ルシャナの仏国土 海洋編 21-25
二一.聖槍か魔槍か
「それにしても、何故私をお使いにならなかったのです?」
ボーディが尋ねた。アムリタが自分の分身竜に乗って、その母竜のところに行ったのが不審だったのだ。本来ならば、自分の目を覚まさせて母竜の様子を見させるのが普通であろう。そもそも騎士たる自分が、己の分身竜の問題を引き受けなくてどうする!
アムリタは、その時の気持ちを懸命に思い出しながら首をかしげる。
「うーん。何故かしらねぇ。私、あの時は私が行かなくちゃ、って、夢中で・・・。」
マグダレナが言った。
「もしかしたら、その槍はアムリタにしか抜けなかったのかもしれないねぇ・・・。」
「どういうことだ?!私のほうが力が強いぞ。このような槍一本、造作も無く抜いてみせるわ。」
「あたしにゃ、そういうことはさっぱりだが、もしその槍が物理的な力ではなく、心でしか動かせないとしたら?
ボーディ、あたしゃ別にあんたの能力がどうとかって言ってるわけじゃないんだ。ただ、人には向き不向きというのがある。アムリタは義務感とは無関係に母竜を助けたいと強く願った。無償の慈愛ってとこかね。それともあんた、自分がアムリタより優れているとでもお言いかい?」
そんなふうに言われては、ボーディも引き下がざるをえない。ボーディとスヴァーハーは一心同体。ボーディの主はスヴァーハーにとっても主なのだ。
「アムリタ様、ご無礼仕りました。」
彼女は頭を下げた。
「いいえ、貴女がそう思うのは当然です。私も理由が分からないもの。だって、たとえスヴァーハーが貴女の意に反して行動したとしても、いつもなら貴女は意識を失うことはないはず。あるいはあの母竜が貴女をこの槍からは遠ざけようとしてわざと眠らせたのかもしれない。それにしてもこの槍・・・竜族の力を殺ぐなんて普通の槍じゃなさそうね。聖槍か、それとも魔槍か・・・。」
アムリタは己が手に握った黄金の槍を見やった。
「とにかく、この槍の正体が分かるまで、ボーディ、貴女はこの槍に触れてはいけません。」
「かしこまりました。」
もしかしたらこの槍は竜族には悪い影響を与えるものであって、アムリタ様はそれを見越してらっしゃるのかもしれぬと、ボーディは考えた。
マグダレナが言った。
「アムリタ、あんたは平気なのかい?それに重たくないみたいに持ってるじゃないか。」
「別に何も感じないわ。軽いし。・・・そうだ、お父様に訊いてみたら分かるかな?もうすぐ陸地に着くでしょう?お手紙を書くわ。何もテレパシーを飛ばしたりスヴァーハーを使いに出したりする必要はありません。」
アムリタは悪戯顔でボーディを見た。
「アムリタ様・・・私が皇帝陛下に使いを出したことをご存じなのですね。」
「私に隠し事はできませんよ。その時には分からなくても、私はいつでも貴女の記憶を辿ることができるのですから。ふふふっ。」
アムリタからオンネトとサトヴァに宛てた手紙・・・
手紙は、オルニアの港からウユニ行きの定期運航船に乗せられた。
オルニアは、世界一の穀倉地帯である。シャンメイが説明した。
「ここにいたのが、このあいだ亡くなった兄なの。宮廷の派手さを嫌って、警察官として働きながら皇帝陛下を補佐していた。それでもライランカの姫様と愛し合って、向こうで公卿になっていたのだけれど・・・。」
シャンメイは亡き兄を偲びながら、首都・油井岡市に足を踏み入れる。この町には、貴重なシルクの専門店があるのだ。その店での買い付けは彼女に任されていた。
「やぁ、シャンメイさん、いらっしゃい。お待ちしてましたよ。」
店主が愛想良く出てきた。向こうでも、彼女は妥当な値で買い付けてくれる良い客である。
「おや、今年はお連れさんもご一緒で。まるで天使と騎士のような方々ですな。」
店主は、背中に羽根があるアムリタを眩しそうに見て微笑んだ。シャンメイは、二人を安心させようとして言った。
「このご主人は、ウユニにも何度も行かれていて、慣れていらっしゃるの。それに、オルニアでは平等が尊ばれる。外国人でも同じなのよ。」
アムリタは挨拶した。
「私はアムリタと申します。こちらは従者でボーディ。」
シルクの買い付けはいつも通りで、さほど時間はかからなかった。ただ、店主はボーディの怪力に目を見張った。彼女は一年分のシルクの束をまとめて肩に担いで、あっという間に船に走って行ってしまったのだ。
「惜しいなぁ。うちも、あの方のような力持ちをぜひ雇い入れたいものです。」
「それは残念ですわ。この方々は、一回限りですの。」
荷物を運び終えて帰ってきたボーディと森で合流して港に戻ると、漆黒の帆船が停留していた。シャンメイは、その船を見つけると喜んで走って行って、見張りの船員たちに何か言った。彼らもシャンメイのことをよく知っているらしく、親しげに話し込んでいる。
