えられた。
どういうこと?と慌てていると「11日に手術をする予定の方のドナーさんに発熱があって、コロナ感染したかもしれない」という話で、空くかもしれない枠に私を繰り上げる可能性があるということだった。
リツキサン投与も終わっているし、身体的には問題はない。
でも私以外の家族たちは、手術日に合わせて調整しなければならないことがたくさんある。
1週間ずれただけ、という簡単な話ではないのだ。
やらなければならない項目は

  • 術前術後の両親が留守の間の子どもの生活環境を整える

  • 術前説明の段取り

  • 手術立ち会い家族の調整

などで、夫と妹にはさらに仕事の調整があった。

11日に変更になるかもしれないという話を聞いたのは7日の昼ころで、コロナの疑いがあるドナーさんの検査結果が確定するのが8日の朝、もし私が11日に繰り上がる場合は9日には夫も入院しなければならなかった。
とにかく時間がない。8日の結果次第では手術に突入してしまうのだ。
とりあえず優先しなければいけないのは翌日の術前説明の段取り。
そのほかは2〜3日猶予があった。

術前説明の段取り

術前説明は8日の15:00にスケジュールすることになった。
できたらレシピエント、ドナー各1人以上の家族が参加してほしいとのことだったが、難しければリモートなどの選択肢もあると説明された。
私や夫はもちろん、私の家族も義理の両親も手術前に説明があることは分かっていたが、いきなり翌日に設定されるとは思わなかった。
義理の両親は新幹線でしか来られないし、かと言ってリモートというのも難しいだろう。
大丈夫だろうか、と心配になったが義父は明るい声で「おとうさんが行くから安心して」と言ってくれた。
私の母は子どもを見てくれることになり、妹が説明会に来てくれる。
夫も妹も明日から仕事をお休みさせてもらうための準備や調整、連絡を急ピッチで進めていた。
多分、みんな気持ちが焦っていて、変な興奮状態だった。
家族の間でも言いたいことがうまく伝わらず、「なら、どうするの!」というやりとりが幾度もあった。
また病院からの連絡窓口が夫の携帯だったから、最新の情報が夫に入る。
私が看護師さんから聞いたときには状況が変わっているということもあって、混乱してしまった。
「私のことなんだから、私に最初に言ってください」
と、すごく事務的な声で看護師さんに言ってしまっていた。
完全な八つ当たりだった。

やっぱり延期かーい!

翌日の朝、移植コーディネーターさんから「手術予定の方のドナーさん、コロナではなかったよ。予定通り手術をするって」と聞いたとき、私が思わず叫んでしまったのは「やっぱり延期かーい!」。
がくっときた。
昨日、あれだけイライラしながら調整したことはなんだったのか…。
すると妹からLINEがあった。
「ドナーの方、コロナではなくてよかったよね。一生、後悔することになるかもしれないものね。手術、間に合ってよかった」。
妹があまりに広い目で見ていることに驚いた。すごい人だなと思った。
まるで迷惑でもかけられたかのようにぐちぐち言い、私は後回しと拗ねていた自分が恥ずかしかった。
妹の言葉で「生きたいと頑張っている人とそれを命懸けで助ける方、どちらも間に合ってよかった」と、気持ちを切り替えられた。

手術中の留守宅のこと

私と夫が入院中、大人がいなくなる自宅には私の母と妹が行ってくれることになっていた。
母は自分の身体もキツいのに、孫たちに美味しくて栄養のある食事を作るためにリハビリも一旦停止して、母にとっては1日がかりの大変な思いをしながら、私の自宅に来てくれた。
妹はドナーになれなかったとき「RとSのことはやれることは精一杯やるからね」と、強く決断してくれていた。
同時に妹は母が張り切りすぎて無理しないか心配で、それをフォローするという役割も自分に課していたんだろう。
母と子ども、どちらに何があっても対応できるよう早くから会社とも話し合い、その間リモート勤務できる態勢を作っていた。快く許可してくれた妹の会社にも感謝している。
母と妹は子どもたちが両親がいない不安感をなるべく感じないようにと心を尽くしていた。
母が食べ盛りの男の子の食事作りを少しでも楽しんでくれるといいなと願っていた。

