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就活のために自分の軸は作らなくていい。 ~軸は人生の中で形成されるもの~

私はタクシー会社に新卒社員として入社し、現在新卒採用担当を務める。そこでよく学生さんからいただくのが自己分析のご相談だ。


「軸はどうやって決めましたか?」
「就活はどのように進めましたか?」

 
そんなときに必ず私がお伝えするのは
「就活のために自分の軸は作らなくていい。」
なぜそう考えるのか、私の人生の一部を例に話したいと思う。

《幼い頃の経験》

私の一番古い記憶は自分が3歳のときのある晩のこと。
夜中に抱き枕の『たぬ吉』を抱えてうとうとしたまま、父親に車に乗せられて近くの祖父母の家に行った。着いてすぐに私は布団に入り寝入った。父と祖母が話していたけど内容までは聞こえなかった。その晩から祖父母の家は私にとっての【家】となった。

両親が離婚し父親に引き取られるものの、父が劣悪な仕事環境と育児の両立でノイローゼになり、程なくして祖父母の実家に父と居候生活が始まったのだ。

幼かった頃の両親の離婚や居候生活は辛かったのかと言われると、確かに母親がいないのは寂しかったが、幼いゆえ、ほとんど記憶にない。
居候生活が始まり、父親の男兄弟たちにも囲まれて、自分の親や祖父母世代の音楽や映画、アニメが常に生活の中にあった。大人との会話も苦ではなかった。家族皆が愛してくれたと感じるし、大人数で過ごす時間はとても楽しかった。

特に祖母は私にとっての第二の母であり、尊敬する女性であり、今の私を作ってくれた大きな存在だ。彼女は私が12歳の時に末期癌になり1年間の闘病生活の末、亡くなってしまった。まだ66歳だった。


末期癌は深刻なもので、もう助かる可能性が低いと最初の手術で知っていた祖母は、その事実を祖父と一人の伯父に しか伝えておらず 「誰にも言わないでほしい。」と残していたそうだ。そして家族に「マリナを頼んだ」と遺言を残し、2011年3月27日 に他界した。容態が急変したと聞かされ病院に向かった父と私が駆け付けたころにはもう亡くなっていた。あと1時間早ければ生きた祖母に逢えたはずだった。涙がもう出ないんじゃないかってくらい泣いた。

《祖母が亡くなってから》

幼い頃、なかなか寝付けずべそをかく私に、祖母はよく海外の映画や旅や美術に関するテレビをよく見せてくれた。特にオードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』はお気に入りで何度も観ていた。


同時に小学校に入学してからユニセフの募金活動を通して、世界には貧困や紛争、難民問題があることを知り「どうして世界はこんなにも美しいところもあるのに不平等なままなんだろう?」と疑問を持った。
だからこそ大人になったらまだ見ぬ世界へ行って、現地に触れて、皆とお互い平等に接して、直接その人のためにできることを通して「笑顔にしたい 」と漠然と《将来のなりたい像》が形成されていった。

祖母は亡くなる間際「高校は近くの国際高校に通いなさい 」とも残していた。結果、私は 受験勉強に取り組み「もっと偏差値が上の学校にも行けるのに 」という塾の先生の言葉を押し切り、勉強以外にも部活など課外活動にも注力できるように、祖母が提案した近所の松戸国際高校に進学した。様々な国 の出身、バックグラウンドを持つ友人もでき、中学で自分の趣味や個性を理由にいじめられたトラウマも消えた。


高校の友達から学んだことは『ありのままでいい』ということ。中学1年生のとき、片親であることや趣味が合わないことを理由に仲間外れを経験していた。そして隠れるようにしていた自分のそのままを【個性】として受け入れてくれた。人間関係や先生にも恵まれて、順調な高校生活だった。勉学に励み、茶道とESS (English Speaking Society)、演劇を掛け持ちして文化祭実行委員会も務めるなどやりたいことはなんでも挑戦した。父と祖父は努力の賜物だと言ってくれた。

