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サリーナ・サッタポンさん@S.A.C. Gallery(第2回東京現代)

さて東京現代に行ってきたよの話の続き。

東京現代というアートフェアについてはこちら


バンコクから初出展のS.A.C.Galleryのブースで紹介されていたサリーナ・サッタポンさんの作品を見てきた。

前回の六本木の展示の時にはサリーナさんと会うことができていなかったので、今回初めて直接ご本人とお会いしてお話が伺えて、よかった。S.A.C.Galleryのギャラリストの皆さんともお会いできて良かった。


第2回東京現代のS.A.C.Galleryのブース。サリーナ・サッタポンさんの作品の紹介。


彼女の作品やコンセプトについては事前にネット上で英語、タイ語、日本語での記事をかき集めて読んで情報収集をしていたものの、彼女本人の口から作品についての話を聞きたかったので、あえて「あなたにとって見るとは何なのか」という質問をしてみた。もちろん期待を超えて彼女は自分の言葉できっちり作品の核となる「意識的に見るということ。見ようとして見るということ。」について彼女の言葉で説明してくれた。


サリーナ・サッタポン《Balen(ciaga) I belong》はグループ展示の別のブースにあった。かつて高級ブランドのバレンシアががこの作品に使われているチープで頑丈なタイのプラスチックバックを模した高級バックを発売したことから生まれたこの作品は、バレンシアガの鞄ではなくタイの日常的にあるバックが吊るされている。

彼女の代表作とも言える《Balen(ciaga) I belong》は、今回の所属ギャラリーのブース外でのグループ展示コーナーにあった。パフォーマンス上演とインスタレーション作品がセットになっているこの作品には、肉眼では真っ白に見えるモニターが設置されている。特殊フィルターを通して白いモニター画面を見ると、映像が見えるという仕掛けだ。ここで流れている映像は上演されたパフォーマンスであり、鑑賞者はパフォーマンスが終わった後でもその様子を別の形で鑑賞することができる。真っ白なモニターを見るために必要な道具は、初期型モデルとも言えるハガキサイズの特殊フィルターである。この小さなフィルターは手に持って画面に向けてかざせるようになっており、音は壁面に設置されたヘッドフォンで聴くようになっていた。


壁面に2020年のドローイングと、奥に映像が見られる場所がある。サリーナ・サッタポン


モニターは真っ白だがハガキサイズの特殊フィルターを目の前にかざすと映像が見える仕掛け。
サリーナ・サッタポン


彼女の作品に含まれる「見る」ということは”try to see”「意図して見ようとして見る。」ということだ。その重要な意味を、与えられた場所で柔軟に提示するために、彼女はこれまでもさまざまな工夫に挑戦してきた。
前回の六本木での展示では、まさかのギャラリーを出てドアの外から中を覗き込まないとモニターに画像が見えないという仕掛けになっていた。入り口のガラスドアに特殊フィルムが貼られていたのだ。

前回の展示についての記事はこちら


今回、東京現代のS.A.C.のブース内では細長く薄いモノリスのような板を数箇所に分けて画面の前に置いていた。音声はヘッドフォンで聴ける仕組みだ。
モニター6画面を壁に並べるようにして設置し、その手前にランダムに置かれた特殊フィルターが貼られた板は、わざとモニターの位置よりも低い高さと、横幅も人一人ギリギリ重なるかどうかという幅に作られている。鑑賞者がもし壁の6画面全てを同時に見たいと思ったら、特殊フィルターの前にギリギリまで近づいたりしゃがみ込んで覗き込むようにしたりと、ちょっと辛い体勢になって見ないといけない。つまりこの特殊フィルターの設置方法によって、彼女は今回のブースの形式で出来る”Try to see”「見ようとして見る」を成立させたのである。