お金のこと

子どもと母、妹の生活はまとまった金額を一旦渡しておく形にした。
ドナーとなる夫の入院期間がどのくらいになるのかが分からなかったから、そういった方法がベストではないかと話し合ったのだ。
几帳面な妹がレシートを管理して、出入金をきちんと記録して精算してくれて、ものすごく頼りになった。
何かあったときのために子どもの保険証の場所も確認してもらった。

Sの受験

12月の初めは神奈川県では私立併願校を確定する時期だった。そのころに分かる内申書の成績がSが併願校に考えている学校に達していればいいが、そうでない場合は1〜2校、学校見学に行かなければならない。
妹は「私、行くよ」と言ってくれたが、受験生の保護者として学校見学に行った経験もないし、正直大変だろうなと思っていた。
Sは「内申、上げればいいんでしょ」。
宣言通り内申を4つ上げて、無事、併願校が決まった。

内科から外科へ

手術の具体的な日程が決まらないままのころだったから、正確にいつだったかは覚えていない。
ただ、いつもと同じようにベッドに来て病状のこと、この体験を文章に残すことについて話していたH先生が「そろそろ外科に引き継ぐからね」と言った。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
H先生が、いつも話を聞いてくれて、どんなときも静かにやさしく包んでくれるようなH先生が、担当を外れるなんて。
心細くて「先生、寂しいです。どうしても?」と訴えると「内科的準備が終わって、手術を担当する外科におまかせするんだよ。治療は順調に進んでいるということです。もちろん顔を見にくるから」と言ってくれた。
移植内科医は東大病院でもH先生1人しかいないのを知ったのも、このころだ。
あまりにいつもいるので「先生、ブラック企業すぎますよ」と言ったときのことだ。内科はH先生だけで、あれだけ丁寧に患者を回っていたら帰れないはずだわと思った。
「東大として移植の将来を考えないといけないけど、僕自身、移植内科医の後継者を育てるという責任も重大だと思っている」と話してくれた。

外科への引き継ぎはどうやって行われるのだろうと思っていたら、ある日突然「お変わりありませんか?」と誰かが顔を出した。
「はい」と答えると「よかったです」といなくなってしまう。そんなことが何回か続いた。
看護師さんに話すとどんな人だった?と聞かれたが「早すぎて分からないんです」。
すると「外科の先生はみんなそんな感じだから」と笑っていた。
その次の日は看護師さんが処置してくれるときに「お変わりありませんか?」が聞こえた。
「はい」と答えるとまたすぐに去ってしまったが、看護師さんに「今のです、誰ですか?」と聞くと「処置してたから顔見てない、分からないよね」と言う。
それからも看護師さんの処置中に現れることがあったが、とにかくあっという間のできごとで誰だか分からない。
「名を名乗れ!」と誰もいないカーテンの向こうに看護師さんと叫んでは笑っていた。

待ち時間

手術はいつになるのか、次に聞いたのは25日だった。2週間くらい時間があり、点滴以外はやることもない。 
待ち時間は手術前のトレーニングやリハビリなどをしていた。

肺のトレーニング

手術、肺機能が下がって水が貯まったり、呼吸しづらくなる可能性があるから、術前から肺を広げるトレーニングをする。
入院してすぐのころに”coach2”という医療器具を買うよう指示があるのだが、これを毎日使って徐々に肺を広げていく。
10回3セットを30回と言われたときは、げんなりした。
coach 2で1時間に1回程度の頻度でトレーニングをしていたがあまり効果がなく、風船を売店で買うように言われた。「これを膨らませたら、肺の機能は充分だよ」と言われ必死でふーふーやっていたが、ちっとも膨らまない。
高校時代、吹奏楽部にいた親友A子に助けを求めると「ストローで練習したなあ」とアドバイスしてくれてストローも買ったが、目に見える効果はなかった。
YouTubeで「カープ女子ラッキー7ジェット風船の膨らませ方」を見て、勉強もした。
リハビリのMさんに「歌がいいわよ。荒城の月みたいに歌い上げる曲」と言われ、2人で階段の踊り場で歌ったこともある。

