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花が朽ちるよりはやく

6月のある日、子ども達は朝寝坊で、ご飯や支度を急かしながらなんとか家を出て、遅刻ギリギリの時間を早足で小学校へ見送る途中、ふと道端に茶色い塊がバタバタと動いているのに気がついた。

焦点が合うと、それはスズメで、車か自転車に撥ねられたのか、飛び立てずにカバンの中で変形したおにぎりのように、スズメらしい丸みが潰れた妙な形をしてもがいていた。

普通の状態じゃないことは一目でわかり、私は一瞬戸惑ったのだけど、娘は迷いなくさっとしゃがんでひしゃげたスズメを両手に包み込むように持ち上げ、私を真っ直ぐ見て「ママ、ぜったいにこの子を助けて。おうちに連れてって、水も飲ませてあげて」と言った。

娘は、子煩悩な父親が本人が主張する前になんでも察してやってあげてしまうものだから、普段はこんなに明確な指示的な話し方はしないのだけど、この時はそんなのんびりと甘えたいつもの顔はどこかに消えて、切羽詰まった真剣な顔をしていた。「わかった、大丈夫だから、ふたりは気をつけて学校行ってきてね」と最低限のことだけ伝えて、スズメをそっと娘の手から受け取ると、私は踵を返して家に急いだ。

いつも騒がしい息子もこの時ばかりは姉の行動や表情に圧倒されたのか、珍しく「俺にも触らせろ」とか、普段なら絶対言いそうなことを言わずに大人しく姉に従って、そのまま学校へと歩いて行った。

そもそも遅刻し気味で私がリモートワークを始める時間も差し迫っていたのだけれど、手のひらの中のスズメは暖かく、ドクドクと鼓動も感じられ、小さな命を託された緊張感に、私も興奮していた。

スズメは怪我をしているはずだけど、血が出たり肉が露出したりの外傷はなく、ただ片方の脚とその付け根の胴体部分が潰れたようにくっついてしまっていた。


怪我で立ち上がれないから、身体を預けるように手のひらに乗っていた


手に包まれるのは不快ではないようで、大人しくしてくれていたのでそのままそっと玄関から家に入ると、やはり人工的な建物の中はスズメにとって異世界で怖かったのだろう、顔をあげてキョロキョロしはじめて、申し訳ない気持ちになった。

スズメの言葉は話せないけれど、ここは大丈夫だよ、治ったらまた外に戻ろうね、と声を掛けながら、そっと左手に持ち替えて、右手でスマホをみながらスズメを保護した場合の対処や食べるものなどを慌てて調べて、生米やくるみを用意した。
このままずっと手に持っているのも難しいと思って、娘が図工で作ってきたダンボールの小さな書棚を拝借し、きっとこの子のために使うなら後で納得してくれるだろうと思って棚を倒して下に柔らかい布を敷いて、スズメをそっと降ろして生米や胡桃を砕いて一緒にいれてあげた。

バタバタと急場の居場所を確保している時、開け放っていた窓の外から別のスズメの鳴く声がチュンチュンと近くで聞こえた時、明らかにスズメが反応して、顔を上げてキョロキョロしたり、飛べない羽をバタつかせたりする姿がなんとも切なかった。

もしかしたら仲間なのか、家族なのか、自分が連れてこられた謎の空間への不安や恐怖から、同族の声のする方を求める本能が働いているのかもしれない。

ネットで調べたり、鳥専門の病院に電話したりして、リモートワークの始業時間は過ぎていたけど今日は仕方ない遅刻しようと思ってなんとか助かる方法を探したところ、野生動物を保護する施設に問い合わせ窓口があり、そこで紹介されていたフローチャートに沿って、巣立ち雛でもないことを確認して、電話をかけてみた。

電話で状況を伝えている途中、スズメがひっくり返ったような格好になり、あれ?と思って通話しながら見ていると、さっきまでバタバタともがいたり、フンまでしたりと内臓も動いていると少し安心したのに、急に静かになって、目を瞑り脱力して明らかに様子が変わってしまった。

私は電話口で、週末に保護センターに運び込むための受付時間などを相談していたところを区切って、「すみません、今、死んじゃったみたいです」と伝えた。

電話口の人は慣れているのか、そうでしたか、それでは。みたいな、スズメの方に気を取られてあまり覚えていないけどわりとさらっと電話は終わった。

さっきまで温もりも鼓動も感じられたのに、なんて儚い命なんだ、という気持ちと、あのとき道で拾わずに、拾った娘の気持ちだけ受けとめて、冷静に伝えてあそこで死なせてあげたほうが、仲間や家族に会えてスズメにとって良かったかも、自然だったかもしれない、段ボールに降ろさずに、ずっと手のひらで安心させていたら、不安でバタバタして消耗しないで済んだかもしれない、、、いろんな思いが押し寄せて、ほんとにごめん、、と、しばらくそこで動けなかった。

その日はたまたま小学校の引き取り訓練だったので、少し早い時間に教室に娘、息子と順にお迎えに行ったのだけど、娘は開口一番スズメがどうなかったかを聞いてきて、私は「ごめんね、助けたかったんだけど、死んじゃったの。」と話した。娘は黙って悲しそうな顔をしたけど、もしかしたらあの後、半分は想像していたのかもしれない。そんなにひどく落ち込むほどではなく、そのまま息子も引き取って、息子を学童へ送り届け、娘と帰宅した。

