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ルシャナの仏国土 白樺編 27-32


二七.大切な数分間

 三日後の金曜日、アレクセイの姿は国立博物館にあった。何故かそわそわして落ち着かず、足が向いてしまったのだ。博物館長のピョートルに面会を求めると、すぐに会ってくれた。
「これはこれは。殿下にはご機嫌麗しゅうございます。して、ご用件は何でございましょう?」
 アレクセイは、皇太子になった当時から幾度となく訪れているので、ピョートルは今回も彼が何かを学びに来たと思ったらしい。
「忙しいところを申し訳ない。実は、職員名簿を見せて欲しいのだ。」
「はぁ・・・。他ならぬ皇太子殿下のご希望とあらば、お見せすることはできますが、なにゆえに?うちの職員が何か?」
「いや、ただ確かめたいことがあるだけなのだ。あまり気にしないでくれ。」

 彼は名簿をササッとめくってマリンの名を探した。
(あった・・・!)
 古物修復部という部署にマリンの名があった。やっぱり裏方か・・・。
「この古物修復部、ちらっと覗かせてもらえないかな?」
「古物修復部・・・ですか?まあ、面白いと言えば面白いですけれど。静かなところです。」
「できるだけ邪魔にならないようにするよ。廊下からも見えるのだろう?それだけでいい。」

 古物修復部をガラス越しに覗くと、数人が古くて今にも砕けそうな木の束を丁寧に一枚ずつ剥がして、テーブルに並べているところだった。繊細さと集中力が求められそうな作業だ。
「今は、古代の書物を整理しています。それらはできる限り元に近い状態に組み立てられて、解析され、それから保管庫に入れられます。解析した結果の内容は、基本的に国立図書館に渡されます。」
「うん。・・・」
 アレクセイの目は、修復されている書物ではなく、髪を固く上部に結い上げ、覆いをかけて作業をしている白衣の職員の一人に向けられていた。
(間違いない、彼女だ・・・。)
 館長も、若き訪問者の視線が何処にあるかに気がついた。
「マリンがどうかしました?彼女は真面目な子なんですが。」
 アレクセイは、館長を少し離れた場所まで誘導してから口を開いた。
「ペーチャ、今から話すことはどうかくれぐれも内密に頼む。マリン本人にも、私が来たことは内緒にしておいてくれ。実は、三日前に街中で偶然会ってね。少しだけだが話もした。それ以来、どうしてか気になっている。今日も、彼女が働いているところを見たくてここに来たのだ。」
「では、殿下が今日いらしたのは、働いているマリンをご覧になりたかったからなのですか?」
「そうなんだ。三日前に会ったばかりなのにおかしいかもしれんが。」
「・・・そうでしたか。あの子はよくやってくれます。コロコロとよく笑うので、周りが和みます。休みの日は小さな子の面倒を見ているようですが。あぁ、もしかしたらその時に?」
「うん。甥御さんだと聞いたが。」
「はい。あの子の一家は海運業で、海に出たら長期間帰らないのだそうです。」
「そうか。それで事情が分かったよ。」