手技

肝移植の手技には術後、身体に入ったチューブが抜けないようにするテープ交換と、身体のチューブから流出した胆汁を1日3回に分けて集め、1日1回身体に戻す胆汁還元がある。
ほかに薬の影響で高くなる可能性のある血糖値計測とインスリン注射もあるのだが、優先して練習するのはテープと還元だった。

胆汁のあけこし、還元

9北病棟でいちばん最初に目にするのはボトルをぶら下げて廊下を歩く患者の姿かもしれない。
ボトルが点滴棒にあたってカンカン鳴る音は小さな太鼓みたいで、知らないうちは病院内で毎日お祭りのようになるこの音が不思議だった。
そのボトルは胆管につながっていて身体から流れ出る胆汁を貯めている。
あけこしは朝昼晩の1日3回、ボトルに貯めた胆汁をガーゼでこしてカップに移すことで、その後還元の2時間前くらいまで冷蔵庫で保管するのだ。
還元はその胆汁をチューブに点滴して体内に戻すことだ。
胆汁の量も人によって大きく異なるから一概には言えないが、還元には2時間くらいかかるから、毎日だと意外と面倒くさい。

胆汁

胆汁は肝臓の中で常に分泌されている物質で、主に脂肪の乳化とタンパク質を分解しやすくするはたらきをしている。 胆汁によって脂肪は腸から吸収されやすくなり、コレステロールを体外に排出する。

テープ交換

テープ交換はシャワーを浴びたときやガーゼが剥がれてしまった時に身体のチューブが抜けないよう補強するために行う。
「ガッチリ絆」というそのままズバリのネーミングで看護師さんに呼ばれている強い粘着度のあるテープを3枚使って固定する。

手技については手術の延期で練習する時間がたくさんあったので、かなり上手くなった。

歯科

レシピエントは必ず手術前に歯科健診を受ける。
手術中はもちろん全身麻酔だが、それは、「眠った状態で全身のどこに痛み刺激を与えても、痛みを感じなくする方法」だ。
全身の筋肉を脱力させる薬を使うため自分で呼吸ができなくなる。補助として気管内挿管を行うが、 このチューブを操作する際に、歯が欠ける・折れる・抜けるといった歯の損傷が起こることがあるそうだ。
麻酔の準備としてぐらついている歯がないかのチェックと虫歯の有無を診る。
虫歯はそこにある菌が術後の免疫が低下している状態だと自分に感染して、深刻な症状になることもある。
どちらのケースも即、抜歯すると聞いたときは怖かった。
恥ずかしながら歯のことは後回しで、長い間検診も受けていなかった。
レントゲンを撮ると先生は「いい歯ですね」と言った。「レントゲン写真、お守りにできるくらいしっかりしているよ」と写真をプリントアウトしてくれた。
手術前に歯のクリーニングをしてもらったが、なんだかいい気持ちで手術に向かえるような気分になった。

精神科

精神科の先生と面談もした。
私のこれまで過ごした過程を子どものころから順を追って話した。
先生たちは5〜6人くらいのグループで時折質問をしながら熱心に聞いてくれたが、私の真正面にいた先生はお疲れだったのか、早々に寝てしまっていた。30分くらい話していただろうか、「では終わります」と言われるまで寝ていたので「私の半生、面白くなくてすみません」と冗談混じりに言ってしまった。
看護師さんに言ったら、すごい笑われた。

麻酔科

手術中の全身麻酔について説明を聞いた。私は以前にも全身麻酔での手術をした経験があったので、あまり不安に思うことがなかったのだけど、ネットで見た痛み止めで「医療用麻薬を使う」という記事が気になっていた。
依存性はあるのか不安だった。
聞くと今はほとんど使用することはないと教えてくれた。
でも気になってお見舞いに来てくれた息子たちに話すと長男Rは「大丈夫でしょ」と軽く言ってくれた。
次男Sは「医療用麻薬は日露戦争のころから使用している痛み止めで、そんなに危険なものではないよ」とさらっと答えた。
Sはときどきびっくりするような知識を披露するが、まさか日露戦争まで遡るとは思っていなかったから、Rも私も「長い歴史があるんだね」と笑ってしまった。