一口も食べられなかった胡桃の欠片もそのままの状態

帰宅して、ひっくり返った姿勢に布をかけてあげたスズメの姿と対面すると、娘はじっと見入っていた。
私は、ありのままを伝えようと思って、外から他のスズメの声が聞こえた時に、すごく気になってキョロキョロしていた様子と、スズメは最後家族や仲間に会いたかったかもしれないと話すと、大粒の涙を流した。

かわいい生き物が大好きで、助けたかった気持ちと、自分自身が甘えん坊でスキンシップ大好きな娘だからこそ、とても可哀想なことをしてしまったと思ったのかもしれない。何も言わずにしばらくぽたぽたと涙を流していたから、私はそっと背中をさすってあげることしかできなかった。

少し落ち着いてから、今度もし、怪我をした野生動物がいたら、その時は安全そうな道の脇に移動させてげて、おうちには持ち帰らないようにしようかね、と話したら、そうだね、と頷いた。もしかしたら、怪我の程度が酷くなければ助けられたかもしれないし、何が良くて悪かったか、咄嗟の判断はとても難しいけれど、彼らには彼らの住む世界、仲間やら家族がいることを実感できたのは、きっと悪くないことだと思う。

そして、時間差で、夕方学童から帰宅した息子も同じように動かなくなったスズメを見て、普段はとにかく声が大きくて騒がしいのに、小さな声で「かわいそうだね。さわってみてもいい?」と聞くので、手を洗うなら少し触ってみてもいいよ、と伝えて、そっと触れて「冷たいね」と言った。

そして息子はじっとスズメを見ながら「でもさ、ママ、病院に連れて行ってあげようよ。また治って生き返るかもしれないよ」と言ってきた。そっか。まだ生死について、小学校一年生になったばかりの息子はよくわかってないんだなと思った。「スズメは死んじゃったらもう生き返らないんだよ。生き物はみんな、死んだら戻らないの」そう話すと、息子は「わからないよ、また明日になったら元気になってるかもしれない」と言ったものの、目に涙をためていた。

私には、娘の、全部理解したことによる悲しみも重かったけれど、息子の、まだ生死の概念が曖昧なことによる、叶えられない一縷の希望もまた、重かった。



次の朝、これは息子にとっての学びの時間になると思って、スズメはそのままにして夜は寝て、朝起きてほら、見てごらん?と何も変わらず冷たいままのスズメを見せてあげて、息子は「ほんとだ、、」としばらく覗き込んでいた。

小さなスズメとのほんのひとときの時間だったけれど、命は重くて、命は儚いということが、痛いほどに感じられる出来事だった。

ふと、富山の里山で暮らす友人が、轢かれた動物は、埋めなくても道路脇の土の上に置いておけばいいって最近知ったんだ。と話していたのを思い出した。

土に埋めても分解されて自然に還りはするけど、土の上に置いておけば、別の野生動物が見つけて食べるから、それはそのまま次の命に繋がるんだって。と。

そんな話を聞いた時は、なるほどね、と思いつつ、まさか自分がそれをすぐに思い起こす状況がくるとは想像していなかったけど、せめて亡骸は、スズメにとって自然に亡くなった時のように、土の上に寝かせてあげようと子ども達とも話して、庭の土の上に置いて、周りに庭の花を供え、一緒に手を合わせてお祈りした。

子ども達が、庭のお花を銘々摘んできてくれた。

ーーー

私は、スズメの亡骸は、周りにお供えしたお花が朽ちるように、少しずつゆっくり朽ちてゆくだろう、もしくは、何かしらの肉食の野生動物に見つかって、丸ごと連れ去られていくだろうと思っていたのだけど、その予想はどちらも外れた。

次の日、スズメの亡骸には大量のダンゴムシが群がって、スズメの薄っすらと開いていた目を入り口に、中へ中へと肉を喰い進んで行っていた。
羽や硬い嘴は歯が立たないようで、目から入るのが衝撃だった。あとは、おそらく怪我しているほうの脚にも群がっていた。


目に集まるダンゴムシ

かなりグロテスクではあったけど、子ども達は恐れることなく様子を観察していた。こうやって、他の生き物の命になる瞬間が、目の前で繰り広げられることは、驚きでもあり、自然界では当たり前の光景でもあるのだろう。

その後もダンゴムシの勢いは止まることなく、スズメはどんどん食べられていった。置いてから3日目あたりに、死臭というのか、腐った臭いが漂ったけど、長くは続かずスズメの身体が失われていくのと並行して、臭いも消えていった。途中一日だけ雨の日があり、その日はあまり観察できなかったけれど、1週間でスズメはすっかり小さな骨だけになった。

ダンゴムシによってなのか、風によってなのか、元あった位置から少しズレたところに羽や骨が取り残された。

怪我したスズメを拾ってから死んでしまうまでもあっという間だったし、亡骸が骨になるのもあっという間だった。
自然は、人間の感情の消化スピードなんかに合わせてはくれないのだ。

だからこそ、人は、人の消化のスピードに合わせるために、お葬式をしたり、埋葬したり、ふりかえったり、するのかもしれない。

土の上に置いて、スズメが次の命の糧になるさまをありありと目の当たりにして、その正しさを理解しながらも、自分の中の人間のエゴとしては、やっぱり埋葬したかったようにも感じて、私は人間という変な生き物なんだと思った。


連れて帰る途中、暖かくて、生きていた。



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