しかし飲食店で店長としてバリバリ働いていた叔父が仕事でうつ病になり、さらには受験期と同時に祖父が脳梗塞で倒れて一気に人生が真っ暗に感じた。
祖母が亡くなってからは祖父が家事をしてくれていた。そんな祖父が倒れて以来、部活から帰宅後、私が料理するようになった。「今まで学校生活を送れたのも家族の支えがあったからなんだ 」と初めて気づき、これから自分はやっていけるのか本当に不安で辛かった。今まででこの時期が一番しんどかった。

父のノイローゼ。祖母の末期癌。叔父のうつ病。祖父の脳梗塞。

思えば家族のほとんどは仕事や我慢で身を削っているように見えて、なんとなく大人になることは希望というよりも、社会に出て人間が使い古される世界のように感じた。

運よく日々の成績の積み重ねから、指定校推薦で法政大学に入学した。入学前後のギャップで最初はブルーになるものの、企画プロジェクトの課外活動団体と出逢い 、大学生活で頑張りたいことを見つけられてからは大学生活が心から楽しいものに変わった。

 
そこから学生団体のモデルショーや短期留学、大使館のボランティアなどの経験が 自分を作ってくれると信じてなんでも気になったら挑戦していた。 いくつか企画を作ったり、課外活動団体のリーダーとして活動していく中で沢山の人の「ありがとう」に触れた。

そして自分の中で
『将来自分は直接人と関わって、その人に何らかのサービスを通して、笑顔にする仕事をしていきたい』
と確信を得た。
就活に入り、自分はその軸をそのまま就職活動における軸として業界は絞らず見ていった。

《会社のためではなく、自分のため》

就職活動のための軸は作らなくていい。
企業理念にマッチするかどうかは就職活動において大事な観点である。しかしそこには落とし穴がある。

「自分はどうしたいか?」

企業理念に合わせて自己PRを作ることは『就活の仮面』を被ることに思える。企業の面接のために合わせた自分。そこで評価されたとしても『仮面姿の自分』であって、素顔の自分で働いていけるだろうか?


また、就職活動を始めるにあたり自分をわざわざ形成させなくてはならないことに抵抗があった。普段考えていないことを、なぜあたかも『自分』かのようにやっていかなくてはならないのか。『個性』を隠して生きた時代から、高校に入学して、ありのままを迎え入れてくれたことにより『素』でいられるようになったのに。


だから私は自己分析するときも『何を頑張ったか』ではなくて、『どんな人生を歩んでどんな感情で生きたか』を見つめた。
楽しい、幸せ、辛い、悲しいも心で感じたものは本物だ。

就活における軸について、今まで培ってきた自分そのもので勝負したらいいと私は考える。ありのままの自分。ボランティアやアルバイト、資格などで自己PRをするならば【何】を頑張ったかではなく【どのように】頑張ったかという【How】を意識して伝えていくことから始まる。

自分が見てきた景色を面接官は知らない。【What】だけを語ってもあなたの魅力は十分に伝えることができない。

私自身、面接では

①なぜ自分が取り組んだのか?

②どのようにして取り組んだのか?

③頑張ってこれた理由としての自分軸

を意識していた。そこには

「自分はこういうことを頑張ってきたよ。これが私の能力だ。」

ではなく

「私はこの考えをもって生きてきた。だからこの会社のマインドに共感して、今この面接の場にいるのだ。」

とのメッセージ性を持たせていた。

だから今就活を生きているあなたに言いたい。

「自分が思うように進み、選んでいい。」

自分がいいと感じた直観や気持ちに素直に企業を見つめていい。そこで働くのは紛れもない自分自身だから。
もし周りにあなたの選択に意見を言う人がいるのならば、納得させる必要があるかもしれない。だけど相手はあなたの選択に責任を本当に持ってくれるのだろうか。
選択には責任がついてくる。けれど重荷に思わなくていい。一緒に自由もついてくるから。

今まで生きてきた中で経験してきた出来事。その時の想いは間違いなくその人を創っている。今の自分がなぜこんな夢を持っているのか?その疑問を何度も繰り返して、できるだけ過去に遡ってみてほしい。そこにきっと自分の根幹がある。

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