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積み重なる日常

去年、引っ越しをしたのだが、実に快適である。
特別に快適さを感じさせてくれるのは、日常で使う道の様子だ。
以前の家までの道が格別に悪かったわけではない。清潔で明るくて安全で広い道だったし、バス停までも近かったけれど、だからと言って車の音がうるさいような場所でもないという、恵まれた立地にあった。
しかし、何がそう感じさせていたのか分からないのだが、とにかく道が重たかったのだ。
急な坂道がそう感じさせるのだろうと引っ越すまで思っていた。
家にたどり着くラストスパートというところで登場する、雪が降ったら滑って登れないのではないかという坂は、暑い夏や重い荷物を引きずっているときは本当にゲンナリするような道だった。

しかし新しく引っ越した先では、駅と家の間になんとそれ以上の坂が登場する。
その坂を登りながら私は毎回「心臓破りの坂」と思っているし、本当に傾斜がキツく、道が凍ったら絶対に通ってはいけない道なのは間違いないし、雨が降っても靴によっては滑るんじゃないかという傾斜もところどころ存在している。
コンクリートで舗装はされているし、トラックも通れるような広さもあるようなところなのだが、もはやそこは日常の帰り道というより、登山道の如くである。

にもかかわらず、道が重くないのだ。
以前の家への帰路の方が、坂の傾斜も緩やかで坂を登る距離も圧倒的に短かった。
しかし以前の坂の方が、歩いているとずんずんと身体中に何かがのし掛かって来るような重苦しさを感じていたのだ。

今は「それにしても今日もひどい坂だな」と思いながら登っているものの、不思議と軽やかさも同時に感じている。

この違いはなんだろうか。

考えられる原因は一つ。眺望が良いこと。
坂の途中から街全体と海や山が見渡せる。
さっきまで買い物をしていたスーパーも遠くに小さく見え、結構歩いてきたもんだなと、毎度のことながら思う。
コンクリート舗装の道が終わると、やや平坦な山道に入る。
鳥が鳴き、リスが走る様子がすぐ近くに見える。

駅前のスーパーに行って図書館に行って帰ってくるだけなのに、それだけで歩数計が1万歩を超えるような距離を歩いているし、傾斜も凄まじい。にもかかわらず、以前とは全く違った心地よさがある。

森林浴とはよく言ったもので、期せずして人がハイキングに行きたくなるのも理解できるようになってしまった。
かといって休日にわざわざハイキングのために出かけるかといえば、多分私は出かけないし、観たい展示や誰かとの約束がないなら一日家の中に篭りたいと思ってしまうのだが。

ひらいめぐみさんのエッセイ『転職ばっかりうまくなる』(百万年書房)には仕事先の立地がいかに精神に影響を与えるかを考えさせる文章が度々登場する。
ひらいさんにとって、川が職場の近くにあることは好ましいことであり、オフィスに窓があること、ふと綺麗な夕焼けが目に止まることも、大切な何かを担っているようだった。仕事内容とは直接関係のないことに見えるが実は心を穏やかに整えてくれるものというのは、結果的に仕事の効率に影響を与える重要な要素なのではなかろうかと想像する。

主要な要件の隣にある、しかし確実に目に入るものというのは、意外と人に大きな影響を与え続けているのかもしれない。

そこを蔑ろにしていると、じわじわと何かが積もってきて、知らない間に真綿で首を絞められてパタリと倒れてしまうのだろう。そして知らぬ間に、ということがポイントで、結局は原因を究明できず、見当違いな原因を無理やり当てはめて、物事を解決した気になる。つまり、問題は取り除かれず、苦悩は繰り返されることになる。

何気なく目に止まるものこそ、よくよく慎重に対処すべきものということだろう。

毎日使う食器や服、玄関の佇まいから目覚めて最初に目に入る部屋の様子まで。
小さいことを蔑ろにすると、後からツケが回ってくるのだ。

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