 火曜日、あのカフェテラスに行くと、やはりマリンがエドワードを見守りながら座っていた。
「やあ、マリン!やっぱりいたね。こんにちは、エド。」
「皇太子殿下!」
 マリンはゆっくり立ち上がり膝を引いた。エドワードはただ彼を見つめている。アレクセイは子供の目線に合わせてかがみ込んで優しく話しかけた。
「エド、しばらくおばちゃんを借りていいかな?」
「うん。」
「ごめんな。あとでお兄ちゃんが遊んであげるからね。」
「殿下、よろしいのですか?貴重なお時間を・・・。」
「マリン、今からの数分間は僕にとってこの上なく大切な時間になる。それ以上のことはないんだ。」
「えっ?」
 驚いて少し見上げた相手の顔は、彼女の義兄が姉と話しているときと同じ、ごく親しい者を見つめる男のものだった。
「殿下?」
 アレクセイは、膝をついていた彼女の両腕を持ってゆっくり立たせ、左手を握った。
「マリン、僕と結婚を前提にしたお付き合いをしてくれないか?」
「え・・・。殿下とお付き合い?聞き間違えてない・・・ですよね?私・・・。」
「大丈夫。でなきゃ、女性の左手をこうして握ったりしないよ。僕が生まれ育ったところでは、男性が愛の告白をするときには女性の左手薬指に口づけをするんだ。こうやってね。」
 アレクセイは、マリンの左手薬指に軽く口をつけた。彼女は立ちすくむ。
「驚かせて済まない。出会ったばかりなのに変だよね。・・・でも、あの日からずっと君のことが頭から離れない。もし他に恋人がいないのなら、僕と付き合ってほしいんだ。
 疲れ切って帰った部屋に君が出迎えてくれたら、どんなにか心が安らぐことだろう。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなった。お付き合いしてみて、合わなそうなら、それでも構わない。どうかな?」
 アレクセイの顔は真剣だった。マリンは、彼の眼差しに引き込まれそうになって、断ることをすっかり忘れてしまった。
「わかりました。私でよろしければ・・・。」
 彼女は、即座に答えている自分自身に驚いた。
(なんで?どうして私、こんなに早く答えるの?それに皇太子殿下なのよ!)
「よかった!ありがとう!
 それじゃまた日曜日の仕事が終わったら、ここに来てくれ。日曜日なら、二人きりで会えるだろう。まずは、そうだな、僕がこの国に来るまでの話でも聞いてもらおうか。
 さて、エドと遊んでくることにしよう。」
 それだけ言うと、彼はエドワードの近くに行って一緒に遊び始めた。

 マリンの薬指には彼の唇の感触が残っている。一方で、エドワードと石蹴りをして遊んでいる彼は、あたかもエドワードより少しだけ年上の子供のようにも見える。どちらが本当の彼なのか・・・。でもそのどちらもが好ましい。
「殿下・・・。」
 この国に来るまでの話・・・?そういえば数年前の立太子礼のニュースで、皇太子はオルニアから選ばれてきた人だと言ってたっけ。どんなふうに暮らしていたんだろう。聞いてみたいなぁ・・・。

二八.レストラン『コーシカ』

 アレクセイは、マリンを行きつけのレストラン『コーシカ』に連れてきた。店主のミハイルは、彼を皇太子だと知っているが、敢えて特別扱いしない。彼にはそれが有り難い。
「おや、アリョーシャが女の人を連れてきたとは!珍しいこともあるものだ。彼女かい?」
「いや、まだこれからさ。」
 アレクセイは彼女を窓ぎわに座らせ、自分はその向かい側の席に腰を下ろした。夕焼けから夜へと変わっていく街並みは、黄金という名を持つに相応しい姿になる。彼はレストラン自慢の名物料理を注文した。ラム肉のハーブ焼きだ。
「君もこれからは僕をアリョーシャと呼んでくれ。そのほうが気楽でいい。さて、と・・・じゃあ、まず僕の生い立ちから話そう。」
 マリンは彼を見つめる。この人のことを知りたい、そう思って、今日ここに来た。でも、私にとってこの人はどんな存在になっていくのだろう・・・。

