<陸自幹部の第1空挺団勤務記録> その6 |福島第一原発事故災害派遣への出陣前の空挺団長訓話 - 空挺隊員達が心震えたすごい女性自衛官の話
こんにちは。
元・国防男子/陸上自衛隊応援団/初級・中級幹部サポーターのMr.Kです。
幹部自衛官として13年間勤務し、主な経歴は🪂最精鋭部隊第1空挺団、🇺🇸米国陸軍留学、✏️陸自最高学府の指揮幕僚課程、🇺🇸在日米陸軍司令部、🇺🇳国連南スーダンミッション軍事司令部等で勤務して参りました。
現在は、民間企業の危機管理部門で海外セキュリティ担当として危険国の情勢分析、セキュリティ対策の立案など、陸自時代よりもよりリスクの高い仕事をしています。
今回から数回にわたり、僕が現役時代に経験した『東日本大震災での福島原発事故の災害派遣』に関する記事を書きます。あれからもう10年が経過したんですね・・
今回は、災害派遣出発前の当時の空挺団長の訓話が、今でも心に残っているほど印象的だったので紹介したいと思います!
空挺隊員もぶったまげるほど、ある女性自衛官のすごいプロ意識を感じた話です。
当時、第1空挺団は、100%男性隊員で構成されていました。
ここで女性自衛官の話を出してくるのは、流石、空挺団長だと思います。
東日本大震災の災害派遣において、第1空挺団は他部隊ができないような危険な任務を付与されましたが、この訓話は出陣前の私たちに『勇気』を与えてくれました。
⏩ 未曾有の大災害 東日本大震災発災
2011年3月1日の金曜日の午後
部隊で机に向かって仕事をしていたら、急に建物が大きく揺れ始めました。
ギシッ、ギシッ、ガタガタガタ・・・
ギシッ、ガタガタガタ・・・
こんなに大きな揺れを感じたのは久しぶりでした。
これは只事ではない!!・・・と思いつつ、
急いで机の下に潜り込み、
中帽というヘルメットをすぐに被って揺れが収まるまで待機。
揺れが収まった時間を見計らって、庁舎の踊場の階段を駆け下りて団本部庁舎まで走りました。
移動中にも大きな揺れが数回あり、まともに立っていられないほどでした。
揺れは幾度となく続き、地震の揺れで酔って気持ち悪くなったほど。
(これはやばい!!やばい!やばすぎる!!)
至急、空挺団本部へ行って地震の状況を確認しました。
団本部では、既に情報収集と作戦本部立ち上げの準備を進めており、団本部のテレビの映像には、津波が町を次々と飲み込む様子が放映されていました。
ー これは映画か??
これまで見たこともないくらいのあまりにも凄惨な状況に、流れている映像をあ然と眺めていました。
その間も余震は継続していました。
程なくして、隊舎の事務室に戻ると、
庁舎の5階窓から大きな火柱が見えました。
千葉県市原市の石油コンビナート方向でした。
事務所のテレビをつけると丁度この火災もニュースで流れていました。
大規模な火災が発生していたのです。
ー 一体どうなってしまうんだろうか・・・
ー あぁ、これじゃあしばらく家に帰れなくなるな・・
ー 仕事が終わったら彼女と会う予定だったんだけど・・
ー 彼女は大丈夫だろうか。都内に出かけるって言ってたけど・・・
彼女に何度も電話をしましたが繋がりませんでした。
安否確認のメールを送信して無事であることを祈りました。
その凄惨な映像を見た時、
災害派遣がかかって長丁場の作戦になることを覚悟しました。
部隊で必要な業務を終えた後、自転車で20分くらいのところにある官舎に作戦に備えるための必要な生活用品を取りに帰りました。
ーー官舎に到着後
予想通り、家の中は食器が食器棚から落ちてぐちゃぐちゃでした。
でも、築50年以上のオンボロ官舎は、あの大きな揺れに耐えていました。
ー あぁ、本当にこれからどうなってしまうんだろう・・・
未曾有の大災害に、これから先、何処に、どのような災害派遣任務が与えられるのか見当もつきませんでした。
⏩ 千葉県内での災害派遣
習志野駐屯地のある千葉県内でも多数の地域で被害がでていることが判明し、空挺団にも程なくして『災害派遣命令』がかかりました。
空挺団としては、当初は責任地域の千葉県内での災害派遣で、被害状況の偵察や給水支援等を行いました。
偵察で幕張の海浜地域に行ったとき、
電柱がバタバタと倒れ、道路は波打ってグニャグニャ。
そして、液状化現象も発生している・・・
マンホールが隆起しているところもありました。
普通では考えられないような、ひどい光景・・・
自然の力の凄まじさを目の当たりにしました。
⏩ 陸上自衛隊初の全国規模での災害派遣
被害状況が広範囲かつ大きすぎたため、東日本災害派遣への陸上自衛隊の運用計画には時間がかかりました。
この大災害で、陸上自衛隊の殆どの部隊に災害派遣がかかり、中には九州・四国・沖縄から東北まで進出した部隊もありました。
中には、九州から東北に来たものの、展開する場所がなく、しばらく近傍の演習場で待機していた部隊もありました。
発災から1週間ほど経って、
やっと東日本大震災における空挺団の運用が決まりました。
⏩ 福島第1原子力発電所への災害派遣
団本部より、災害派遣命令が下りてきました。
ーー『第1空挺団 行原命第1号』
えっ、『行原命』?