仕事の調整

待ち時間に単発の仕事を何本か再開することにした。
私の仕事はPCと環境があればできるありがたいものだったが、東大病院はWi-Fiが入らない。看護師さんに聞くと入院中にリモートで仕事している人はポケットWi-Fiを利用している人がほとんどだという。
私はスマホのインターネット共有機能を使っていたが、すぐにつながらなかったり、ちょっとトイレにいくだけでWi-Fiが切れたり、けっこうストレスも多かった。
結局、急に体調が悪くなって〆切に間に合わないという事態が怖くて、あまり多くの仕事は受ける気にならなかった。

東京大学病院のWi-Fi環境

2024年からラウンジでのフリーWi-Fiが使用できるようになった。
すごく大きな一歩で、格段に仕事の効率が上がった。
これからますます拡大して、病室で使えるようになると助かる。
フリーWi-Fが使えるようになってからは「ラウンジにいます。奥の方まで探してね!」と病室のテーブルに書き置きを残してラウンジにいることが増えた。
今までベッドで寝転んでいるときにアイデアが浮かんだらスマホのメモに書き残していた。それは続くかもしれないけど、やっぱりベッドで直接PC触れたら嬉しい。

手術日はいったいいつ?

手術日は相変わらず、はっきりしないままだった。
25日という話も出たが、次に聞いたときは18日。
もういつでもいいから確定してほしい、というのが本音だった。
18日かもと準備していたら、夫が体調を崩してしまった。夫は私に健康な肝臓を提供しなければ、と極度の緊張感の中にいた。決まらない手術日と常に体調のことを考えるストレスが重かったのだと思う。
そして自分に何かあったとき、子どもたちのことをどうしてあげるのかベストなのか、長く仕事を休むことになって職場の方に迷惑をかけること、戻ったとき自分はどうなるのか、考えれば考えるほどネガティブになってしまっていた。
幸いコロナやインフルエンザではなかったけど、18日は念のため避けて25日という話で決定した。
その知らせを聞いたのは内科医のH先生からだったが「これ以上遅くなったら、私も怒ります」と言ったら「僕だって怒るよ」と真剣な顔をしていた。
12月25日が手術日に決定した。
リハビリを担当してくれているMさんは
「唯一無二のクリスマスプレゼントね」
と、ロマンチックなことを言って、私は大笑いしたけど、夫は照れくさそうにしていた。

究極の理解者

9北、正確には東大病院A棟9階北病棟は移植外科の病棟になる。
入院しているのは移植を受ける人、ドナー、術後の処置や定期検診を受ける人の3パターンに分かれる。
私は最初4人部屋にいたが、すぐに2人部屋に移って、そこに長くいた。
その間、たくさんの退院していく人を見送った。
年齢もこれまでの経歴も分からないけど、同じ手術を受ける仲間として患者同士、話をする機会もあって、とくに同室になった人とはよく話した。
思えば不思議な縁だ。
顔も知らない他人がカーテンの中で看護師さんの質問に答える声が聞こえる。
「尿はでましたか?お通じはありますか?食欲は?痛いところはありますか?」
トイレや洗面台、シャワーが各部屋にあったから、顔を合わせるのはそんなとき。お互いノーメイクで「おはようございます」と挨拶する。
そのうち仲良くなるといろいろ話をしたが、私の同室になる人はすでに手術を受けて、処置や検診のために入院している人が多かった。
みんな気さくで明るく、やさしかった。
「髪は退院してから、いつ切れるの?」
「家事はいつごろからやり始めた?いちばん最初にやった家事は何?」
入院して間もないころはそんなことが気になって、質問していた。
「退院したら何したい?」という質問は、みんながしてくれて「私はこうだった」という話を聞かせてくれた。
「私の母が『早くよくなって、子どものお弁当が作りたいでしょ?』とよく私に言うんだけど、正直みじんも思ったことがないんです。よもぎ蒸しがしたいとか、アロママッサージがしたいとか、パン屋行きたいとか自分のことばっかり考えているんです」と言うと、「そんなもんだよ、それでいいのよ」とみんな笑って言ってくれた。
ベッドでお話ししても、ひとりになりたいときは放っておいてくれるし、距離感がちょうどよかった。
みんな楽しくてすてきな人だったから、退院していく姿を見ると嬉しいのに、寂しかった。
そしてきちんとメイクをして、自分らしい服を着て、家族に迎えに来てもらって帰っていく姿は、すごくきれいだった。
あんなふうになれるのかな。想像もつかなかった。