そのうちに彼女はアムリタとボーディを手招きして呼んだ。
「ここの船長も兄なの。紹介するわ。」
シャンメイに付いていくと、やや大柄な船長が彼女たちを出迎えた。
「シャンメイ!久しいなぁ!元気か?」
「ホルス兄!」
シャンメイが抱きついた。彼女が普通の女性であることを二人に見せるのは、あのスノー・クリスタルの墓参に次いで二度目だ。しばらくするとシャンメイは兄の胸にすがって泣き出した。
「ホルス兄・・・。マコ兄が・・・マコ兄が亡くなったって・・・。」
「うん。聞いた・・・。俺も数日前にライランカでイリーナ姉と会って、事情を聞いてきたところだ。ジョギング中に倒れたらしい。」
二人の兄妹は亡き兄を悼んだ。
二二.伝承の詩
シャンメイは、ホルスにアムリタとボーディを紹介した。
「ほほう、南の端から北の端へ、恩人に会いにねぇ・・・。」
ホルスは目を細めた。
「で、相手の居るとこは分かってるのか?ライランカにしたって、人は五千万人いるんだぜ。どうやって見つける気だ?」
「お名前と当時のご住所は分かってますが、行ってみないと・・・。」
「何でぇ、行き当たりばったりか。しょうのねぇ姫さんだな。」
「無礼な!姫様に向かってその口の利きよう、シャンメイ殿の兄上といえども許しませんぞ!」
ボーディは腹に据えかねたらしい。アムリタが押しとどめる。
「ボーディ、この方の優しさが分かりませんか。澄んだ瞳をしておられる。」
「えっ?」
「貴女も先ほどシャンメイ殿との兄妹愛を見たはず。」
そうだった。この人はシャンメイ殿を優しく包んでおられた・・・。
「ご無礼した。」
ボーディは頭を下げた。
「ま、俺もこういう話し方しか出来ねぇから、無礼にはなるな。許してくれ。
さて、行き当たりばったりもいいがよ、もっと良い話があるぜ。シャンメイ、お前はマコ兄のことをどこまで話した?」
ホルスは、シャンメイに問いかけた。
「え、たしか・・・オルニアで警察官をしていて、ライランカの姫様と結婚したことは話したと思うけど。」
「えぇ、そう伺ってます。」
アムリタが言った。
「そうか。それでな・・・俺は当時の皇太子と引き合わされたことがある。今は即位してるそいつに手伝ってもらったらどうだ?名前が分かってるんだったら、一発だぜ。」
「キャプテン・ホルス、どうもありがとうございます。貴方はやはり優しい方ですね。」
アムリタは言った。ボーディもこの男の度量を察して主の傍らに静かに控える。
「ま、ウユニのお姫様が来たってことになれば、宮殿でもおそらく通してはくれるだろうが、俺からもライランカにいる姉貴に一筆書いとこう。今の名前は、イリーナ・タラノヴァ、環境局長官をしている。着いたら、先にそっちに行け。
ときに、ボーディと言ったな、騎士だったら当然腕は相当立つんだろう?俺と立ち合い稽古をしてくれねぇか?俺は強い奴と戦うのが大好きなんだ。」
ボーディはアムリタを見た。彼女は頷いた。戦って良いという許可である。
「喜んでお相手仕ります。ただ、ここでは手狭ゆえ、甲板のほうで。」
「おぉ、有難ぇ。よろしく頼んまぁ。」
船員たちも見物に加わって、船のほとんどの者が甲板に出た。
「私はこれから姿を変えます故、しばしお待ちを。」
ボーディは、一旦背を向けて分身竜と分かれた。
(お、素顔は可愛い顔してるんだな。)
そう思ったのは、ホルスだけではない。ジャッカルはいつになく胸が疼いていた。
手合わせがしばらく続いた・・・。
「さすがに騎士だな。なかなか手応えがある。」
ホルスは、息を弾ませながら剣を納めた。久しぶりに良い相手を見つけて喜んでいる。
「貴殿こそ。とてもお強い。シャンメイ殿ともお手合わせしたが、それ以上とお見受けする。先ほどは誠に失礼した。お許しいただきたい。」
「それは気にしなくていいぜ。貴女の強さに敬意を表して、更なる情報を提供しよう。
さっきから話に出てるマコトという兄貴は、オルニアの警察学校でとてつもなく強い剣士たちを育て上げた。警察官級とかいう階級らしい。ライランカのアレクセイ帝も、その一人だ。今じゃ、そいつも俺たちにとっては末の弟ってことになってる。奴に会ったら、その黒い剣を見せてもらえ。それが目印だ。
シャンメイ、お前もだ。もし黒い鞘で青白く光る刀身の剣を持った奴と出くわしたら、決して敵に回すな。それは、マコ兄の教え子の可能性がある。・・・これはマコ兄の遺言だ。」
「黒い鞘の剣・・・。」
シャンメイが呟いた。
その頃、ウユニの時間城では、オンネト帝が娘からの便りを読んでいた。
「竜族の力を殺ぐ黄金の槍・・・か。」
世に『黄金の槍』は数多ある。竜族の力を殺ぐというからには、おそらくウユニとも何らかの関連があるものであろうが・・・。彼が知るアムリタの翼の色が黄金色だというのも引っかかる。
