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<必見!>元幹部自衛官が#大東亜戦争 の激戦地 #硫黄島 (いおうとう)での研修で先人たちの凄さを思い知った話

こんにちは。

元・国防男子/陸上自衛隊応援団/初級・中級幹部サポーターのMr.Kです。
幹部自衛官として13年間勤務し、主な経歴は🪂最精鋭部隊第1空挺団、🇺🇸米国陸軍留学、✏️陸自最高学府の指揮幕僚課程、🇺🇸在日米陸軍司令部、🇺🇳国連南スーダンミッション軍事司令部等で勤務して参りました。
現在は、民間企業の危機管理部門で海外セキュリティ担当として危険国の情勢分析、セキュリティ対策の立案など、陸自時代よりもよりリスクの高い仕事をしています。

現役自衛官時代に、大東亜戦争時の激戦地、『硫黄島』に研修に行く貴重な機会を頂きました。

現在は、限られた人たちしか硫黄島に立ち入ることはできません
実際に、なんと18km!!に及ぶ地中の坑道の一部に入って、先人たちの偉業を体感して参りました!

硫黄島はご存知のとおり、大東亜戦争の激戦地となった場所で、ミッドウェー海戦から日本軍が劣勢に転換後、唯一米軍の死傷者が日本軍の死傷者を上回ったとされる戦闘です。映画にもなりましたね。

今回の記事では、東京都の『硫黄島』に研修に行ったとき体験談を写真を含めて紹介したいと思います。

⏩ 日本にある2つの硫黄島

ちなみに、日本に『硫黄島』は2つあります。

東京都と鹿児島県です。 

そのうち、
東京都小笠原村の『硫黄島』は、「いおうとう」と呼び、
鹿児島県三島村の『硫黄島』は、「いおうじま」と呼びます。

↓ は、鹿児島県の硫黄島です。

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⏩ 大東亜戦争の激戦地 硫黄島

「硫黄島」は、東京都小笠原村に属し、東京都23区から約1,200km南方に位置する南北約8km,東西約4kmの小さな島

そんな小さな島で大東亜戦争時の1945年2月19日から3月26日の間、日米軍による大激戦が行われました。

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(出典:Wikipedia)  

日米の兵力比は、

 🌈 日本軍守備部隊:約23,000名
 
🌈 米軍上陸部隊:約75,000名

米軍の上陸部隊は、日本の守備部隊の兵力の3倍以上

戦車や火砲等の装備品の比率も、攻撃する側の米軍が圧倒的に有利な状態。

そんな圧倒的に不利な状況にもかかわらず、この小さな島で1ヶ月以上も米軍の猛攻から持久したのです。これは、とてつもなくすごいことなんです。

そして、

日米両軍の損耗は、

🌈 日本軍:20,933名(戦死:19,900名)
🌈 米 軍:38,686名(戦死:6,821名)

ミッドウェー海戦から日本軍が劣勢となってから、米軍の損耗数が日本軍の損耗数を上回った唯一の戦闘です。

硫黄島の戦略的価値は、

 太平洋に浮かぶ“不沈空母”としての高い価値
 硫黄島には、日本海軍が作った飛行場があり、日米両軍にとって、この飛行場はとても戦略的価値

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米軍は、硫黄島を奪取する前には、硫黄島から南に約1,100kmにあるサイパン島から日本本土を爆撃していました。

米軍の『爆撃機』は、日本本土⇔サイパン島の往復は可能でしたが、爆撃機を護衛する『戦闘機』の往復は、戦闘機の性能(航続距離)の問題により不可能だったのです。

日本本土を『爆撃機』により爆撃する際には、日本軍の迎撃機を回避して爆撃する必要があります。そのため、米軍の爆撃機は日本軍の迎撃機を回避するために高高度爆撃に依存していたため、爆撃の精度が低下していたのです。労力をかけて長距離を飛行して爆撃しているのに思ったとおりの成果が出ていなかったのです。

