試着室と、恋と、忘れていたオシャレの本当の意味
久しぶりに小説を一気読みした。随分と前にベストセラーになった尾形真理子の 「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。」というもの。短編小説集なので、さらりと読める。30代を独身で、かつ、東京で、かつ一人暮らしで過ごしたことのある、もしくは今この瞬間過ごしている、ありとあらゆる女性(いや男性でもいい)にオススメしたい。
昔から読書感想文が苦手な私なので、今回も上手くこの気持ちを表現できるかは分からない。夏休みのコンクールに出しても、きっと音沙汰なしの作品になると思う。それでも書きたいと思う。記録に残したいと思う。そんな一冊だった。
Amazonの商品説明によると、この本の内容は以下の通りだった。
この文章からは、なんだか派手なガチャガチャした物語のように読み取れてしまうかもしれない。けれど、実際は全然ちがった。少なくとも私は「恋をしている人間」の柔らかな感性に触れた、そんな読後感。
登場する主人公たちは全員「女性」で、確かに彼女らがセレクトショップで試着する洋服はスカートやドレスといった、いわゆる「女性らしさ」の象徴なのだけど、物語の本質はそこ以外にもあるように思えた。
もうこの歳になってくると(パーソナルカラー診断もしたし)どんな色のどんな形のどのくらいのサイズ感の服が似合うかは、大体想像がつく。買うブランドも、ある程度は定着してくる。なので、試着するとしても『念の為』着る程度だ。ユニクロで。
いざ着た時の「ん。オッケー。想像通り、これでよし」というアレは、もはや確認作業でしかない。でも今後はその感覚に『ちょっと待った』をかけたいと思う。
何故そのオシャレをしたいのか?いちいち深く考える時間もなければ必要もないけど、その服の決め手の背景にはどんな感情があるのか、ちょっとだけ考えてみたい。「自分をよく魅せたい」という感情があったとして、それを深ぼったら、そこには何があるのだろうか。
街ですれ違う誰かに振り向いてもらうためのオシャレなのか、特定の誰かに振り向いてもらうためのオシャレなのか、自分を前に向かせるためのオシャレなのか。
その服を着ていて居心地が良かったり気分が上がったりすることが、ニアリーイコール「似合うこと」だと感じる。恋も同じ。一緒に居て居心地が良くて気分が向上すること、すなわち自分にフィットしている状態。周りからどう見られるかはさておき、当人のスウィートスポットを押さえていることが、オシャレでも恋でも大事なのでしょう。これは男も女も関係ない。
その意味で、この本のタイトルは秀逸だと感じる。作者は博報堂のコピーライター出身で、資生堂やLUMINEの広告などでも有名な女性。発刊されたとき(2010年)は、おそらく「恋する女の気持ちを押さえた、それっぽい小説なんだろうな」といった感じだったんじゃないかな。でも、タイトルに「女」というワードが入っていないのは、あえてだったのかもしれない、と十数年後の読者である私は思う。
このタイトルからは「オシャレに悩む乙女感」が香る一方で、「女」というワードは避けて「恋」と表現することで、物語の本質も匂う。
女性の方が試着しがち〜とか、試着に時間がかかりがち〜とか、デート前夜に悩みがち〜とか、そういった安い偏見に絡めて、キャッチーに仕上がったこのタイトルは、実に戦略的だ。本当にLUMINEの広告感覚で目に入り、手に取ってしまう。そして読んでみて気づく。これは女性だけの話ではなく、東京の30代前半の大人という舞台をもとに、恋の本質を捉えた物語だということに。だからタイトルに「女」はいないのだと。
私の深読みはこのくらいにしておいて。兎にも角にも、冒頭申し上げた条件に当てはまる人類がいれば是非読んでもらいたい。自分の中にある恋に気づくために、お洋服を試着しに行きたくなります!
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