「僕は、オルニアの首都・湯井岡市内で生まれ育った。その頃の名前は藤原景時かげとき。父は樹木医であちこちを回っていて、家を空けることが多かったが、それでも多くのことを教えてくれた。人として、また男として如何にあるべきか、また樹木医の知識もね。
 母は、ともすれば一人で絵を描いてばかりで隠りがちだった僕を、なるべく外に連れ出して近所の子供たちと一緒に遊ばせた。『たくさん遊ばないと、立派な大人になれないわよ』というのが口癖だった。
 絵が好きだった僕は、美術大学に入った。しかし、その在学中、両親は火事で亡くなった。突然だったよ。・・・」
 マリンは、哀しそうな顔をして俯く彼を見た。おそらく亡くなった両親を思い出したのであろう。こんな時にかける言葉が見つからない。でも、彼に何かしてあげたい・・・。彼女は、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
「ありがとう。・・・そうして、なんとか大学は卒業したけど、そうそう上手く画家で生計を立てられる訳もない。街の広場で似顔絵描きをしていた。
 ある日、一人のライランカ人が通りかかった。これから髪を切りに行くから、記念に似顔絵を描いて欲しいという。そして、自分は警察学校の副校長で、訓練生を集めている、もしよかったら、警察学校で訓練を受けてみないかと誘われた。絵を描きながらでも警官はできるから、と。実際、似顔絵を任務に役立てている警官の話も聞いていたから、僕はその話を受けた。普通は二年かけて取る巡査資格をその学校では一年で取らせて先に進む、それだけにとても厳しい訓練ではあったけれど、楽しい日々でもあった。」
 マリンは、警察官の制服を着たアレクセイを思い浮かべた。そう言われれば似合うかもしれない・・・。

「そしてあと半年で卒業というときになって、僕は、自分に声をかけてくれたライランカ人女性の本当の身元を明かされた。それがファイーナ姫だった。ファイーナ姫は、その時すでに余命宣告を受けていて、次期皇帝候補を探しに来られたということだった。そして僕を選んでくださったんだ。
 勿論その時は、ずいぶん迷ったよ。なんと言っても、一国を統制する重責だ。だけど、警察学校で身につけさせてもらった知識と技術は並大抵のものじゃなかった。その力は、正義にこそ使われるべきではないのか、と思ったんだ。また、もし僕が断れば、警察学校のみんなの成果が、ファイーナ様や校長の加賀警視正たちの指導がひとつ無駄になってしまう。
 ファイーナ姫が僕のどんなところを選んでくださったかはまだ分からない。でも、やれるだけやろう、そう思ってお受けした。
 それに、ファイーナ姫と加賀警視正が愛し合っていることを知っていたから、僕はその行く末をどうしても見届けたかった。加賀警視正というのは、今のクファシル公卿のことなんだけどね。」
 彼は、外が暗くなりかけていることに気がついた。
「そろそろ外が暗くなってきたようだ。続きはまた来週にしよう。送ってくよ。」

 マリンは、姉一家の家に同居していた。
「あら、マリン、遅かったわね。」
 迎えに出たのが姉のシエナなのだろう。なんとなく似ている。
「ごめんなさい、お姉さま。こちら、皇太子殿下。」
「えっ?」
 シエナは、そのとき初めてマリンを送ってきた人物がいることに気づいた。
「こ、皇太子殿下!」
 慌てて膝を引こうとする。
「あ、そのままでいい。それに、どうかマリンを叱らないでやってくれ。僕が食事に誘った。これから、結婚を前提にお付き合いしたいんだ。」
「殿下?本当なのですか?・・・マリン、貴女まさか・・・?」
 シエナはたいそう驚いた顔を見せた。皇太子と結婚するということは、将来的に皇后になることを意味する。大変なことだ。
「私もまだ分からないの・・・。でも、今は彼とお話ししていたい・・・。」
「マリン・・・。」
 姉は妹が急に大人びた表情になっているのを見た。
「そう・・・貴女も恋をしているのね。いつの間にか大人になって・・・。」

 その次の日曜日、アレクセイはマリンを再び『コーシカ』の二階席に案内した。他に客は一組いたが、先に帰った。その日の料理は、サーモンのクリームシチューで、彼はブランデーも注文した。