しかし、米軍が硫黄島奪取(硫黄島の飛行場を入手)することで日本本土との距離が縮まり、戦闘機が爆撃機の護衛をすることが可能となります。
そして、戦闘機の護衛のもと爆撃機を安全に日本本土まで飛行させて爆撃することが可能となります。

日本側としては、どうしても日本本土への爆撃を阻止したい。

以上のような理由のため、飛行場を有する硫黄島は日米両軍にとって、非常に戦略的価値の高い島となり、硫黄島での戦闘は、日米両軍にとって今後の戦局を左右する重要な戦闘として位置づけられました。 

硫黄島の戦いは、映画にもなりました。 

図2

『硫黄島からの手紙』の中で、「天皇陛下万歳!!」と言って手榴弾で集団自決のシーンは、何とも言えない思いでした。
サイパン戦や沖縄戦の時もそうでしたが、当時は敵に殺されるよりは『自ら命を絶つ』という思想があったのですね。

そして、この硫黄島での戦闘について作戦を実行した米海兵隊の評価です。

「この戦闘は、過去168年間の間に海兵隊が出会った最も苦しい戦闘の一つであった。太平洋戦争で戦った敵指揮官のなかで、栗林は最も勇猛であった。」

と、硫黄島上陸部隊指揮官のホランド・スミス海兵中将は述べています。

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(出典:wikipedia)

米海兵隊にとっても、これまでになく熾烈で多くの教訓を残した戦闘だったようです。

⏩ 指揮幕僚課程の研修で硫黄島へ

現在、硫黄島へは自衛隊関係者や遺骨収集の人、米軍などの限られた人しか立ち入りができません。

防衛大学校の学生は硫黄島研修がありますが、陸上自衛隊では指揮幕僚課程(CGS)や高級技術課程(TAC)、幹部特修過程(FOC)の学生や不発弾処理の隊員達くらいしか行くことができません。

ですから、防衛大卒の人でCGS等の教育を受けることができれば、2回は硫黄島に行くことができるのです。

僕は防衛大卒ではないため、今回が初めての硫黄島訪問でした。

初級幹部のころから、大東亜戦争での『硫黄島の戦闘』についてはかなり勉強をしていて、当時の戦闘の凄まじさを知っていたので、実際にその場所に行けたことは感慨深かったです。

⏩ 1泊2日の硫黄島研修

研修時期は、10月中旬。
本州は肌寒い時期ですが、硫黄島はまだ蒸し暑い

海上自衛隊の厚木基地からC-130輸送機で硫黄島空港へ。

硫黄島までは約2時間のフライト。
↓↓C-130輸送機の機内はこんな感じ。

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航空機が南下するに連れて、航空機内の気温はどんどん上昇。

暑い・・・

そして、窓からは洋上に硫黄島らしきものが見えてきました!

「おー、あれが硫黄島か❗❗一人で大興奮。

周りの同期はスヤスヤお休み中でしたが・・・

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山になっているのは、硫黄島の象徴、『摺鉢山(すりばちやま)』

硫黄島の飛行場に到着後、荷物を整えて早速研修へ。

⏩ 空港滑走路下の『坑道』内へ

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今は写真のような立派な滑走路ができていますが、実は、この滑走路の下もアリの巣のように坑道が張り巡らされています

その全長は、なんと18km!(実際の計画では28km)

昼間は非常に暑くて入れないので、日が落ちてから航空機の滑走路上に入り口がある洞窟の中へ入りました。
でも、当時の人は、昼夜関係なく坑道を堀続けたんですよね😅

当日は雨が降っていたのと、坑道の中は狭く、土で迷彩服がドロドロになってしまうということで雨衣(レインコート)を着て坑道の中に入りました。これが更に暑いんです!!

昼間にこの坑道の中に入って作業をするなんて想像できません!!