ウユニに伝わる伝承である。その意味するものは、現在全く伝わっていない。しかし今現在、黄金の槍と翼が同じ場所にあって、海を渡っているのだ。
オンネトには胸騒ぎがしてならなかった。彼はこの詩を併せて娘に返事を書いた。
手紙を書き終えた時だった。上からバサバサという音と、彼に語りかける声が聞こえた。
「オンネト、時が来た。上に来い。私と共にライランカへ行くのだ。」
城の屋上に出てみると、ガルーダがいた。
「ガルーダ、どういうことなのだ?」
「もうすぐ一つの魂が尽きる。・・・ライランカはその形を変えるのだ。・・・」
二三.魂の揺りかご
ウユニからライランカまで、船では最短でも十四日ほどかかる。その距離をガルーダは三時間で飛ぶ。
オンネトは、そのあいだにガルーダから詳しい事情を聞くことができた。彼の話によれば・・・。
精霊の寿命は三千年。そもそも精霊には、地上に何らかの強い思いを残した魂が形となったものも含まれる。そうした形の精霊は、その思いが叶えられた暁には消滅するものなのだ。
そうした精霊たちの魂を本来あるべきところに帰すのに必要なものが二つある。それが莫大な『法力』を内包する黄金の錫杖とそれを操る人間だ。アムリタは、この務めを担うに相応しい力量を持っている。彼女が生まれた時から、ガルーダは覚者ルシャナの命により秘かに見守ってきた。あの忌まわしい事件は、ほんの些細な事故に過ぎない。
そして錫杖のほうは、様々に形を変えながら、十年ずつ百代にわたって各々の生命体に受け継がれた。スヴァーハーの母竜の場合は、それが最後の代となるため、槍の形を成して喉に突き刺さり、その血をギリギリまで大量に吸収し続けた。
今回帰される魂・・・ライランカのテティスを帰すには、それだけ膨大な法力が必要だったのだ。今、彼女は、およそ三千年の寿命の間際にその強い思いが叶えられ、その魂が今まさに尽きようとしている、とのことだった。
「十年前、君はアムリタを引き取ると言った。あれもこの時のためだったのか?それに何故君と私まで行く必要があるのだ?」
「それは違う。あの子は人間だ。人間は、やはり人間によって育てられるのが一番なのだ。あの子にもあの子の未来がある。たとえ運命といえども、あの子から未来そのものを奪うことはできぬ。
君に来てもらうのは、あの子を守ってもらうためだ。そしてその時に間に合わせるためには、私が送り届けなければならぬ。そして私は・・・。」
ガルーダはそこで言葉を切った。
「私は、まだルシャナ様が悟りを開かれる前に、あの方の体を借りた星の精ルシア様の手で、精霊のひとつが『魂のゆりかご』に帰された場に居合わせたことがあるのだ。この星の中心にあたる『魂の揺りかご』に。
つまり『魂帰しの儀式』は、宇宙の理によるものであり、星の精ルシア様および覚者ルシャナ様のご意志でもあるのだよ。」
「それで、ガルーダ、魂はどのようにして帰されるのだ?私にあの子を守れということは、何らかの危険が伴うということなのか?」
オンネトは娘を案じた。
「悪いが、それは私にも分からぬのだ。私が見た『魂帰しの儀式』は、星の精ルシア様ご自身によるもの。それを覚醒したばかりのアムリタが行ったら、どうなるのか。莫大な法力はあの子にはとてつもない負担となるに違いない。あの子の身が案じられてならぬ。
きっと覚者ルシャナ様も、そのようにお考えになって、君を送り届けるよう、私に命じられたのだろう。」
そしてオンネトはふと振り返ってガルーダに尋ねた。
「ときに、先ほどすれ違った船にもウユニ人の気配を感じた。君も気づいていたかね。」
「あぁ、何か戸惑っているような感じだったな。何故だろう。」
オルニア大陸を越えた海域で、オンネトは娘の姿を捉えた。彼は一羽の鷹を自らの内から取り出して手紙を持たせて放った。
「我が僕ソージュよ、行け。我が子の元へ!」
アムリタも父帝がガルーダに乗って上空を過ぎていくのを見た。
「お父様?ガルーダ?何故私を通り越して行ってしまうの?」
しかし彼女は父親の気配を感じる一羽の鷹が手紙をくわえてきたのを見て、その意図を悟った。父とガルーダは何かの事情で先にライランカに着かねばならないのではないか・・・。
彼女は鷹から手紙を受け取った。彼女が手紙を読み終えた時を見計らって、鷹が父親の言葉を追加した。
(私はお父様の僕ソージュにございます。そのお手紙に間に合わなかった内容をお伝えいたします。
ライランカを守ってきた精霊の魂が今その寿命を終えようとしています。その時に貴女様がその錫杖を使って、その魂を星の中心にあたる『魂の揺りかご』に帰すのです。その時に貴女様には大きなご負担がかかります。貴女様をお守りせんがために、我が主は先にライランカに行って貴女様をお待ちになられるのです。)
「お父様・・・。」
アムリタは安堵した。やはり理由があったのだ。
