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<陸自幹部の第1空挺団勤務記録> その7 |東日本大震災・福島原発事故災害派遣で目に見えない『敵』との戦い

こんにちは。

元・国防男子/陸上自衛隊応援団/初級・中級幹部サポーターのMr.Kです。
幹部自衛官として13年間勤務し、主な経歴は🪂最精鋭部隊第1空挺団、🇺🇸米国陸軍留学、✏️陸自最高学府の指揮幕僚課程、🇺🇸在日米陸軍司令部、🇺🇳国連南スーダンミッション軍事司令部等で勤務して参りました。
現在は、民間企業の危機管理部門で海外セキュリティ担当として危険国の情勢分析、セキュリティ対策の立案など、陸自時代よりもよりリスクの高い仕事をしています。

前回の続きで、空挺団時代に参加した『東日本大震災への災害派遣』についてお伝えしたいと思います。

空挺団は、福島第一原子力発電所の災害派遣に参加することになりました。放射線の高い地域での活動であるにもかかわらず、自衛隊の装備は・・・

このときの自衛隊の活躍により、国民の自衛隊に対する評価が大きく変化しました。

昭和32年の吉田茂初代首相の訓話の頃とは、自衛隊を取り巻く環境や評価は随分変わってきたことを感じました。

前回からの続きの記事となりますので、前回の記事をまだ読んでいない人は、是非読んでみてください。

⏩ 任務を放棄して隊員が逃亡?

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(防衛省自衛隊HPより引用)

ーー福島第一原発事故発生後

福島県の郡山駐屯地に派遣されていた東京都にある練馬駐屯地の第1特殊武器防護隊の3等陸曹が自衛隊車両や民間車両を窃盗して逃亡した。

というニュースが流れました。

本人曰く、
原発事故への恐怖心でパニックになって逃亡したらしいですが・・・

その後、この隊員は懲戒免職となりました。

特殊武器防護の隊員だったので、生物剤、化学剤や放射線に関する知識は他の職種の隊員よりも持っていたと想像します。

だから、気持ちはわからなくもありませんが・・・

逃亡する前に、部隊の上司や同僚に打ち明けられなかったのでしょうか?

敵前逃亡による不名誉な離職です・・・

そして、ニュースにもなり、陸上自衛隊への国民の信頼を損なうような行為でした。

訓練ではなく実際に自分の身に危険が及ぶ状況になった時には、少なからずこういう隊員も出てくるんですね。

こういう危機的状況下でのリーダーシップの難しさを感じました。

⏩ 入校?こんな国家の一大事の時に?

空挺団の福島第一原発への災害派遣が決まりましたが、

実は、僕は空挺団の災害派遣出発の2週間後に、『幹部上級課程』への入校が決まっていました。
この教育は、陸上自衛隊の基本教育で幹部自衛官であれば1等陸尉や2等陸尉で必ず受けなければならない教育です。

この教育は、東日本大震災の発災前から既にに決まっており、この教育に向けた準備をしていました。

そんな中、未曾有の大災害が発生してしまいました。

こういう状況なので教育は延期になるだろうと思っていましたが、
陸上自衛隊としては、基本教育は予定どおり実施するという方針が取られました。

(こんな未曾有の大災害の時に・・・)

(少し、教育期間をずらせないのだろうか・・・)

(部下たちは、放射線を浴びながら任務を遂行しているのに・・・)

(なんで悠長に教育なんか受けないといけないんだ?)