この坑道の深さは、なんと、地下15m❗️

夜間にもかかわらず、地熱で洞窟の中はものすごく暑く異常に湿度が高く蒸し蒸ししていました。
サウナの中で過ごしているような感じです。
普通に中にいるだけでも1時間は持たないでしょう。
ましてや、この巨大サウナの中で穴を掘り進めて行くなんて、想像を絶する過酷な作業です。

そして、洞窟内の経路はものすごく狭いんです。
太っている人は通れないだろうと思うくらい狭い場所も・・・
閉所恐怖症の人はまず無理でしょう。 

これまで体験したことのない劣悪な環境・・・

そして、案の定、霊感の強い同期は洞窟に入れませんでした。

教官もそのことをわかっているのか、洞窟に入る前に学生たちに意思を確認をして、入れそうな学生だけで洞窟の中に入りました。
4、5人くらい洞窟の中に入れない人がいましたね。

陸上自衛隊の教育で「嫌だったらやらなくてもいい」という選択肢を与えられたことは、僕のこれまでの陸上自衛隊での経験では初めてでした。
通常はそんな甘えは許されませんから。

このことからも、この島の『特異性』を感じました。

蒸し暑く、非常に湿度の高い坑道の中をロープを伝って降りていきました。

人が1人やっと通れるくらいの幅です
途中、あまりにも洞窟の中が狭すぎて不安になりました

学生が80名弱も狭い洞窟の中に入って、どんどん奥に進んでいくんです。

 結構深くまで降りてきたけど大丈夫だろうか
 酸素は大丈夫だろうか
 硫黄を吸いすぎて死んだりしないだろうか
 太ってる学生が挟まって出られないことにはならないだろうか
 ちゃんと洞窟から出られるんだろうか

 どんどん歩を進めるにつれて様々な不安が頭をよぎりました

ーーここで何人くらいの方が命を失ったんだろうか・・・

30分くらい坑道の中を進んだところに、道の脇に人が3、4人位入れる小さなスペースがありました。

教官曰く、ここは『大隊長室』だとのこと。 

ーーこんなに蒸し暑く、狭く、深いところで執務をしていたのか・・・

大隊長室のすぐそばには、『水瓶』らしきものがありました。

当時の硫黄島には、水道などありませんでした。
飲水も限られています。

一日の一人あたりの水の割当は、たったの4.5リットル
飲料用で2リットル、炊事用で2リットル、洗面用で0.5リットルです。

戦闘前は、水質不良による下痢が深刻な問題だったようです。
そのため、飲料水を巡っての争いが絶えなかったのです。

だから、大隊長がその「生命の泉」を握っていました。

部下にとっては、生きるために必要な水を握られているということは酷だったかもしれませんが、この様な環境下での作戦で『指揮統率上、水瓶の確保は必要だった』ようです。

ーーなるほど、戦場ではこの様なことにも考慮する必要があるのか

1時間ほど洞窟内に入っていましたが、正直限界でした。

 煮えたぎる様な蒸し暑さ
 洞窟内の独特なで何とも言えない臭い
 洞窟のかなり奥深くに入ってしまっているという不安
 この場で何人の人が血を流して、苦しみながら亡くなったんだろうという想像

通常では味わえない様な様々な外的要因自分自身が当時の激戦の場に立っているという臨場感から、自然にネガティブなことをどんどん想像してしまいました。

ーここでの長時間の滞在は、耐えられない・・ 
ーこれが、夏場の昼間だったら・・

10月中旬の夜間の、たった1時間程度の洞窟内の研修でしたが、先人たちの凄さを身にしみて感じました

水、食料が限られている中、約半年もの間、とんでもなく蒸し暑い環境の中で、穴をひたすら掘り進める。
しかも、戦闘が始まる前の作戦準備の段階でこの過酷さ

実際の戦闘では、圧倒的な力を持つ米軍の侵攻に対して1ヶ月以上も持久作戦を遂行しました。

硫黄島の作戦は、本土決戦準備のための時間稼ぎのための戦いでした。
つまり、この地で『玉砕』することはほぼ確実な戦いだったのです。

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少しでも、日本本土での決戦準備が進められるように、できる限り米軍を硫黄島に留めなければならなかったのです。

