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祖父と日記と祈り
”お祭りの時期に必ず現れるおじちゃん”
九州の小さな温泉街で暮らす祖父は、地元の人にそう呼ばれ、愛されていた。明るくて知的で、羽振りが良くて面白い、どこにいても主役みたいな人だった。
2年前、祖父が亡くなった。86歳、お通夜とお葬式の参列者は300名を超えた。
参列者からいただいた御香典代からお葬式代を差し引いてもおつりが出た、!(かなりすごいことらしい)
多くの人に惜しまれながら、遺影の中の祖父はピースサインをしていた。
明るい裏ではとにかく継続して努力をし、真面目に生きてきた祖父。
そして、その様子は孫の前では一切滲みでることはなかった。
(私たち姉妹の前ではいつも踊っているか、歌っていた、、、!)
銀行員一筋だった祖父は、定年後も仕事を続けながら、
地元のコミュニティの活性化にかなり寄与していたらしい。
葬式会場では、ドリフターズの「いい湯だな」が鳴り響いていた。
ババンババンバンバン~♪
みんなで笑い泣きながら、歌いながら、お花を添えていく。
お花に囲まれ、好きな人たちに囲まれ、祖父が送り出されていく。
良いお葬式だった。
こんな気持ちになっていいのかわからないけれど、多くの人に惜しまれて、「羨ましい」と思った。
何のコネもない一般家庭に生まれ、努力に努力を重ね銀行に入社。地方銀行の支店長にまで上り詰めた。当時は異例の出世だったそうだ(参列者である銀行のお偉いさんの別れの言葉で初めて知った)。
私が知らなかった祖父の経歴に圧倒されつつも、私の中での祖父のイメージはやはり「きよしのズンドコ節」だ。
「きよしのズンドコ節」が流行した2002年、何を思ったのか、祖父(当時60代)は突然独自の振り付けを考案した。
町内イベントがある度にみんなに覚えさせ、踊らせた。
何年もかけて町中に浸透させ、夏祭りでは町長や市長まであの面白おかしい振り付けを踊らされたのである。
当時まだ一般的でなかったYouTubeに町民が踊る様子を自身で投稿し、再生数は1万回近くにまでのぼっている。
恐ろしい執念とそれを可能にしてしまう人脈。。
楽しい場所を作ることをこよなく愛する人だったんだと思う。
そんな祖父も80手前になる頃には病気が見つかった。絶対に病院には頼らないと言っていた祖父も家族のゴリ押しで入院することになった。
明るくハキハキした祖父が、病気をして、どんどん暗くなっていった。
そこからだ。私が祖父を「怖い」と思うようになったのは。
小さな声でネガティブな発言をしている姿を見て、なんだか知らない人みたいで怖かった。
その為、お葬式で色々な人から語られる「祖父の話」は全て、病気をする前の祖父のエピソードで、私が知ってる祖父が帰ってきたような感じがしてなんだかホッとした。最低だ。
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祖父のお葬式から半年が経った頃、お通夜にて、祖父の日記が祖母によって大公開され、親戚みんなに回し読みされてたことを思い出した。
私はお葬式で読み上げる孫代表としての「お別れの言葉」の原稿を夜通し作成していたため、日記を読む余裕がなかった。
夏に帰省した際、祖母に許可をとって、日記を読むことにした。
分厚い「大型10年日記」が2冊、「大型5年日記」が1冊、棚に収められていた。合計25年分の日記が祖父母の家に遺されていた。
人に日記を見られると思ったら、私は絶対にいやだなと思った。
しかし、今となっては、この中にある言葉でしか祖父の人生を知る術がないのだ。
重たい日記帳には、達筆な字で、どのページもぎっしり詰まっていた。
日記帳が分厚すぎて、キリがないので、私の生まれる1年前〜私の誕生日まで
まで読もうと考えた。
「もしかしたら、私のことも書いてくれているかも〜?」と思ったのだ。
だが、なかなか進まない。
毎日の日記は3行程度であっても、それを1ヶ月分読むだけで1時間はかかった。
そりゃそうだ、人間の人生をそう易々と読み進められる訳がない。舐めんな。
当時59歳の祖父は毎日仕事のことを綴っていた。
定年する1年前の人も、まだまだ仕事のこと考えるんだ。人生ってほとんど労働なのか。ちょっとだる重い気持ちになった。
明るかった表向きの祖父の印象とは反対に、日記の内容は本当に真面目だった。明るい祖父も真面目で明るくない祖父も、病気をする前から存在したのだな。
私が生まれる1ヶ月前、母が里帰り出産のために祖父母の家に滞在し始めた。
×月1日「H子(私の母)を迎える。Nくん(私の父)はとんぼ帰りした。
これから約一ヶ月家族3人水いらずである」
それから私が生まれるまでの約1ヶ月、まだ生まれてないのに出産祝はするし、カラオケ、ゴルフ大会にも参加して、楽しい行事もたくさん詰め込み、母、祖父母は毎晩夕食後にケーキを食べた。
母があまりにも食べるので、臨月の日記には
「夕食後にケーキ、頻繁に食べているので心配。体に変わりはない、と言っていたが」
とあった。
なるほど、私が死ぬほど甘いものを食べるのをやめられないのは、母譲りだったか。。。妙に納得した。
ついに私の誕生日前日。
「H子(母)がパンを上手に焼いた。」
のんきなもんである。
出産当日の日記に書かれたことは全て赤鉛筆で下線が引かれていた。
「K子(祖母)とH子(母)とレディースクリニックへ診察、即入院が決まった。H子は病院の昼食をペロリと平げた。Nくん(父)20:30到着、
22:55、Yちゃん誕生、3300g、22.5cm。
無事に産まれて、本当によかった。初孫よ、どうか大事に育ってほしい。
24:00帰宅、3人で乾杯をした。」
「どうか大事に育ってほしい」という一言に胸が熱くなった。
自分の知らないところで、自分のために祈ってくれている人がいた。
目の奥がじんわり熱くなったが、貴重な遺品を濡らしてはいけないので、目から溢れないよう一生懸命堪えた。
祖父が私のために祈ってくれたという事実が嬉しかった。
私のために祈ってくれた祖父を私は大事に思えていただろうか。
夜中で頭が回らず、日記を読むのをそこでギブアップした。
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先日、私が住む湘南で盆踊りがあった。
湘南の盆踊りは、子供より大人が盛り上がる、アーティストのライブみたいな雰囲気がある。
一番盛り上がったのが、「きよしのずんどこ節」だった。
盛り上がりすぎて、アンコールにアンコールを重ね、計4回、きよしのずんどこ節が流れた。不思議なことに、同じ曲を流しているだけなのに、どんどん叫ぶ声が大きくなっていく。
ズン♪ズンズン♪ズンドコ♪
「きよし!!!!!!!」 (大合唱)
もう、湘南の人たち祭好きすぎない?こんなに盆踊りが盛り上がる地域他にあるのかな。
祖父が作った振り付けとは全然違う振り付けだったけど、
祖父が好きだった曲が、今も踊られ続けていることが嬉しかった。
ふと、祖父にこの光景を見せてあげたかったなと思った。
祖父が作った振り付けを私はずっと覚えていようと思う。
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