「分かりました。お父様に、アムリタはお務めを果たしますと伝えてください。」
(たしかに承りました。それでは。)
鷹は飛び去った。傍に控えていたボーディにも、鷹の言葉は分かった。
「アムリタ様、どうかお役目をご無事に果たされますよう。ボーディも願っております。」
「ありがとう、ボーディ。この槍は、形を変えた錫杖だったのですね。」
その頃、ルナ・ブランカ号と別れたホルスのローズナイト号は、オルニア大陸を離れて南へ進んでいた。ホルスもスノー・クリスタルを訪ねるつもりだった。
だが、先ほどからどうも副船長ジャッカルの様子がおかしい。何度も後ろを振り返っている。
「ジャッカル、お前どうかしたのか?さっきからずっと後ろを気にしてるみてぇじゃねぇか。」
ホルスは部下の異変にいち早く気づいていた。
「お前、もしかして惚れたのか。」
「お、親方!冗談は止めてくださいよ!あちらは騎士さま、竜族のエリートです!とても私など・・・。」
ジャッカルは顔を真っ赤にした。
「ジャッカル、俺は別にどちらとは言ってねぇぜ。なるほど騎士さんのほうか・・・。」
ジャッカルは、はっとした。そうだ、親方はただ惚れたのかとしか言わなかった・・・。まんまと親方に引っかけられたのだ。
「親方!ひどいです!」
「なんだよ。俺は別に何も言ってねぇぜ。だけど、ま、そのうちにまた会うだろ。そん時にゃ男らしく告白なり何なりするこったな。お前も、もうこの船に乗って長い。そろそろ所帯を持ったらどうだ。」
ホルスは前を向き、舵を握りながら言った。
まだ二艘の船が揃ってオルニアに停泊していた時、ジャッカルは、アムリタのところに挨拶に訪れていた。母国を出て久しいが、彼もウユニ人の一人である。
「私は、ローズナイト号の副船長で、ジャッカルと申す者にございます。先ほど立ち会いの際にお姿を拝見し、改めてご挨拶にまかり越しました。」
ジャッカルもホルスとボーディの立ち会いを見ていて、側に佇む少女が母国の皇女だと気づいていたのである。彼はアムリタの前に跪いた。普段の眼帯は外してあって、ひときわ大きく赤い眼球が剥き出しになっている。
「ご挨拶ありがとう。キャプテン・ホルスに付いて長いのですか?」
「もう二十年ほどになります。ほうぼうの船に断られていたところを、親方に拾われて、ようやく船乗りになることができました。」
「そうですか。貴方はキャプテン・ホルスを親方と呼んでいるのですね。いかにもキャプテン・ホルスらしい。」
アムリタは微笑んだ。
「はい。とても包容力のある方です。」
「それに、信頼するに値する人物である、ということでしょうな。」
ボーディも口を開いた。たった数日前ではあるが意図せずして離れることとなった母国はすでに懐かしい。同じウユニ人と話していると安心する。
「あれほどの剣豪、早々いるものではない。大らかささえ感じる。貴方も良い船長に付かれているな。」
今やボーディもホルスをすっかり信頼している。剣豪にして、あの知識と人脈。もし騎士になっても十分通用するであろう。しかし、彼は何よりも自由を重んじる性格らしい。それが残念だ。
「ありがとうございます、騎士殿。貴女も直接姫様に仕えられて。」
「私は、姫様が城を出られるところをたまたま見つけて付いて来た。帰国後は規律違反の誹りを受けるかもしれぬが、この姫様のお供することができて良かったと思っている。悔いは無い。」
「騎士殿・・・。」
「ボーディ、貴女は私を案じて来てくれたのです。私は貴女をできる限り擁護しましょう。」
「姫様・・・。」
ジャッカルは、そこに美しい主従愛を見た。自分は何の目的も責任もなく親方に拾ってもらった。しかし騎士殿は、帰国したら何らかの処罰を受けるかもしれないことを承知の上で姫君を守り抜くために旅に出たのだ。騎士の顔は、眩しいほどに輝いていた。
「姫様、騎士殿、旅のご無事を心よりお祈りいたします。」
彼は深く頭を下げた。
二四.法力の移譲
オンネトがガルーダに乗ってライランカに向かうことになる日の前夜・・・。
ライランカのアルティオとアレクセイ、マリンの三人は、テティスに呼び出されていた。フローラとオリガもそれぞれ両親に抱きかかえられて連れてこられている。
湖に着くと、二人の幼い皇女たちは眠ってしまった。
「今日は、とても大切なお話をします。明後日の朝、私の寿命は尽きます。だから、これから私に託された力の全てをあなた方ライランカ王室に委ねます。」
テティスは静かな声で言った。
「テティス、それは誠か?!」
アルティオが問いただした。
「えぇ、本当よ。そのための手筈がもう整いつつあるわ。明日はまず、ウユニのオンネトが精霊鳥ガルーダと共に来る。それから、黄金の翼と錫杖がここに着く。儀式はおそらく明後日の明け方になるでしょう。」
アレクセイが言った。
「それじゃやはり貴女は消えてしまうというのか?!ライランカは、これからどうなるんだ?」