 そう考えた僕は、中隊長に、

「教育入校を1年、後らせたいんですけど・・・」

とお願いをしたのですが、

 「ダメだ。陸上自衛隊で決めたことだから、それに従え。」

と一蹴されてしまいました。

こればかりは、仕方ありません・・・

しかし、隊員たちの「士気」に関わる問題にもなりますので、小隊長として少しの期間でも参加させてもらうことを要望しました。

その結果、

部隊運用の立ち上げ部分に関わらせてもらうため、わずか1週間くらいだけでしたが、今回の災害派遣に参加させてもらえることになりました

⏩ いざ、災害派遣先の福島県へ

千葉県の習志野駐屯地から福島県へ移動中、一部の高速道路は通行規制がかかっていました。

そのため、東北道を使用して福島県へは比較的スムーズに入れました。

途中、災害派遣で被災地へ向かう陸上自衛隊の部隊や、関西地区からの県警の災害支援チーム御一行と遭遇しました。

高速道路のパーキングにはパトカーがズラリ!
あんなパトカーの大行列は見たことがありませんでした。

今回の大地震による被害がいかに甚大だったかを物語る光景でした。

ーー当初、空挺団の主指揮所は陸上自衛隊『郡山駐屯地』に、空挺団の後方指揮所は福島県にある『白河布引山演習場』に開設されました。

空挺団の当初の任務は、避難住民の誘導

当初、中隊は『白河布引山演習場』の後方指揮所で作戦計画の作成・修正をして、災害派遣への準備を整えました。

3月下旬というのにまだ雪が残っていて寒かったことを覚えています。

被災された方たちはこんな寒い中、十分な物資もない中で生活をしているのか・・・。少しでも多くの方を、少しでも早く助けたい。)

被災者の身の上を考えると居たたまれない気持ちになりました。

⏩ 隊員達への究極の質問

空挺団は、これから前方の放射線地域で活動しなければなりません。
そのため、隊員達には比較的放射線の高い地域に行ってもらい活動をしてもらわなければなりませんでした

しかし、これから家庭を築いていかなければならない若い隊員達を前方地域に派遣することには躊躇しました。
放射線の影響がどれくらいあるのかよくわからなかったからです。

中隊長と相談して、新婚者や子供をつくる予定のある隊員は、前方地域での任務から除外しました。

そして、その他の隊員への意思確認。

 ー 前方地域へ行けるか。行けないか。

🔥 放射能による被爆の危険性のある地域で任務を遂行することができるか否か。
🔥 貧弱な装備品しかないし、将来どのような健康上の問題が発生するかもわからない。
🔥 そんな状況で、自己を犠牲にして国に貢献できるか。

『究極の質問』

戦時中ならともかく、現在の平和な日本においてこのような決断を迫られる事は中々ないと思います。

いつもやっている訓練ではなく、
実際に自分の身を犠牲にする必要がある任務
となるからです。

隊員達の決断が気になりましたが、
思ったよりも沢山の隊員が前方での任務遂行に賛同してくれました。

もちろん、小隊長だった僕は、幹部として指揮をして前方に行く事が当たり前で、前方へ行く事を拒否するという選択肢はありません
拒否した場合には、リーダーとしての信頼を失い、今後の部隊活動にも大きな影響を与えてしまいます

その場合には、空挺団にもいられなくなることは理解していました。

幹部自衛官はこのような危機的状況においてこそ、強力なリーダーシップを発揮しなければならないのです。

⏩ 母親からの電話

空挺団指揮所が設置されている郡山駐屯地で作戦をしていたとき、一本の電話がありました。

母親からでした。

母親:「あんた、今どこに居るん?」

K2尉:「今、福島県の郡山駐屯地だけど、これからもう少し福島原発の方へ行かないといけなくなりそう。でも、教育があるからすぐに千葉に帰らないといけなくなるけどね。」

母親:「そう。テレビのニュースで見たよ。」

母親:「まあ、あんたが選んだ職業だし、もっと困っている人たちがそこにいるんやから、しっかりやってきなさいよ。」

母親:「体に気をつけてね。」 

K2尉:「わかった。頑張ってくるよ。ありがとう。」

家族に話すと心配するから、何も言わずに災害派遣に出かけていましたが、テレビのニュースを見て空挺団が福島で活動していることを知ったようでした。

母親の対応は意外にもサラッとしていました。

(すごく心配してたんだろうな・・)

(でも、これがあなたの息子の仕事だから。)