今でもずっと仲良くしてくれている同室だった仲間が2人いる。
日常生活でのたわいのないことや不安をLINEで相談したり、ちょっと先の楽しみなことを話したりしながら、支えてもらっている。

Mさん

Mさんは私より半年以上前に手術をして、処置のために入院していた。
仲良くなったきっかけはグレープフルーツだったと思う。
移植患者は免疫抑制剤を一生服用するのだが、グレープフルーツは薬の効果を強めてしまう恐れがあるため、生涯食べることはできない。
明日から免疫抑制剤が始まるという日、妹がデパートをかけずり回って探してくれた千疋屋のくりぬきゼリーを、いつのタイミングで食べようか、考えていた。
同室の方は手術後だし、もうグレープフルーツを食べられないだろうから、気づかれないように食べた方がいいのかな、と考えているうちに消灯30分前になってしまった。
「いまだ!」と思って、ゼリーの包みを開けると、いっぱいに広がるグレープフルーツの爽やかな香り。別にすごくグレープフルーツが大好きなわけではないが、もう一生食べられないと思うと切ない気持ちになって、ゆっくりゼリーにスプーンを入れた。
そのときMさんの「グレープフルーツ?」という明るい声が聞こえた。
私のベッドは部屋の洗面台に近かったから、Mさんは眠る準備をしていたのだろう。
「うん」と答えると「最後?」。
私の最後のグレープフルーツをMさんは見届けてくれた。
一緒におしゃべりしながら、一口一口、ゼリーを口に運ぶ。
あっという間に消灯時間になってしまったが、まだ半分しか食べていなかった。
看護師さんが「電気、消しますよ」と声をかけにきたが、Mさんが「いま、麻里さん、最後のグレープフルーツなんです」と返事をしてくれた。
すると看護師さんも「最後のグレープフルーツは誰にも邪魔できないわよね」と、「食べ終わったら、自分たちで電気消して寝てね」と言って、隣の部屋に消灯の声かけに行った。
よかったね、と2人で笑いながら続きを食べた。
「美味しすぎる!妹に不味すぎて、もういいやって思えるグレープフルーツを持ってきてもらえばよかった」と言うとMさんが「それ、かなり難しいよ」と笑っていた。

それからMさんとは本当によくおしゃべりした。
ベッドの間にあるカーテンを開け放って、タリーズで買ったお茶を飲みながらお話したこともある。
お互いパジャマで女子旅でもしているかのようだった。
Mさんは手術後のこともよく教えてくれた。
「手術直後はもう本当に何もできなくなるよ。身体中が点滴でつながっていて、1人では何もできない。赤ちゃんみたいにすべてお世話してもらわないといけないから、悔しいときもあったよ」という。「これから苦しくて辛いことがいっぱいあるけど、確実によくなるからね、大丈夫だよ」というMさんはすごくきれいで強い人だ。
私はずっと年下のMさんに憧れていた。

Mさんが退院するとき、縁は切れないと思えたから、寂しくなかった。
それからもMさんは外来のたびに会いにきてくれて、一緒にリハビリに付き合ってくれたこともある。
会いにきてくれるたび、Mさんは美しくなっていく。
メイクやファッション、これが本来のMさんなんだなと思った。
ずっとランチの約束をしている。私が先生から外食OKが出たら行こうねと、その日を楽しみにしている。