「私がこの国に来た時の話は、貴方たちにもしましたね。その時にはもうこの国の人たちの髪は藍色だったと。帰化礼に必要な力・・・正確には法力というのだけれど、その真髄はもともとあなた方ライランカ王室に代々伝わっていたの。それを元に戻すだけです。」
実は五千年前、当時の始祖王アレクサンドルとその妃となったカロリナは、相次いで湖の底まで沈んだ。その際に星の精霊ルシアから、あふれ続ける法力から人々を守るための加護も与えられていたのである。その後テティスが湖に留まるようになると、加護を安定させるために、精霊である彼女に力を移譲したのだ。
テティスは手をかざした。天から無数の花びらが舞い降りてきて、幼な子を含む王室一家を覆った。彼らの身体が一瞬光り、また元に戻った。
「これで、私に託された法力はあなた方に戻されました。ライランカにはもう私は必要なくなったのです。これからはあなた方がライランカの大地を守り、帰化礼を司るのです。」
「テティス、そんな!今まで見守ってくれたじゃない!何故なの?」
マリンが泣きそうになりながら叫んだ。彼女はテティスに歌を聴かせながら、実の姉と同じように思っていたのだ。
「マリン、泣かないで。どんな命にも寿命はあるものよ。私にも、ただその時が来ただけ。もし永遠の命というものがあるなら、それはまた永遠の悲しみや苦しみをも齎すでしょう。どうか私をライランカの大地から開放させてちょうだい。」
彼女の言うことも、もっともだった。
「それに、私は寿命尽きる間際に夢を叶えてもらった・・・それで幸せなの。これが、精霊になる前の私・・・。」
彼女の傍らに一人の女性の幻影が現れた。それを見たアルティオとアレクセイは本当に驚いた。黒い髪に植物が蔦となって絡まり、魚のヒレを耳と尾に持つウユニ人・・・その顔がファイーナそっくりだったのだ。
「ファーニャ!」「姉上!」
アルティオとアレクセイが叫んだ。
テティスの話は続く。
「ファーニャが成長するに従って、かつての私自身に似てきたのには、私も驚いたわ。それに、彼女が婚約者としてここに連れてきたクファシルも私が恋したあの人にとてもよく似ていた。だから、ファーニャたちの愛が深くなればなるほど、私の心も幸せで満たされた。
千年前、覚者ルシャナ様は、こう仰ったわ。私を救うのは、私自身が阿頼耶識に咲かせる花だと。それがファーニャとクファシルだったのよ。
私は本当にあの人を愛してた。彼からも愛されたかった。片思いの苦しみ悲しみもひとときのものと、頭では割り切ろうとしたけれど、どうしても完全には吹っ切れなかった。
その思いが杭のように私の心に突き刺さって、私を精霊にしていたの。
だけど、あの二人が咲かせてくれた阿頼耶識の花は、それを満たして完全に消した。
そして今は、心から安らかでいられる。・・・もう、思い残すことはありません。・・・」
「テティス。それでは貴女はもう救われていたのだね。」
アレクセイが言った。テティスは微笑んだ。
「それから、この星の成り立ちを言うとね、北と南にある自転軸からは、法力が噴き出している。この星の原動力は法力なの。ウユニが極南にもかかわらず温暖な気候なのも、人々の姿が変わっているのも、またライランカの人々の髪が藍色なのも、この湖の水が普通でないのも、噴き出している法力を間近にしているから・・・。そして、この星に生まれた魂たちは、寿命を終えると、法力に溢れる『魂の揺りかご』に帰っていく。
あなた方ライランカとお別れするのは辛いけれど、寿命は尽きるもの。誰にも止められないわ。」
翌日の昼、その言葉通りにウユニのオンネト帝が巨大な鳥に乗ってやって来た。鳥は、彼を下ろすとみるみるうちに普通の鷹と同じ大きさになって、肩に止まった。
「オンネト帝陛下、お久しいですね。ガルーダ殿も、ようこそ。当地の皇帝アレクセイと申します。」
アレクセイが、アルティオとマリンを伴って湖畔宮殿の門の前で彼らを出迎えた。
「アレクセイ帝陛下、お久しぶりです。私たちが来ることをご存知でしたか。」
「昨夜、テティスから聞きました。彼女の魂が帰される、そのために貴方とガルーダ殿が来る、と。」
「私は話をガルーダから聞いたのです。後から着く黄金の翼というのは、我が娘アムリタ。その子はすでに黄金の錫杖を手にしているようです。どうやら運命は着実に進みつつあるようですな。」
「そうですか・・・。テティスと別れるのは、我々としても辛いことですが、仕方の無いことなのですね。」
アルティオも言った。
「それにしても、何故儀式は明日の朝なのか・・・。」
オンネトの肩に止まったガルーダが口を開いた。
「黄金の錫杖を司る者の心には、いささかも迷いがあってはならぬ。魂帰しの儀式の前にそれを完全に取り除かなければならぬ。そのための時間だ。」