と言うことは、原子力災害への災害派遣??
原子力発電所で何をするの?
どうやら他部隊が実施する予定の任務でしたが、空挺団に回ってきたようでした。
『放射線』という見えない敵との戦い。
部隊にある装備品は、放射線に対して極めて貧弱でした。
というか、放射線量を測る簡易的な器材が数個あるだけでした。
放射線から体を防護できるような装備品は1つもありませんでした。
こんな貧弱な器材を携行して、無防備な状態で放射線量の高い地域に行けというのでしょうか・・・
小枝を持って怒り狂った大熊に戦いを挑むようなものです!
放射線を浴びたら、体にどのような影響が出るんだろうか・・
幹部候補生学校で少し勉強した記憶がありましたが、化学科部隊のような専門的な知識はありませんでした。
(いくら「第1狂ってる団」って言われてても、このような状態で行かなければならないのか)
原子力発電所の災害派遣という初めての任務。
不安ばかりが頭をよぎりました。
でも・・・・、『命令』だから仕方ありません。
入隊のとき、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつ て国民の負託にこたえることを誓います。」ということを宣誓しましたから。
⏩ 自衛隊員の服務の宣誓
幹部自衛官は、率先垂範。
自分が先頭に立って動かなければ、部下は絶対に付いてきません。
ー まだ結婚もしていないけど…
ー 子供には影響あるのかな??
色々な不安はあるけれど、
幹部自衛官として部隊を率いていかなければならない立場。
放射線を浴びたく無いので、行きたくないとは口が裂けても言えません!
腹を決めました。
⏩ 福島原子力災害への災害派遣前夜
そんな中、災害派遣に参加する空挺団の各部隊が駐屯地の体育館に集められました。
今回の災害派遣の任務、放射線の説明、部隊で装備している放射線の線量計の使用要領、空挺団長による訓話が行われました。
🔥 こういうときのリーダーの訓話はとても大事です。
隊員達を奮い立たせて、任務に向かわせなければなりません。
例え、それが危険な任務だとわかっていても。
空挺団長は隊員たちを任務に向かわせるのに適切かつ勇気を奮い立たせてくれる話をしてくれました。
それは、阪神・淡路大震災の災害派遣に参加していたある陸曹の女性自衛官の話についてでした。
ーー1995年1月17日、阪神・淡路大震災の発災。
僕はまだ小学生。
朝の6時前。
いつもはこんな時間に起きないのに、この日はたまたま何かを感じ取ったかのように、はっと目が覚めました。
目覚まし時計を見たらまだ6時前。
ー あぁ、まだ6時か。もう少し寝るか・・
もう少し寝ようと思って目を瞑った瞬間、
当時住んでいた木造の古い家がガタガタと音を立てて揺れ始めました。
初めての地震体験だったため、そして、あまりにも絶妙なタイミングで目が覚めたことに恐怖心を感じてしまい、腰が抜けて動けなくなったことを覚えています。
僕がそんな経験をしていた時、
当時の陸上自衛隊でも災害派遣が要請され、
中部方面隊を中心として災害派遣任務が遂行されていました。
ーー 阪神淡路大震災発災後、
関西地区の陸上自衛隊に『災害派遣命令』がかかりました。
高速道路も横転し、建物も倒壊し各地で火災が発生していました。
陸上自衛隊として、災害派遣任務を行うにあたってはまず『偵察』が必要になります。被害状況を把握する必要があるからです。
陸上自衛隊で保有するヘリコプターで上空から偵察し、
そして、地上からは、車両及びバイクで被害状況や使用できる経路等の偵察を行います。
空挺団長の話は、ある男性自衛官と女性自衛官が、陸上自衛隊の小型車両で被災状況の偵察を行っていたときのことから始まりました。
発災当初で、高速道路が倒壊し、ビルや住宅地の壁等も破壊されて瓦礫が道路を塞いでいる状態でした。
信号も機能しておらず、インフラも麻痺状態。