Aさん

Aさんは手術後に同室になった人だ。
私より1ヶ月ちょっと前に手術をしたとは思えないほど元気で、立ち姿が凛としていた。
そのころ私は身体がうまく動かなかったから、近い時期に手術して、あんなにも回復しているAさんがうらやましくて、うまく話ができなかった。
たまに顔を出す、私の八つ当たり癖だ。
Aさんが退院する前日「早川さん」とベッドの外から声がした。
返事をするとAさんで「明日、退院します。お世話になりました」と言って袋を渡してくれた。そこには退院後に必要になる傷の処置のためのガーゼ1箱とかわいいがま口のさいふが入っていた。
私は嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちで涙が出そうになった。
Aさんは看護師さんとの会話をカーテン越しに聞いて、私が少しでも前向きな気持ちになれるようにこの贈り物をしてくれたのだと思った。
「退院したら神社に寄るから、早川さんのこともお願いしてくるね」と言ってくれた。
もう明日いなくなる。なんでもっとお話ししなかったのだろう。
ものすごい後悔にかられて、強引に連絡先を交換してもらった。
それからたまにLINEで話すが、本当に素敵な人だ。
言葉使いがきれいで、クールな雰囲気だけどすごくかわいい。
Aさんが私よりずっと前を軽やかに歩いているから、嫉妬していたんだなと今なら分かる。
そして、この人ともっと話したいという直感は間違っていなかったことも。

手術前

手術1週間前くらいになると、やることはとにかくケガをしないように注意することだった。ここでケガをして手術が延期になることがあったら、本当に危ないという危機感が、先生や看護師さんにもあった。
「早川さんは9北の箱入り娘」と冗談を言いながら、ケガがないように細心の注意を払ってくれていた。
もちろん手術前の患者として安全に過ごしてほしいということがいちばんだが、みんながすごく愛情を持って、私が万全の状態で手術を受けられるよう、気遣ってくれているのを感じていた。

1週間前

妹と息子2人がお見舞いに来てくれて、4人でお茶を飲んだ。
息子たちの話が面白くて、ずっと笑っていた。
私はいつもみんなと笑っていたけど、息子たちの話の面白さは群を抜いていて、ずっと大爆笑していたら、お腹も肺も腰も痛くなって「痛い痛い」と言いながら、笑いが止まらなかった。
私がこんな手術をうけることになって、夫はもちろん息子たちだって不安だっただろうし、我慢したことも多かったと思う。
それでもずっと笑顔の2人を見ながら「大人になったな」としみじみ思って嬉しかった。

3日前

手術が迫っても、毎日の生活はあまり変わらなかった。
いつもと違うことといえば、9北にいつ帰れるか分からないから必要のないものはすべて家に持って帰るよう荷造りをすること、ICUに持っていく荷物を確認することくらい。
あとは毎日が淡々と過ぎていった。
このころはリハビリのMさんが術後のことをよく話してくれていた。
「術後はすごい量の点滴が入るからね、まるで夏祭りの屋台の風鈴売りみたいよ。その風鈴が1つ売れ2つ売れと言う感じで、点滴も減っていくの。身体に大量の水分が入るから浮腫むし、10kgくらい体重も増えるよ。でも徐々によくなっていくからね」
「自分のことはしばらく何もできなくなるよ。でもそういうものだから看護師さんになんでも甘えればいいからね。そのためのICUなんだから。トイレにも行けないけど、気にしないでお願いすればいいんだよ。みんな慣れているから、当たり前のことだから」。
「でも必ずきれいになるから。顔色も良くなって、元気になるから」
そう言って、私がICUで驚かないように、悔しい思いをしないように現実を教えてくれながら励ましてくれていた。
同室の人の話やMさんの話は具体的だったけど、これから自分に起こることとは思えず、どこか他人事で聞いていた。

夫の入院

12月22日、夫が入院した。
入院前まではかなり気持ちが落ち着かないように感じていたから、病院で会ったときいつもと変わらずに穏やかに笑ってくれて安心した。
夫は検査や処置はなく、私も点滴くらいだったから、院内のコンビニや売店に行ったり、タリーズでお茶したりして、のんびり過ごした。
手術の詳しい説明は22日の15:00に先生たちの時間をいただいていた。
15:00前に義父と妹が到着して、応接室のような部屋に案内された