オンネトは、アムリタがライランカに来ることになった理由を思い起こした。
「エカテリナか!」
そして彼はアレクセイたちにこう尋ねた。
「アレクセイ帝陛下、こちらにエカテリナ・キッカワという女性がおられませんか?我が子は、その女性に会うために国を出たのです。」
その名はアレクセイがよく知る名だった。
「どこかで聞いたような・・・。あっ!カーチャだ!父上、レオの妻のカーチャが確かその名前でしたよ!」
「あぁ、あの子か!」
「おぉ、お心当たりがお有りか?!それは有難い!」
「すぐに呼びます。」
アレクセイは、すぐ警護課の建物に走った。
「レオ!レオはいるか?」
アムリタを乗せたルナ・ブランカ号がライランカの港に着いたのはそれから間もなくだった。アムリタは黄金の槍を背中に括り付け、下船するとすぐボーディを伴って空を飛んで湖畔宮殿を目指した。この国に来たのは初めてだったが、すでに到着しているオンネトの気配を辿ったのだ。
「お父様!」
地上に降りたアムリタは槍の穂先を上にして地面に突き立ててから父親に抱きついた。父帝は愛おしく娘を抱きしめた後、真剣に話しかける。
「アムリタ、無事で良かった。が、事は重大だ。心を強く持て。よいな!」
「はい。」
「まず、お前に引き合わせる者がいる。・・・アレクセイ帝陛下、お願いいたす!」
アレクセイが二人の人物を連れてきた。アムリタの目に涙が浮かぶ。
「エカテリナお姉様・・・!」
アムリタとエカテリナは、どちらからともなく近づいて抱き合った。エカテリナも泣いている。
「アムリタ・・・話は貴女のお父様から聞いたわ。ほんとにアムリタなのね!・・・大きくなって!」
ボーディは、もらい泣きしている。まだ少女の姫様が遠くライランカまで来られた目的が遂に果たされたのだ。
「水竜騎士ボーディ、よくぞここまで我が子を守って来てくれた。礼を申す。」
気が付くと、オンネトが彼女の傍らに立っていた。
「皇帝陛下!」
ボーディは慌てて跪いた。
二五.錫杖
来客者たちは、それぞれゲストルームに案内された。オンネトとアムリタ。ガルーダとボーディ。レオニードとエカテリナ。レオニードに関しては本来は宮廷警護課所属なのだが、その晩だけゲストルームに泊まるようにアレクセイから指示された。
「ガルーダ殿、私などと同じ部屋でよろしいのですか?」
ボーディは恐縮した。ガルーダはウユニでは精霊鳥として敬われている。皇帝と同格といってもよい。
「なぁに、私は所詮鳥だ。気など使わんで良い。それに、久しぶりに親子が時を過ごすのだ。私とて邪魔であろう。しかし、まだ昼間のうちにやらねばならぬことが残っている。ボーディ、ちょっとアムリタのところまで付き合ってくれぬか。」
「心得ました。」
一人と一羽は、隣の部屋に行った。扉をノックする。
「水竜騎士ボーディ、ガルーダ殿のお供をして参りました!」
「ボーディか。入りなさい。」
オンネトの声だ。
「ガルーダ、まだ何かすることがあるようだな。夜明けまで時間を取ったのも、そのためなのだろう?」
ガルーダは直接それには答えずにアムリタに話しかけた。
「アムリタ、バレンシアもここに呼んで、エカテリナと話したいのではないか?とにかく、やれるだけのことはしておくがいい。」
「ガルーダ・・・。そうですね。そうします。」
アムリタは、港に停泊している船にテレパシーを飛ばした。
(キャプテン、バレンシアお姉様・・・。バレンシアお姉様にアムリタの居るところまで来て貰って良いですか?エカテリナお姉様がいるの。)
キャプテン・マグダレナはバレンシアと話した。
「バレンシア、アムリタがああ言ってるが行くかい?エカテリナというのは、あの事件の被害者なんだろ?」
「えぇ、そうです。私も久しぶりに会いたいです。彼女が幸せかどうか。」
「そうかい。・・・じゃ、アムリタ!話は聞こえてるんだろ?連れてっておやり。」
(ありがとうございます、キャプテン。・・・それではバレンシアお姉様、目を閉じて下さい。)
「こう?」
バレンシアの姿はその瞬間に消えた・・・。
「目を開けて。」
バレンシアが目を開けると、目の前にアムリタとボーディがいた。
「アムリタ。エカテリナもいるって?・・・それに、ここは?」
「ここは湖畔宮殿、ライランカの中心です。その前に、私の父を紹介します。それに、精霊鳥ガルーダ。」
バレンシアはそのとき初めて他の者もその場にいることを知った。大柄の男性が言った。
「久しぶりだね。私を覚えているかな?ウユニのオンネトだ。」
「オンネト帝陛下!・・・。その節はどうもありがとうございました。」
彼女は、事件後オンネト帝が自分を家まで送り届けてくれたことを忘れてはいなかった。その肩には鳥が止まっている。
「私がガルーダだ。今は都合上このような大きさだが。」
話ができる鳥なんて!やっぱり精霊鳥なの?
