バッハを歌った日
バッハを歌った。音楽がずっと頭のなかで鳴っている。なにから書こう。
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大学でクラシックの合唱をはじめてから9年以上になる。いろいろな曲とのであい、人とのかかわりがあり、いまでは歌をうたうことはわたしの一部をなしている。
2月に別の団体で演奏会をしたときとは社会が一変してしまって、芸術活動全般は “不要不急” のものといわれるようになった。わたしたちはいま命のはなしをしているのだから自分のすべきことはわきまえているけれども、「おまえが愛しているそれは “いらないもの” だ」と暗に(ときにはまざまざと)知らされる経験など、しなくていいならしたくはなかった。
それでも世界中の音楽家がふたたび演奏の機会をもつ可能性を模索し、プロもアマも自分自身の問題としていま考えられる対策をひとつひとつ講じて、その知見の積み重ねでわたしたちは本番当日を迎えることができた。制約を受け入れ、それでもやろうと決めてさまざまな困難を越えてくれた事務局やスタッフのみなさまには感謝してもしきれない。
インターネットにこの日記を書くのはすこしこわい。なにかあったら消すかもしれない。うそのないように書く。
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ふだんしない化粧を念入りにして、髪を上げ、衣装に身をつつむ。前日のリハーサルではよそよそしかったホールの響きが、直前練習ではだいぶなじんでいるのを感じた。耳はよくきこえる。のどの調子もいい。すこし興奮ぎみの楽屋の空気。口紅をした自分の顔をみた。
舞台袖が好きだ。現実と非現実の境目。暗いところから光のもとへ。高揚感とすこしのさみしさ。始まってしまったら終わりがくる。思わず「歌いたくないなあ!」と言った。
ありがたいことにこれまで客席の大半が埋まった状態で舞台に立つことが多かったから、今回ほど空いた客席をみるのはほとんど経験のないことだった。いつでも会場に足を運んでくださった方には感謝の気持ちでいっぱいになるが、今回の何十人かのお客さまには格別のものがあった。
プレリュードが響く。演奏は、たのしかった。いい音がたくさん鳴っていた。いろいろなことが起きたが、振り返らないのが本番。
わたしはずっとアルトで歌ってきて、現状維持を惰性と感じることもあったのだけど、今回の2曲を通して自分はアルトが好きなんだとあらためてわかった。あまりにも曲がすばらしかった。
広いホールの高い高い天井にまで拍手の音が満ちる。会場に半分もいないお客さまからのものでも、拍手をいただける感動はすこしも損なわれないことを知った。
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“et in terra pax, ...” と歌っているとき、これが願いとして聞き届けられたら、という考えが頭をよぎって一瞬だけ声がふるえそうになってしまった。ほんとうはそんなのだめなのだけど、作品と現実が色濃く混ざる瞬間こそ生演奏の妙味であるという気もする。
自分が歌わない曲では若手の演奏家のものすごい才能を目の当たりにして、ごく自然に「これからがたのしみだな」と思ったが、その “これから” は用意されるものではなく、守らなければならないものになった。わたしたちはできることをつねに考えて、“しないこと” を選択すべきときもある。
書きたいことは書けただろうか。よくわからなくなってしまった。うそがなければいいか。
このさきの世界にも音楽がありますように。
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