(同じように、他の隊員の家族も心配しているんだろうな。無事に任務を完遂して、隊員たちが無事に家族の元へ帰れればいいのだが・・・)

電話を切った後、様々な思いが頭の中を巡りました。

⏩ 貧弱な装備品を頼りに、更に前方地域へ

部隊が作戦地域で活動するためには、
まずは情報伝達や情報共有するための通信所をすぐに立ち上げなければなりません。通信がなければ作戦は成り立ちません。

まず、図上で見積もった通信所適地を実際に偵察し、
そこで通信が確保できそうであれば、通信所を開設して暫くの間留まることになります。

しかし、ここで大きな問題がありました。

放射線量の高いであろう地域に行くにもかかわらず、部隊で装備している放射線を測定する装備品は、たったこれだけ!

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(出典:陸上自衛隊第3特殊武器防護隊HPより引用)

この心許ない器材(線量計)数個あるだけでした。

圧倒的に貧弱、かつ数量不足!!

各通信所に全て行き渡るほどの、線量計の割当てはありませんでした。

そのため、線量計を与えられるのは小隊長クラスのみで、一般の隊員には配布されず、被曝量は小隊長クラスのみが確認できました。

この状況は、凶暴な大熊に木枝を持って戦いを挑むようなもの

自殺行為です。

団本部に何度か掛け合いましたが、線量計が各通信所に行き渡る程の数は用意できませんでした。

仕方なく、次の要領で線量計を運用することにしました。

🌈 僕が、通信所地域の偵察のときにこの線量計を持って行って、1時間、放射線量を測定する。
🌈 1時間の放射線量に24時間を掛けて、1日の被曝量を換算する。
🌈 1日の許容被曝量を超えれば、別の場所に通信所を変更する。
🌈 越えなければ、その場所に留まって計画通り通信所を運用する。

陸上自衛隊の上級部隊からは、健康のことを考慮して、1日の被爆許容量が定められ、報告義務がありました。
その数値を超えそうな場合は、速やかに人員を交代させる事になります。

ということで、隊員たちの被曝量を日々計測する必要がありました。

ーー通信所予定位置に到着後

ここの通信所では、2名の隊員を配置しての運用を計画していました。

隊員達は、そこでしばらく留まる必要があるため、車両からテント等の荷物を卸して通信所運営の準備に取り掛かっていました。

僕は、早速、線量計を出して放射線量の計測を開始しました。

ーー1時間後

K2尉:「ここは、そんなに放射線は高くないみたいだから大丈夫だ。ほら。」

隊員:「本当ですか?大丈夫なんっすか?こんなちっこい器材で。小隊長、俺たちもその線量計ほしいんですけど・・」

(そうだよな。こんな心許ない装備品でも、一応計測できているみたいだし、持っていれば安心だもんな。でも、無いんだよ・・・)

K2尉:「わかった。帰ったら、もう一度団本部に行って確保できないか調整してみる。」 

隊員:「よろしくお願いします。」

という会話を交わして、後ろ髪を引かれる思いでその通信所から離れました。

(本当に申し訳ない・・・・)

⏩ 福島県飯舘村への前方指揮所設置

それから数日後、
空挺団は福島県飯舘村に前方指揮所を開設することを決定しました。

より原子力発電所に近いエリアに行くと言うことです。

飯舘村は山々に囲まれていたため、放射線の影響は少ないだろうという判断だったのでしょう。

飯舘村近傍で通信所を開設するための地域偵察をしていたとき、地元の住民たちが道路で避難車両の誘導をしていました。

僕たちが自衛隊の車両で通過するたびにご丁寧に敬礼をしてくれた。

大変な時期にもかかわらず、僕たちに対して敬意を払ってくれていることに感謝しました

僕たちが活動することで、飯舘村の住民たちを少しでも勇気づけられればと思いながら敬礼を返しました。

⏩ 日々の食事

災害派遣中、僕たちが食べていたのは自衛隊の缶詰類でした。

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(出典:http://www.mod.go.jp/pco/kanagawa/pic/kan-mesi/kan-mesi.html)