「前はたしか、オルニアの警察学校のところまで話したね。
 そんなわけで、僕とファイーナ姫と加賀警視正、あと同期生一人の四人でライランカ行きの船に乗って来た。
 アルティオ帝陛下には、その時初めてお目にかかった。僕が今のアレクセイという名前になったのは、その時だ。
 ファイーナ姫がクファシル公卿と結婚して幸せになったことは、君も伝え聞いているだろう。お二人の幸せを身近で見届けられて、僕は本望だった。
 だけど、僕は一人の女性をあれほど幸せにできるのだろうかと思う。実を言うと、僕が今まで独身だったのは、その心配があったからなんだ。愛したいと思う人にも出会わなかった。・・・でも、君は違う!」
 アレクセイは、しっかりマリンを見つめた。
「こんな人が毎日部屋に居て出迎えてくれたら・・・出会ったその日にそう思った。僕の一目惚れだ。
 マリン、僕の妻になってくれ!もっと君を知りたいんだ。いっぱい話していたいんだよ!」
「アリョーシャ、私も同じ。もっと貴方の声が聞きたい。もっとよく貴方を知りたいの。こんな気持ちは初めて。・・・」
 ブランデーの香りが満ちた。出会いから、わずか半月後のことだった。

 閉店を告げに来たミハイルは、二人が口づけを交わしているのを見て、そのまま引き返した。
(やっぱり『彼女』だったんだ。おめでとう、アリョーシャ!・・・こりゃ、国じゅう賑やかになりそうだ・・・。)

二九.王宮へ

 アレクセイは、マリンを家まで送り届けた。扉を開ける前に、彼女に確かめる。
「これから、君のお姉さんに話す。そうしたら、後戻りはできない。いいね?」
 マリンは、彼の目を見つめた。静かに全てを見つめてきたような瞳・・・。私、この人と結婚するのね。一緒に笑って、一緒に泣いて・・・。
「アリョーシャ、貴方となら何処へでも行く。」
 二人は再び唇を重ねた。

「マリン、おかえり。これは殿下。お送り下さって、どうもありがとうございます。」
 姉のシエナが玄関に出てきた。
「シエナ、明後日の火曜日は仕事を休んではくれまいか?マリンとエドと君の三人を、宮殿に招いて話したいのだ。実はさっき、マリンは僕のプロポーズを受けてくれた。皇帝とクファシル公卿に紹介したいと思う。」
「えっ、もう?」
 シエナは驚く。二人が出会ってから、まだそうは経っていないはずだ。
「では、火曜日の朝十時に迎えに来る。おやすみ。」
 彼は帰って行った。シエナは、妹の顔を見た。
「マリン、本当にいいの?殿下とはまだ会って間もないはずなのに。」
「たぶん大丈夫。彼は私と同じことを考える人みたい。大切なのは時間じゃない、心のあり方だと思う。私、彼のことをもっと知りたいの。」
「そう・・・それなら、明後日確かめましょう。お姉さんも行くわ。」

 火曜日当日、十時きっかりに馬車が着いた。白樺の葉を模した紋章が付いている。ライランカ王室の紋章に違いなかった。
「どこにいくの?」幼いエドワードが訊いた。
「お兄ちゃんのおうちだよ。広いぞぉ!」
 アレクセイが優しく答えた。彼はエドワードを抱えて馬車の前部分に座った。馬車は、湖畔宮殿に向かって進み出した。
「わぁー!すごーい!」
 エドワードは、初めて乗る馬車からの景色に喜んだ。

 馬車が宮殿の車寄せに着くと、アレクセイは二人に言った。
「混乱させるかもしれないから、先に言っておこう。僕が父と呼ぶのがアルティオ帝、兄と呼ぶのがクファシル公卿だ。元を正せば血のつながりはなく、本来ならば皇帝陛下と公卿殿下と呼ばなければならないのだろうが、今は本当の家族として扱ってもらっている。だから、君たちもそのつもりでいてくれ。」
(そうだわ、彼のご両親はもう・・・。)
 マリンは、彼の話を思い出した。