「お初にお目にかかります。ルナ・ブランカ号の乗組員でバレンシアと申します。」
「うむ。師表な心がけの娘御だ。気に入った。では、アムリタ、心ゆくまで話をしてくるが良い。」
「行ってきます。」
アムリタとバレンシアは、エカテリナとレオニードの部屋を訪れた。再会するないなや、バレンシアとエカテリナも泣きながら抱き合った。
「会えないと思ってた・・・。」
「私も・・・。」
レオニードが見守っている。
「私の夫よ。レオニード・カンザキ。警察官なの。」
「貴女は結婚したのね。良かった・・・。あ、でもあのことは・・・。」
「大丈夫。彼はすべて知ってる。彼は承知の上で私を受け入れてくれたの。」
「カーチャ、僕は、君でなければ愛せなかった。それだけだ。そして君は僕の誇りだ。」
「レオ・・・。」
二人は、本当に仲睦まじい様子で見つめ合い、エカテリナは頬を赤らめて目を伏せた。
「幸せになったのね。本当に良かった。」
「うん。貴女も幸せになってね。」
「でも、カーチャ、私は・・・。」
たじろぐ彼女に、アムリタが言った。
「バレンシアお姉様、私と父がお姉様の今を知って放っておくとお思いですか。このアムリタにお任せ下さい。」
「アムリタ、ありがとう。」
さすがは姫様だ、とボーディは思った。アムリタ様は、ご自分では意識されていなくとも、もうすっかりウユニの姫君としての力量を身につけてらっしゃる。この方を差し置いて一体誰がウユニの未来を担えるというのだ・・・。
その時だった。アムリタが持っていた黄金の槍が急に眩いばかりの光を放ったかと思うと、その姿を変えた。一つの大きな輪に幾つもの小さな輪が繋がっている杖・・・錫杖だった。
「これが、黄金の錫杖・・・。」
「機は熟した・・・。」
ガルーダが言った。
「そのようだな。私にも大きな力が感じられる。」
オンネトは、アルティオとアレクセイ、マリンに湖に来るようにと、宮殿の係員に伝言を頼んだ上で、自らもガルーダと共に湖に向かった。オンネトたちとアレクセイたちは、ほぼ同時に湖への道に入って合流した。
湖ではテティスが静かにその時を待っていた。
アムリタが錫杖を携えて来ると、テティスは彼女に話しかけた。
「貴女が私を帰してくれるのですね。」
「そうです、心優しき精霊よ。これまでご苦労でした。私が貴女を『魂の揺りかご』に帰します。ゆっくりお眠りなさい。」
アムリタが応えた。
アムリタは体の中に意識を集中させる。彼女の体の中で、暖かな光が大きくなっていった。
「アムリタ!」
オンネトは思わず駆け寄ろうとした。アムリタの頭の角が体に吸い込まれるようにして消え、衣装を含めた全身が眩い黄金色に輝き始めたのだ。きっと膨大な法力が彼女の身体全体に影響を及ぼしているに違いない!
