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読んだ人の血となり、肉となり、心をつくる物語『十二国記』

何かをエイヤッ!と決めるとき、私は自分の直感で決めることが多い。ということに最近気づいた。

こうした方がいいだろうな、と思っていることはやった方がいい。理由をあれやこれや考えている時って、直感では「やった方がいい」と思っているけどやりたくないなぁ、面倒だなぁと思って、やらない理由をどうにか正当化しようとして考え込んでいる、というパターンが多い。

でも、"直感力"の正体って何だろう。

経験値ももちろんあるけど、私は、今までどんな物語に触れてきたか、なのではないかと考える。少なくとも、私の場合はそんな気がする。

そう思ったのは、小野不由美さんの小説『十二国記』を読み返したからだ。

10月12日(というか今日!)新作が刊行する。18年ぶりだ。
15年前の中学生の私が、学校の図書館で『十二国記』をはじめて手にとった時はすでに休刊中だった。シリーズ最初の『月の影 影の海』を夢中になって読み終えて、すぐに他の巻もあっという間に読んだ。続きが気になる気持ちを身悶えしながら抑えて、同じ物語を15年間に何度も何度も何度も読み返した。

新作発売を控えた数週間前に、新潮文庫版で新たに全巻買い直し(実家で持っていたのはホワイトハート文庫版だった)、最初から読み直した。全巻通して読むのは、3年前に実家を出て以来だ。

読んでみて、驚いた。
登場人物たちが考えることが、自分の思考と似ていたからだ。
「このキャラクターか言ってることって、私があの時考えていたことに似てる!」という発見がたくさんあった。

読み返すと同時に、この15年間で自分の身に度々訪れた「決断の時」を思い返していた。大学に行こうと決めた時、留学をしようと決めた時、寝食を忘れて猛勉強をした時、今の会社に入ろうと決めた時、編集者になろうと考えた時。

今まで自分がした決断は、なぜそうなのか、という理由をあれこれ付け加えずにほとんど直感で決めてきたように思う。でも、そうした私の直感を支えていたのは物語の力なのかもしれない。

何度も読み込むうちに、大好きなキャラクターの考え、感銘を受けた作中の出来事を自然と自分自身に取り込んでいたのだ。作中に登場するジョウユウという妖獣がいる。身体に染み込んで戦いの時に宿主の身体をしなやかに操るのだ。私にとって『十二国記』はジョウユウだ。

大好きな『十二国記』が自分の血となり、肉となり、心をつくっていた。読者として、ファンとして、こんなに嬉しいことはないと思った。

夜が明けて朝になったら、新作を買いに行く。
どんな物語に出会えるんだろう。同時に、それを読んだ後にどんな自分に出会えるんだろう。嵐の夜、蝕が起きた夜。興奮して眠れず、こんなnoteを書いてみた。そろそろ、寝なければ、なのだけど。

でも、あー、楽しみ!!


以下は、『十二国記』を読み返していて、自分がきっと影響を受けたんだろうな、という部分をいくつか引用。(読みやすいようにちょっと編集)

ちなみに6作目の『図南の翼』は物語そのものが魂に刻みたいほどの名作で、私の道しるべだ。この話はまたいつか。

生きるということは、嬉しいこと半分、辛いこと半分のものなのですよ。
人が幸せであるのは、その人が恵まれているからではなく、ただその人の心のありようが幸せだからなのです。

(黄姑)
「風の万里 黎明の空」より
私の同類ではない。私たちの思惑は理解できない。
これは理解を拒絶する言葉だ。
何事につけても、自分の身に起こってみなければ、理解できないものというのはあるからね。それは事実だけれども、同時に理解を拒絶する言葉でもある。理解を拒絶するくせに、理解できない相手を責める言葉だ。

(利広)
「図南の翼」より
何の努力もなしに与えられたものは、実はその値打ちぶんのことをあんたに要求してるもんだ。祥瓊はそれを分かっていなかった。だから、憎まれる。

(楽俊)
「風の万里 黎明の空」より
人間って不幸の競争をしてしまうわね。本当は死んでしまった人が一番可哀相なのに、誰かを哀れむと負けたような気がしてしまうの。自分が一番可哀相だって思うのは、自分が一番幸せだって思うことと同じくらい気持ちいいことなのもしれない。

(祥瓊)
「風の万里 黎明の空」より

書いていたら、すでに朝になってた。。。


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