 アルティオとクファシルはすでに『白菊の間』で待っていた。
「父上、兄上、お待たせしました。これがマリン。そしてシエナとエドワードです。」
「うん。なかなか可愛い子じゃないか。でかした、アリョーシャ。」
 アルティオが言った。
「本当に、人に心配をかけておいて何だ。隠してたんじゃないだろうね。」
 クファシルも、にこにこ顔で出迎えた。
「申し訳ありません、兄上。本当に、この半月で知り合ったんです。一目惚れというか・・・。」
 お茶とお菓子が運ばれる。エドワードは、宮廷職員に中庭に誘われて菓子を食べさせてもらって喜んでいる。
「悪いが、一応身元を確認させてもらった。ご家族は、海運業だそうだね。」
「はい。規模は小さいですが、主に木材の輸出産業です。」
「必要なら、午後は保育士を派遣してエドワードの保育に当たらせるが?」
「えっ、そのようなことまで・・・。よろしいのですか?」
「勿論だとも。私たちも、早くアリョーシャに結婚してもらいたいからね。
 こちらこそ、幼児保育を不備のままにして済まない。今、会議にかけている。」
「皇帝陛下・・・。そんな。」
 紫政帝もそうだが、アルティオもまた行政の不備を詫びるのは皇帝として当然のことだと考えている。皇帝とは、それだけ責任が重い立場なのだ。
「いや、君たちだけではない。小さな子を抱えて働く女性すべてのためになることだ。アリョーシャが良い提案をしてくれたのでな。」
「皇帝陛下・・・。」
 この方々なら、マリンを嫁がせてもいいかもしれない・・・と、シエナは思った。

 マリンは、さっそくその晩から宮殿のゲストルームに泊まることになった。マリンとシエナは驚いたが、アレクセイの意向はとても強かった。
「婚約を発表して、君に何かあったらと思うと、気が気でないんだ。それから、君には覚えてほしいことがたくさんある。五弦琴も弾かなければならない。」
「五弦琴・・・。」
「教えてくれるのは、兄上だ。僕と一緒に習おう。」
「いろいろあるのね。」
 マリンは、アレクセイを見た。この人が皇太子であってもなくても関係ないと思っていたけれど、現実問題として王室ならではの事柄が多く存在することは間違いない。それは仕方がないことだ。

 翌日、マリンはアレクセイに伴われて国立博物館に出仕した。辞表を出すためである。館長のミハイルは、このことを予見していたらしく、あっさりと辞表を受け取った。
 これにはマリンのほうが驚いた。
「よろしいのですか?」
「無論、君のような優秀な職員を失うのは惜しいがね。皇太子殿下が、君が働いているところを見に来られた時から予想はついてたよ。おめでとう!」
「えっ?!アリョーシャが?いつの間に!」
 アレクセイは頭をかいた。
「いやー、つい気になって、ね。」
 知らないあいだに見られてたんだ・・・マリンは急に恥ずかしくなった。

三十.油絵の匂い

 マリンは、王族の食卓に加えられた。そこにはアレクセイだけでなく、アルティオとクファシルも同席しているのだ。
「皇帝陛下、公卿殿下とのお食事、まことに光栄に存じます。」
 初めて参加した時、彼女は緊張して言った。まるで夢みたい・・・。
「マリン、そんなに緊張しなくていいんだよ。もうすぐ君も私たちの家族になるのだからね。待ちに待ったお嫁さんだ。」
 アルティオは微笑みかけた。

 一方、アレクセイはマリンが座っている席が、かつてファイーナのものだったことに複雑な思いを抱いていた。
 確かに、自分が特別な感情を持つ女性が時を違えてファイーナと同じ席に座ることは、どうしても彼に二人の存在を意識させる。しかし、マリンはファイーナとは全く異なる雰囲気を持っている。重なることはない。紛うことなき彼の伴侶なのだ。その点では、アレクセイは安堵していた。