しかし、ガルーダがオンネトを押しとどめた。
「オンネト、こらえてくれ。手出しはならぬ。今、手を出せば、それこそアムリタの身が危うい。」
オンネトは必死に自分を抑えた。
彼女の中に溢れ出た光は体内からはみ出て、一点に集まって錫杖の先に宿る。
アムリタはその光り輝く錫杖を高くかざした。その場にいた人々は、テティスが一つの眩い光となったのを見た。白く、あるいは七色に輝く光の玉は、アムリタから出てきた大きな光に包まれて、湖の中央部まで行って消えた。
そしてその時、白夜のライランカが朝を迎え、澄み切った青空に大きな虹がかかった。近海の海も朝の陽の光を受けて輝いた。虹は、星の中心『魂の揺りかご』そのものが新たな精霊を歓迎し、地上全体を祝福した証だった。このとき、もしも惑星ルシアを宇宙から眺める人あらば、ルシアの自転軸の双方に全く同じ薄い膜が張られた光景を確認できたことであろう・・・。
「さようなら・・・。」
アムリタは泣いていた。ライランカの王家の人々も、エカテリナもレオニードも泣いていた。
ガルーダとオンネトは、精霊の最期をしかと見届けた。
「さらばだ・・・テティス殿・・・。」
ガルーダの声が湖面に響いた。
アムリタが突然ばたっと倒れた。持てる力を全て出し切ってしまったのだ。
「アムリタ!」「アムリタ様っ!」
オンネトとボーディが彼女のところに駆けつける。父帝は娘を抱き起こし、消えかけていた生命の灯火をすぐに繋ぎ止めた。・・・ガルーダが彼を連れてきたのは、実はこのためであったのだ。・・・
「もう大丈夫だ。しばらく休めば気がつくだろう。・・・私が運ぶ。お前は錫杖を持て。」
「はっ。」
ボーディは錫杖を探して辺りを見渡した。しかし見当たらなかった。
「陛下、錫杖が見当たりません。」
「はて、どこへ消えたのだろう・・・。まぁ良い。この子のことが先だ。」
オンネトはアムリタを抱きかかえて部屋に連れ帰り、寝台に横たえさせた。改めて見てみると、衣装は元に戻っていたが、角は消えたままである。
ウユニでは、力が強ければ強いほど、法力を抑え込んで元の人間の形に近づくと言われている。計り知れない法力をたった一人で背負いきったアムリタにもその現象が起きたのであろう・・・。
アムリタは、それから三日間眠り続けた。
大きな光に包まれたテティスの魂は、湖をどこまでも下りて行った。やがて、彼方に大きな光の塊が見えてくる。と、彼女の前にひとつの人影が現れた。
「覚者ルシャナ様!」
優しい声が聞こえる。
「テティスよ。あの光が『魂のゆりかご』だ。しかし、あの中に入る前に私はそなたに説法をしておく。
今そなたは本当の愛がどのようなものかを、十分に知ったと思っているであろう。
しかし、愛とは、全く正しい精神的安定をもたらすことなのだ。ファイーナとクファシルは確かにそなたの望みを託すに相応しい姿形をし、深く愛し合っていた。また、レオニードとエカテリナのあいだに生じる安らぎも、そなたが望んでいたものと等しいであろう。
そしてアレクセイの心の有り様をみていて、そなたも気付いた通り、結ばれるべき男女の恋愛とは、心からわかり合えることを理想とするものである。
更に、エカテリナとアレクセイは共に見知らぬ幼な子を助けるほどに優しく、アムリタも恩人を探して長き旅をしてきた。途中、竜の痛みを救いもした。この者たち皆、分け隔て無き慈愛を有している。
それ故に錫杖は今この場にて本来の姿を成し、またそれ以上の法力を宿して使命を果たしたのである。
しかしながらテティスよ、そなたはこれまで自己愛から多くの愛を眺めていたに過ぎぬ。これからは自他の区別を棄てよ。独立する安らぎ、六波羅蜜のひとつ、禅定波羅蜜をも知覚して、今こそ全く正しき智恵の道を歩むがよい。」
「自他の区別無き愛こそが全く正しき智恵。・・・どうもありがとうございます、覚者ルシャナ様。今一度よく修行いたします。」
テティスは、そのまま『魂のゆりかご』へと導かれていくものと思って目を閉じた。
ところがその時、彼女を美しい花々が覆い、優しい肌触りのウユニの民族衣装となった。彼女は精霊になると同時に失い、すっかり忘れていた触覚を感じて驚く。
「覚者ルシャナ様、これは一体?私は今、私を覆う布の柔らかさを感じています。貴方から溢れてくる光の清けき風をも感じられます。」
ルシャナは彼女に起きた変化を見て満足げに頷いてから、優しく語りかけた。
「そなたは今、六波羅蜜を全て知覚するに至った。全く正しき真理を知る者となったのである。その衣がその証だ。そなたは『法身』を得て、再び何物にも触れたり動かしたりすることも出来るようになったのである。
これによりそなたには二つの道が出来た。一つは、このまま『全く正しい智恵』に留まって私と同等な覚者として歩む道。そして今一つは敢えて何処かに留まってより多くの魂を救う菩薩の道である。
どちらの道を歩むかは、そなた自身の意思に任せる。」
テティスは、ルシャナを真っ直ぐに見て言った。
「私は、これより多くの魂を救いながら生きたいと思います。そのことに喜びを感じております故。」
ルシャナは、力強く頷いた。
「そうか。それでは、これよりそなたを『宝華菩薩』と名付く。これからは『魂のゆりかご』にてよくよく修行せよ。」
テティス=宝華菩薩は、即座にその言葉の意味を悟った。ルシャナにとって、名を与えることは、すなわち己が弟子として認めたことを意味するのだ。
「我が師ルシャナ。私はこれより後『魂のゆりかご』にて多くの魂に六波羅蜜を語ります。救いの光がより多く、強く輝けるように。」
彼女は、このようにして自らの足で『魂のゆりかご』に入っていった。