味付けがものすごく濃く、高カロリーのため、これを食べ続けたら体がおかしくなります。

でも、被災者の中には、食べられない方もいるので贅沢は言えません。 

発災で交通機関が麻痺していたため、物流も麻痺。

もちろん、被災地のコンビニ等で買い物をすることはできません。
商品があったとしても、被災者の食料を奪ってしまうことになりますから。

このような食事の環境下で、隊員たちは大変な任務だったと思います。

⏩ 僕の短い災害派遣は終了

そうこうしているうちに、中隊長と約束をした1週間が経過し、僕の短い東日本大震災の災害派遣は終わってしまいました。
僕は、これから教育入校のために部隊に帰らなければなりません。

後ろ髪を引かれる思いで、泣く泣くその『戦場』から離脱しました。

ーー千葉県に帰った後

テレビのニュースで1日の放射線量が放映されているのを目にしました。

空挺団の前方指揮所が設置された飯舘村の放射線量が、結構高かったことを後で知りました

あの線量計は、本当に信頼できるものだろうか??

そのような疑問を抱きました。

⏩ 空挺団の災害派遣任務終了

僕の6ヶ月間の幹部上級課程入校中に、空挺団の災害派遣任務は終了しました。

当初は、避難民の誘導という任務が付与されていましたが、最終的には海岸地域まで行って、行方不明者、ご遺体の捜索まで拡大されたようでした。

後に、写真で活動状況を確認しましたが、
暑い中、泥まみれになりながら隊員が任務に邁進している姿を確認し、心強く感じました。

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(出典:福島県南相馬市HPより引用)

僕は、1週間程度しか災害派遣には参加できず、福島第1原発から遠い地域でしか活動できませんでしたが、他の隊員達は、目に見えない、得体の知れない放射線という敵と向き合い、本当の脅威を感じながらの災害派遣を見事に完遂してくれました。 

本当に感謝しています。

防衛省が作成した東日本大震災の活動記録を紹介したいと思います。

⏩ 自衛隊に対する国民の評価の変化

自衛隊の真摯な活動の結果、自衛隊に対する評価は一気に高まりました!

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この内閣府世論調査の【自衛隊に対する国民意識】によると、

『自衛隊に良い印象を持っている』と答えた割合は、

2009年1月には、80.9%だったのが、
震災後の2012年2月の調査では、91.7%にまで増加しています。

 なんと!
10%以上の伸びです!

この自衛隊に対する国民意識を見て、ある人物の言葉を思いだしました。

昭和32年、防衛大学校の1期生の卒業式での吉田茂初代首相の訓話

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(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82)

【吉田茂初代首相の防衛大学校卒業式での訓話】

君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれないきっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し、国家が混乱に直面している時だけなのだ。
言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。

確かに、自衛隊が日陰者の方が国民にとっては幸せな時代なんですよね。
平和なときは、自衛隊が本格的に活躍することはありませんから。

吉田首相が防衛大学校で訓話した時代には、“自衛隊は税金泥棒”と言われていた時代でした。

国民の生命・財産を守るために尽力しているにもかかわらず、理解されることがなかった『暗黒の時代』です。

吉田首相の訓示の通り、これまでの先輩自衛官たちは、何十年とずっと「耐えて」きました

地道な活動・努力を継続しながら、国民の理解、信頼が得られるまでずっと耐えてきました。

現役の自衛官は、そのような先輩自衛官達の努力の上に現在の環境があることを忘れてはなりません!

自衛隊の活動は、国民からの信頼と理解がなくては成り立ちません。
国民の理解がもっと深まり、自衛隊がもっと身近な存在になることを願っています。

元・陸上自衛官としてこれからも自衛隊を応援して行きます。

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最後まで読んでいただきありがとうございました。

今日も皆様にとって良い一日となりますように!

元国防男子 Mr.K

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