硫黄島の滑走路を奪取されることで、米軍の日本本土への作戦を容易化してしまうことになります。

だから、
 一日でも長く、持久しなければならない。
 この地で屍になることがわかっているとしても・・・
 日本のために、家族のために、将来の子孫のために・・・

そのような強い思いが、このとんでもない過酷な環境下での作戦を成立させたのでしょう。

 ー この環境下での作戦は尋常ではない!
 ー 限られた水でどうやってここまでの坑道を構築できたのか。
 ー 普通の人では発狂してしまう!

硫黄島での戦闘のことを知っていて、現地に訪れた人なら誰しもこう感じるでしょう。

昔の人は、どれほど強靭な精神力を持っていたのでしょうか。

 自分自身が同じ立場に立たされたら、こんな劣悪な環境で日本のため、家族のために玉砕覚悟の作戦ができるだろうか。
 自分はこの様な環境下で作戦を遂行できる精神力があるか。
 果たして今の陸上自衛隊の隊員はこのような想像を絶する環境下で作戦を遂行できるか。

様々なことを考えさせられ、感じることができた最高の研修でした!

⏩ 鳴らないはずの携帯電話が鳴ってしまう

宿泊したのは、海上自衛隊の宿泊施設。
宿泊は、海上自衛隊の施設で4人一部屋。

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(出典:https://4travel.jp/travelogue/10180810)

その夜、信じられないことが起きました❗

ーー夜中の2時頃のことでした。

外は、夕方ごろから降り続いている激しい雨が、断続的に続いていました。

突然、同期の携帯電話が鳴りました。

ビクッ❗❓

(目覚まし時計❓❓)

(まだ外は真っ暗だけど、もう起きる時間?)

スマホの時計を見るとまだ2時過ぎ・・・

(何でこんな時間に目覚まし時計なんかつけてるんだ(怒)) 

同期がスマホ画面の時計を見ている僕を見て、声を掛けてきました。

「ねえ、ねえ、電話がかかってきたんだけど・・・」
「非通知で。」 
「え?? 硫黄島って携帯電話の電波飛んでるんだっけ?」
「俺のスマホの電波は圏外だけど・・」

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(出典:https://www.rikimarublog.com/entry/iphone-kengai)

「何で???」   (゚A゚;)ゴクリ
「誰からの着信??」

しばらくして、電話の着信音は切れました。

めちゃくちゃ怖えぇーー😨
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

僕たちは、すぐにスマホの電源を切りました。

その後は、当然寝付けませんでした。

『心霊』なんてものは、これまで全く信じていなかったけど、世の中、不思議な事があるもんですねぇ。 

⏩ 海上自衛隊の基地から摺鉢山まで走ってみた

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2日目の朝、同期達と海上自衛隊の基地から硫黄島の象徴である『摺鉢山(すりばちやま)』までランニングをしました。

大概の自衛官は、出張に出かけたときにはランニングをするんです。
なんか、走りたくなっちゃうんですよね。

海上自衛隊の施設から摺鉢山までの道中には、『ギンネム』の木がたくさん植えられていました。

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(出典:https://blog.goo.ne.jp/joe_and_mick/e/969ae6aced8e7cc51928c5f98df07675)

これは、硫黄島の戦闘が終了した後、死体の腐敗した匂いを消すために米軍が種を撒いたらしいです。

硫黄島には、まだ遺骨が1万柱以上が残されています。

1万柱ですよ❗❗
まだそんなに多くの戦没者が遺族のもとに帰ることができていないんですよね。

そして、『硫黄島』との名の通り、島のあちこちから硫黄が吹き出ていました。

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⏩ 硫黄島の象徴 『摺鉢山』に登ってみた

摺鉢山山頂には、慰霊碑がありました。

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米軍側の慰霊碑 ↓ ↓
ここを訪れた米兵たちが、自分のネームタグや部隊章を供えて帰っていました。

