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2020年5月のねこ日記

吾輩はずっとかわいくなる。はじめからかわいかったけど、毎日もっとかわいくなる。わたしの愛情が募るからではなくて(それはそれとして募るけれども)、生きることは、なんだかその生きものの本質へ近づいていくようだと思う。

いま在るものに嘘も本当もないんだが、変化はただの変化なんだが、ときどき、中心というものがあるように感じられる。わたしが自分の中心へ近づいているのかどうかはよくわからない。でも吾輩は、行動や意思の一つひとつが、毎日すこしずつ、あの子自身のものへ変わっている。自分になるということ。あの子が、あの子のものになるということ。あの子が、あの子を自分のものにしていくということ。

そうしてあらわれる動き、興味、声、目つき、身体のやわらかさ、その素朴さが、とてもかわいらしいと思う。糊の部分にシールが貼ってある封筒、そのシールを剥がすともう糊がついていて、あとは蓋部分とくっつけるだけの封筒があるでしょう。あれを剥がしたあと、その剥がれたシールがいつの間にかテーブルの下に落ちていて。わたしはそれに気づいていなくて、あの子がソファの下に潜っていたことも知らなかったんだけど、吾輩はいつの間にか、わたしの足もとの陰でそのシールを前足でちょいちょいと引き寄せ、ソファから鼻先だけを出してそいつで遊んでいて。

それに気づいたとき、この子は本当にかわいいと思った。昨日よりももっとかわいくなっていると思った。あの子はよくヒモなんかを食べようとしてしまうので、それをそのままにはしてあげられなくて回収するんだけど、回収されてしまう遊びであることを吾輩自身ももうよく知っているから、なんかすっとぼけた、ちょっとだけばつの悪そうな顔をして口を閉じる。この子のことが好きだ。


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兄のベッドで眠っていた吾輩が、午後、自分ひとり先に起きてくる。いつもはたいてい、兄とおなじタイミングで起きるか、しばらくしてからのんびりとリビングにやってくるけど、今日はちがったらしい。

寝相が昨日とちがっていたり、ちがう時間に起きてくる吾輩を見ると、胸が柔らかくなる。気分があるのだ、と思う。ねこは気分屋だというけど、気分が移り変わることではなく、すべての気分が新しいところがすてきだと思う。時間が作り上げる習慣があるだけで、自販機から飲みたいものを選ぶのとはまったくちがうのだ。起きる時間がいつも似ているだけで、おなじ時間に起きようとしているわけじゃない。いつも、遊び回ったあとには水を飲むけど、その毎回の行動は同一ではなくて、あの子は、水を飲みたくなったから水を飲む。

吾輩が、パソコンのキーを叩くわたしの隣で、窓の外を見ている。わたしは呼吸をつづける彼の身体を見ている。彼は毛づくろいをはじめる。やがて終える。やがて窓のそばを離れてゆくけど、わたしにはそのスイッチがぜんぜんわからないなと思う。わからないんだけど、この子のなかで突然はじまったり終わったりする、増やすのでも捨てるのでもなく、いつも真新しく感知する優雅さに感動している。きれいな生きもの。


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吾輩を見ていると、やっぱりこの子だけでいいよという気持ちにもなる。こんなにかわいいから。もうひとりいればいいのかも、と思うのはわたしたちのエゴだし、この子は比較もできない。ひとりぼっちで生き残ってきょうだいたちのことはもう忘れてしまったかもしれないし、どっちがいいかなんて、いまのこの子にはわからない。

言葉がわからないから、よく声を聴く。よく目を観る。身体のゆるみやこわばりを観る。抱いて、近くにいく。言葉ばかりに たよらずに、声が届くように何度も伝えてみる。

吾輩は頭がいいから、よく感じとってくれる。ほかの誰かがいることがこの子の幸福になるなら、その相手と出会いたいと思う。でもどうかな、わからないのだ。わかることより、わかっていることより、わかりたいと願うことが、わたしたちを信頼へと連れていくような気がしている。


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