 それからしばらくの間、アルティオとクファシルは、マリンを観察していた。将来の皇后になるに相応しいかどうかを見極めようとしたのである。家が海運業ということで、国際的に通用する行儀作法は教わっていたらしい。加えて、何をさせてもそつなくこなす勘の良さ。彼らは感心するばかりだった。
 そして、何より驚いたのは、彼女が初めから五弦琴を弾けたことだ。
「博物館では遺跡から発掘された楽器の修復も致しましたので。」
 と、彼女は言った。
「その際に五弦琴演奏家の方から詳しい構造を伺いながら、しばらく音を鳴らしておりましたら、五弦琴の音がすっかり気に入ってしまい、習ったことがあるのです。でも、歌を作るのは・・・。」
 クファシルは応えた。
「それは心配ない。君が思うままを歌えば、彼女はきっと喜んでくれる。それにしても、アリョーシャはよく君のような人を見つけたものだ。私の下手な講義は必要ないな。」
「彼女?それでは王家の五弦琴とは、どなたかに聴かせるための五弦琴なのですか?」
「うん。守護精霊テティスにね。私もそれをファーニャから聞いた時は驚いたが、君ももうすぐ会えるだろう。」
「守護精霊テティス・・・。」
 テティスが実存していることは、マリンも伝え聞いているが、その彼女に対して王族が五絃琴を弾いて聞かせているとは知らなかった。

 アレクセイは公務の合間にマリンを連れて湖畔宮殿のあちこちを巡った。彼女に宮殿の内部を知ってもらうと同時に、職員たちにも彼女を紹介して回ったのである。やがて、最も奥まった部屋をひとつひとつ説明する段になった。クファシルの部屋、アルティオの居室、そして最後に案内したのは自らの部屋だ。
 中に入ると、いっぷう変わった匂いが漂う。しかし、古物修復作業を担って来たマリンには、それがすぐに絵画に使われる油のものだと分かった。
「これは・・・。油絵の具の匂い?」
 アレクセイは、少し驚いた様子で彼女を見た。
「よく分かったね。ときどきここで絵を描いてるんだ。」
「そう言えば、貴方は画家だったのよね。」
 アレクセイは照れくさそうに笑った。
「売れなかったけどね。」

 そうして、部屋の奥に招き入れ、自分が描きためてきた絵を見せた。だいたいが湖畔宮殿の近くの風景や何処かの森の絵だったが、人物画も幾つかあった。アルティオ、クファシル、ファイーナ・・・。中でも、ファイーナの肖像には特に念入りに幾度も手を入れた跡がある。
(アリョーシャはファイーナ様のことが好きだったの・・・?)
 そんな気がした。そしてそれは初めての感覚だった。嫉妬?・・・私、嫉妬しているの?姫様はもう亡くなっているのに?アリョーシャは片思いだったのに?嫉妬だなんて、私は心が醜いの?
 マリンは自らを恥じ、知らぬ間に俯いていた。

「実は今、君の絵を描いてるんだ。これ、どうかなぁ?」
 そんな彼女の元へ、アレクセイがキャンバスを運んで来た。まだ鉛筆スケッチに少しだけ絵の具が足されているような段階だったが、それは確かにマリン自身だ。
「私?私を描いてくれているの?」
「あぁ。でも似てないかな?」
 アレクセイは、自分が彼女を思って絵を描いていることを知らせたかった。そして彼女の反応を見たかったのだ。喜んでくれると信じて。
「いいえ・・・確かに私だと思うわ。・・・嬉しい・・・。」
 マリンは頬を紅くし俯き加減のまま暫くのあいだ絵を見つめてから、アレクセイの胸に飛び込んだ。彼は絵を手放して、両腕で彼女をしっかりと受け止め、強く抱きしめた。
「僕はおそらくずっとこの絵に手を入れ続けるだろう。そう、これからはずっと・・・。」
「これからは、ずっと・・・。」
 マリンは彼の言葉を繰り返し、顔を上げた。
(気付いたのか・・・。でも、今の僕にとっては、君が一番大切な人になったんだよ・・・!)
 アレクセイは、自分でも驚くほど大きな声で叫んでいた。
「マリン、愛してる!君をだ!僕の心には、君しか住めない!」
「アリョーシャ・・・!」
 マリンの身体の柔らかさと温もりを確かめながら、アレクセイは彼女と唇を重ねた。

 マリンは、改めて自分が彼を愛しているのだと実感していた。嫉妬と隣り合わせの醜い愛でも構わない!私が愛しているのは、この人なんだ!
 マリンは、彼のキスと抱擁に積極的に応えた・・・。