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硫黄島では、毎年日米合同慰霊祭が実施されています。

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(出典:https://www.sankei.com/photo/story/news/180324/sty1803240017-n1.html)

 摺鉢山からも、硫黄が吹き出ていました。

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硫黄島の戦いでは、この摺鉢山が変形するくらいの米軍の砲弾を受けたんです。

摺鉢山頂から海上自衛隊の基地方向を見渡すと、海上には未だに沈没した船舶の一部が顔を出していました。

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そして、砲陣地の景況。

コンクリートで陣地が構築されているのは、海軍が作った砲陣地。
当時は、コンクリートの使用法を巡って陸軍と海軍の争いがありました。

米軍が侵攻してきた海上側からはコンクリートは暴露し、著名な目標となり早々に海軍の砲陣地は撃破されることになりました。

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砲身が凹んでいるのは、米軍の砲弾が命中した跡
砲弾で撃たれたら、鉄の塊も穴が開くんですね。
人間だったら、ひとたまりもなく粉々になるでしょう。

生々しいですね・・・・

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当時の撃破された戦車は、まだそのまま残されていました。

戦車は側面と後方部分が装甲が薄く脆弱なので、側面をコンクリートで補強しているのがわかります。

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今の90戦車や10戦車と比べると、おもちゃみたいですね。
前面に無数の弾痕が残されています。

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洞窟内には、まだ生々しい当時の遺品が残っていました。

ヘルメットに穴が空いてるのは、頭を撃たれたからでしょうか?
遺品を見ていると色々な想像が膨らみ、当時の戦闘の生々しさが蘇ってきます。

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⏩ 小笠原兵団長 栗林中将(大将)

大東亜戦争の将軍で、あまりにも有名な栗林中将。

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【栗林中将 決別の辞】 

戦局最後の関頭に直面せり
敵来攻以来麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり
特に想像を越えたる量的優勢を以てす
陸海空よりの攻撃に対し 
宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは
小職自ら聊カ悦びとする所なり
然れども 飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ 為に御期待に反し 
此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは
小職の誠に恐懼に堪えざる所にして 幾重にも御詫申上ぐ
今や弾丸尽き水涸れ 全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り
熟々皇恩を思い粉骨砕身も亦悔いず
特ニ本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思い至り
縦い魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す
茲に最後の関頭に立ち重ねて衷情を披瀝すると共に 
只管皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ
永えに御別れ申し上ぐ
尚父島母島等に就ては
同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも
断固破摧し得るを確信するも何卒宜しく申上ぐ
終りに左記駄作御笑覧に供す
何卒玉斧を乞う
国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ

米国に留学経験があり米国通の栗林中将は、大東亜戦争は、勝てない戦争ということは見抜いていました。

しかし、国家の方針として、この硫黄島での作戦が決まった以上は、軍人として従わなければならなかったのです。

大本営より小笠原兵団長への任命され、この地で作戦指揮を執ることなりました。

この地で玉砕することも当然理解していました

 圧倒的な戦闘力を誇る米軍から、如何に長期間持久するか・・・
 過酷な環境下で、兵士たちをどのように導いていくのか・・・

日本人として、自衛官として、この戦闘や栗林中将から学ぶものは非常に多くありました。

そして、栗林中将の『決別の辞』からは、
祖国を思いながら無念にも亡くなっていった先人たちの将来の日本の繁栄や安寧への強い願いを感じることができました。

そして、今の日本の平和は、多くの先人達の努力と犠牲によって成り立っているということをこの研修を通じて改めて感じました。

最高の研修でした!!


最後まで読んでいただきありがとうございました。

今日も皆様にとって良い一日となりますように!

元国防男子 Mr.K


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