術前説明

部屋には最初に診察してくれたA先生、やっと判明した外科主治医のC先生、移植コーディネーター、看護師と義父、妹、夫、私の8人が入った。
あまり広い部屋ではなかったから、人でいっぱいだった。
最初にドナーの手術の説明があって、その後にレシピエンスについて聞いた。
メスを入れる場所、肝臓を切り取る場所、血管とどうつないでいくかなどの説明の後、リスクについて聞いた。
私は先生や移植コーディネーターさん、看護師さんを心から信頼していたので「東大でダメなら、それが私の運命」と、リスクは全然怖くなかった。
手術開始時間は8:00、終了予定時間はドナーが16:00、レシピエントが20:00が目安。
手術に携わる人は200人ほどで、その全員が私を生かすためにチームになってくれている。
その後、手術の立ち会い家族について、ICUの面会時間についての説明があった。
質疑応答や同意書のサインなどをして30〜40分くらいだっただろうか。
部屋を出ながら妹と「A先生、肝臓の絵がすごくうまかったね」と話していた。
看護師さんに話すと「医者は絵が上手い人が多いよ。毎日のように肝臓を描いているから、ますます上手くなるよね」と言っていた。

手術立ち会い家族

手術日に立ち会う家族はレシピエント2名、ドナー2名の4名までとされている。手術中に万が一、何かが起こったら同意をとれるよう必ず1名は院内にいる必要がある。

手術前日

いよいよ手術前日だが、基本的に生活は変わらない。
とは言え、いつもと違う点ももちろんある。

  • 必ずシャワーを浴びる

  • 食事は消化のいい流動食

  • おへその掃除

  • 荷物の名つけ、チェック

次にシャワーが浴びられるのはいつになるか分からない。看護師さんが身体を拭いてくれたり、髪を洗ったりはしてくれて清潔は保てるが、シャワーを浴びる気持ちよさとは当分「さよなら」だ。絶対にシャワー入ってくださいねと言われた。
食事はお腹に残らないよう、消化のいい流動食になった。
緑のどろどろした物体や薄黄色のどろどろした物体、ヨーグルトなどがお盆に並ぶ。
薄黄色のどろどろはりんごだったので美味しく食べられたが、緑のどろどろは何か分からなかった。
メニューを見ると「小松菜のおひたし」。
普通に小松菜のポタージュと書かれていれば食べられたのかもしれないが、おひたしがどろどろになっていると思うと食欲が失せた。
リハビリのMさんに「クリスマスイブなのに、どろどろごはんなんだよ。お正月もおせちも食べられないよ」と訴えると「大丈夫!どれも食べられなくて残念なほど美味しくないから!」ときっぱり言うのが面白かった。

ICU看護師訪問

術後、最初に行くことになる第1ICUの看護師さんが挨拶に来てくれた。
私のことを少し聞かれた後「元気になったらやりたいことはありますか?」と聞かれた。
いつも通り美容院に行きたい、アロママッサージがしたい、よもぎ蒸しがしたいと答えたあと「H先生と約束した原稿が書きたいです。肝移植の記録です」と言った。
そうだ、私は肝移植の記録を書くことができる貴重な経験者だ。
どんな記録になるのだろう。
想像もつかない。
でもただ、楽しみだった。

またね!

妹と息子が顔を見せてくれた。妹は荷造りを手伝ってくれたあと、みんなでお茶をした。
なんとなく名残惜しくていつまでも誰も動こうとせずにラウンジにいたが、看護師さんに「そろそろ」と言われて、妹と息子は帰り、私と夫は病室に戻った。
その後、夫と夕食がまた謎のどろどろだった話や病院の外に見える風景のことなどたわいないことをおしゃべりしていたら20:00になっていた。
ゆっくり寝る準備をしようと、それぞれの病室に戻った。

手術前夜

手術は8:00に始まるから、明日は義父母と私を可愛がってくれる姉のような存在の親戚Tさん、妹は7:30に来てくれることになっていた。
それまでに下着をT字帯に変え、着替えを済ませる。
今夜は眠れるだろうか。
不思議と落ち着いているから、眠れるだろう。
今日はクリスマスイブだ。
この寒空の下、みんなが楽しくて幸せな温かい気持ちだといいな、と思いながら気がつくと眠っていた。

手術の朝


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