三一.薔薇のペンダント

 二人の婚姻を認めるための臨時市民議会が一週間後に開かれることが決まった日、アルティオは話を切り出した。
「アリョーシャがなかなか嫁を貰わんから、ずいぶん心配したのだが、これで私も安心して退位できる。」
「えっ?!」
 この言葉には、マリンのみならず、アレクセイとクファシルも驚いた。アルティオは言葉を続ける。
「もうそろそろアリョーシャに皇帝になってもらおうと思っていたのだ。私も先帝から譲位されたのは、結婚と同時だった。今のアリョーシャよりもっと若かったかな。
 なに、私は別にいなくなる訳ではない。指導権を完全に移して、それからは上帝と呼ばれるようになるだけだ。」
「父上・・・。」「陛下・・・。」
 一同の顔に安堵の表情が浮かんだ。惑星市民条約機構の定めの元に王制から皇帝制に統一されたとはいえ、その在り方は国によって異なる。普通に譲位する所もあれば、終身皇帝制の所もある。ライランカ皇帝が譲位後どうなるのかは、クファシルもアレクセイも知らなかった。できるだけ考えたくなかったのだ。
「では、これからも傍で指導していただけるのですね?」
 アレクセイが念を押した。
「うん。だが、私が君に教えることはもうないと思うがな。」

 皇太子の婚約と即位が正式に発表されたのは、次の週の議会承認後のことだ。
 お妃候補が生粋のライランカ人で国立博物館の元職員となれば、別段反対される理由はない。
 そして、譲位についても、皇帝自身の意思ゆえに尊重しようという結論に至った。
 アレクセイも、ライランカに帰化して三年、市民たちと気さくに接し、学びを怠らない彼の人柄は、いつしか国民の尊敬と信頼を得ていたのだ。

 そうして結婚式まであとふた月となったある日・・・。
 長い抱擁の中で、不意にマリンの髪がほどけてしまった。長い髪がばさっと背中に落ちる。彼女は慌てて髪飾りを拾って束ね直した。アレクセイには背を向けて。
 初めて見る彼女の後ろ姿、長い髪、それをたくし上げたうなじの白さ・・・。アレクセイは思わず彼女を後ろから強く抱きしめて項を唇でなぞってしまった。彼の右手は勢いあまって彼女の合わせ襟の隙間から懐に入り、左乳房をじかつかんでいる。
「あ・・・。」
 彼女は反射的に身を引いた。彼も慌てて飛び退いた。
「ご、ごめん!つい・・・。」
 彼女は、合わせ懐を押さえてそのまま走り去ってしまった。

 その日の昼と夜の食卓では、アレクセイもマリンも黙りこくったまま食事をそそくさと済ませて引っ込んでしまった。これは何かあったなと思うのが自然だろう。しかしアルティオとクファシルはそう心配してはいなかった。
「きっとすぐに解決しますね。」
「うん、多分な。」

 翌朝、ゲストルームの呼び出しベルが鳴った。マリンが扉を開けると、アレクセイが立っていた。
「あ。アリョーシャ・・・。」
 アレクセイは深く頭を下げて言った。
「昨日は本当にごめん!つい触れてしまって、本当に反省してる!実はこんなのを作ったんだ!結婚式までこれを服の下に下げていてくれないか。僕がまた変なことしないようにさ。この花びらに触れれば、僕の目が覚めるだろう。」
 アレクセイはペンダントらしき物を差し出した。白い薔薇が浮き彫りされている。マリンはそのペンダントに髪飾り用の部品も付いていることに気が付いた。