そういう混乱状態での偵察活動。
当然、道路は大渋滞で、偵察に出かけたものの全然前に進めない。
数時間運転したが、数キロしか進めない状態でした。
そんな中、車両の助手席に座っていた女性自衛官はトイレに行きたくなってしまったのです。
しかし、道路は渋滞で車は全く進まないし、使用できるトイレも限られています。
その時は、途中で車両から降りて最寄りの公園まで移動して、公園のトイレで用を達したそうでした。
男性ならこういう状況なので、隠れてそこら辺で用を達することもできるのですが、女性なのでそういうわけにはいきません。
この女性は、このことにとても責任を感じてしまったそうです。
それに、今こそ、テレビで自衛隊に関する番組をよく見かけますが、当時はまだ自衛隊に対して多くの国民から理解がなかった時代でした。
そんな中、迷彩服を着たまま街中をウロウロするのには抵抗があったのかもしれません。
その日は、あまり偵察らしい偵察ができないまま終了してしまいました。
ーー そして、次の日。
同じメンバーで再び車両での偵察を行うことになりました。
状況は昨日と変わらず、道路は渋滞してなかなか前進することができませんでした。
しばらく偵察をした後、
男性自衛官は女性自衛官のことを気にかけて、
「結構時間が経っているけど、トイレは大丈夫?」と尋ねました。
そして、その女性自衛官はこう答えました。
僕は、この話を聞いてものすごく衝撃を受けました。
ドライバーだった男性隊員もきっと衝撃を受けたことでしょう。
自分に与えられた任務を忠実にこなすために、ここまでできる女性自衛官がいたのです。
✅ 自分はオムツを装着して任務ができるだろうか・・・
✅ 普通、公園のトイレかコンビニで用を達してしまうよな・・・
✅ 同じ部隊の男性自衛官がいるのに、恥ずかしくなかったのだろうか・・・
普通の人ならそのように考えて、経路上の公園やコンビニのトイレを使用することを考えると思います。
『オムツ』を装着して・・・とは考えないでしょう。
僕は、この女性自衛官に与えられた任務を達成することだけにひたすら邁進するという強い『覚悟』を感じました。
自分の生理的欲求すらも制約してしまい、
自分が周りからどう思われようが気にしないんです。
ひたすら任務に忠実で、この女性自衛官に並ならぬ『プロ意識』を感じました。
⏩ 言葉の力
空挺団長からこの話を聞いて、奮起しました。
僕だけでなく、多くの隊員が奮起したことでしょう。
女性でもプロ意識を持った、すごい自衛官がいる。
陸上自衛隊で『最強』と呼ばれている俺達も必ずやり遂げる!
これまで経験した事の無い、初めての原子力災害での災害派遣。
俺たちしかできないから、この厳しい任務が回ってきた。
陸自で最精強の俺たちがやらなければ、誰もできない。
そういう気持ちにさせてくれました。
⏩ 最後に
災害派遣前にこの女性自衛官の話にはとても感銘を受け、勇気づけられました。
そして、『言葉の力』ってすごいなと感じました。
隊員たちの意識を変え、やる気にさせて行動に邁進させてしまうのです。
これから原子力災害派遣に向かう僕たちにとっては、心にグサッと刺さった訓話でした。
100%男性隊員で構成されている空挺団で、女性隊員の話をされた事も素晴らしかったですね。
これまで陸上自衛隊で数々の訓話や講話を受けてきました。
殆どの訓話は忘れてしまっていますが、
10年以上経過した今でもこの訓話はしっかりと覚えています。
それだけ、僕にとっては印象深かった話でした。
次回につづく。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今日も皆様にとって良い一日となりますように!
元国防男子 Mr.K
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