「これ、髪飾りなのね。」
 マリンはそれを受けとろうとして、しかし途中でその手を止めた。
「駄目か・・・。」
 しょんぼりするアレクセイに、マリンは言った。
「これは貴方の手で髪に留めて。」
「えっ?!」
「私は貴方の手でこれを私の髪に留めて欲しいの。だってこれは髪飾り。白い薔薇・・・貴方からのメッセージがこもってる。そうでしょう?私、髪飾りとしてもらったほうがとっても嬉しいの!
 貴方の手を止めるためのペンダントなんて欲しくない!」
「マリン・・・。」
 アレクセイは一瞬で安堵した。髪飾りを留めて、思い切り彼女を抱きしめた。マリンも彼を受け止めて抱きしめ返す。
「良かった。喜んでもらえたんだ!駄目かと思った。」
「そんなわけないじゃない。昨日はただびっくりしただけ。それに恥ずかしくて。
 貴方とは心が通じ合えるけれど、結婚には別の意味がある・・・。そのことに気が付いちゃったの。」
「僕もだ。でも、二人で行き着くところまで行こう。」
 二人は唇を重ね、微笑み合った。

三二.アレクセイ即位

 その年の五月、アレクセイの即位式と結婚式が滞りなく行われた。
「私は今ここにライランカ皇帝となった。力の限り人々のために尽くす。皆、私に付いて来てくれ!」
 それがアレクセイの即位宣言だった。歓声が沸き上がる。
「アレクセイ帝陛下、万歳!」
「我々は貴方様に付いて参ります!」
「マリン皇后陛下、万歳!」
「ご結婚おめでとうございます!」
 アルティオとクファシルは、その様子に目を細めた。
「どうやら、二人とも市民たちから受け入れられたようですね。」
「うん。ファーニャと君のお陰だ。感謝している。」

 その夜、アレクセイは皇帝として初めてテティス湖に行った。マリンも一緒だ。
 霧が湖を覆いはじめる。遠くから人影が近づく。人影はやがて一人の美しい女性となった。
「テティス、貴女はもう知っているだろうが、今日から僕が皇帝だ。こっちは妃のマリン。」
 アレクセイがマリンを紹介した。それから彼はマリンに教えた。
「テティスは、千里眼で千里耳なんだ。心を読み、時間を遡り、空間を動かすことも出来る。」
 マリンは、その場に跪いた。
「マリンです。」
 テティスは、微笑んで言った。
「ご結婚おめでとう!私からも祝福を送ります。
 そんなに畏まらないで、マリン。私は、貴女のこともよく知っているのよ。このライランカ全土が私の視界。それに、貴女はもう王家の一員。私に五弦琴を聴かせてくれる最後の人となるでしょう。」
 アレクセイが驚いて尋ねる。
「最後の人って・・・どういうことなんだ?!テティス!」
 言ってから、彼は思い出した。
「貴女が救われる日が近い、そういうことなのか?!」
 精霊テティスはそれには答えずに言った。
「それから、マリン。落ち着いたら、五弦琴を持って来て歌って。楽しみにしています・・・。」
 テティスは消えた。

「テティス・・。貴女はやはり・・・。」
「どういうことなの、アリョーシャ?」
「マリン、君は『星法せいほうしょ宝華品ほうげぼん』の中身を細かく記憶しているかい?」
 彼は少しのあいだ目を閉じた。
「あの中には、テティスのことも書かれている。年代から推測して、テティスの精霊としての寿命はもうそろそろ尽きる筈なんだ。彼女は、その寿命が尽きる間際、苦しみから救われる・・・そう書いてあるんだよ。
 帰ろう・・・。テティスは、僕たちを祝福してくれた。今夜はそれで充分だ。」
「アリョーシャ・・・。」

 二人は、皇帝の居室と決まっている『鈴掛の間』に入った。本来であれば、その夜は初夜となるはずであったが、二人ともそんな雰囲気ではなかった。普通に寝間着に着替えて、寄り添って横になる。
「アリョーシャ、テティスはいなくなるの?」
 アレクセイは仰向けになったまま答えた。
「おそらく近いうちにそうなるんだろう。詳しい事情は、僕にも分からない。だけど、彼女が何かを抱えていることは確かだ。」

 その様子を、テティスは湖から見ていた。
「ありがとう、アリョーシャ、マリン。もうすぐ全てを話せるわ。私はもう既に救われたの。あとは帰るだけ・・・。」

(「海洋編」へ続く・・・)


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