彼女の過去の作品も含めて振り返ってみると、作品において身体表現が重要な位置を占めていることに気がついた。彼女自身がパフォーマーとして出演する映像作品があったり、他のパフォーマーたちと一緒に公共エリアで行うライブパフォーマンスがあったり。今回、東京現代の会場ブース内で特殊フィルターのサイズの意図を説明してくれた時も、彼女自身がしゃがみ込んで、覗き込むというアクションをしながら説明してくれた。それを見た時に「あ、そうか、彼女の作品というのは身体的な動きが内包されているんだ。」と私は感じた。


半透明のグレーの板に特殊フィルムが貼ってあり、これを通して白いモニターを見ると映像が見える仕掛け。かがみ込んだり、斜めから見たりしなければ、見えない絶妙な高さと幅担っている。
サリーナ・サッタポン@S.A.C.Galleryブース


《Balen(ciaga) I belong》のように、インスタレーションとしてパフォーマンスを行い、それを映像に記録し、後からインスタレーション作品の一部として見られるようにする工夫は、物理的な意味でも「パフォーマンスが内包されて」いる。作品の中でパフォーマンスが上演され、それらを映すモニターも作品の中に設置されているからだ。同時に、鑑賞者は白いモニターに映る映像を見るために、特殊フィルターを自分の手で持って目の前に掲げるというアクションが必要になる。作品を「意図的に見る、見ようとして見る」ためには、何らかのアクションが発生するのだ。もしかしたら彼女の“try to see”は眼球と脳の伝達による視覚の分野に限定された話ではなく、視覚プラス何らかのアクションがセットになって初めて成り立つものなのかもしれない。

例えば道で知らない人が転んでしまって困っていたとして、それを見ても何も行動しなければ”invisible”「見えない」ことと同じになる。”ignore”「無視する」という単語は、見えていて気がついていても意図的に無視するという少し意地悪な雰囲気を感じる言葉だと私は思うのだが、”invisible”「見えない」ことが社会の当たり前として認められてしまう世の中というのは、もしかしたら”ignore”「無視する」よりも深い根を持ち、怖いものかもしれない。

たとえ誰かへの意地悪がなかったとしても、人間は毎日目の前の全てを見ているようで何も見ていないとも言える。毎日通る道沿いで、ある日突然建物の解体工事が行われ更地になっていても、以前どんな建物がそこにあったのかなかなか思い出せないという経験はないだろうか。絶対にその道の様子は毎日見ていたはずなのに。あらゆることは意図的に見なければ、何も見えていないに等しいと言えるのかもしれない。

逆に何か自分にとって見たくない物がそこにあって、毎日無視しながらその物がある通りを歩いていたとする。そしてある日、気がついたら自分にとって見たくなかったものが綺麗さっぱり撤去されていたらどうだろう。行動としては”ignore”「無視する」だけれど、あまりの嫌悪感からそこに何があったのかは脳裏にしっかり焼き付いているかもしれない。つまりその人にとってその消え去ったものはignore”「無視する」ものだったけれど “invisible”「見えない」ものではなかったことになる。こうなってくると一周回って何気ない悪意のない行動の一つのように見せかけた”invisible”「見えない」ということが非常に深い危険因子を含むようにも思えてくる。そしておそらく”ignore”「無視する」ことを止めてきちんと見るためには、無視していたことを認め、見方を改めるだけで良いのだが、”invisible”「見えない」ようになってしまっているものを「見える」ようにする”visible”にするには、ちょっと強いきっかけや強制的なアクションが必要になる。

サリーナさんの作品に付随する、見る側に求められる見るためのアクションは、”invisible”「見えない」から”visible”「見える」に変化させるために発生する自然の摂理のようなものだろうか。

「見よう」とすれば、立ち止まるかもしれない。
「見よう」とすれば、振り返るかもしれない。
もしも視力が悪ければ、「見よう」として目を凝らし眼鏡をかけるかもしれない。
もしも果てしなく遠いなら、「見よう」として双眼鏡を使うかもしれない。
もしも小さすぎてしまうなら、「見よう」として虫眼や顕微鏡を使うかもしれない。

本気で「見よう」とするときに、何らかの行動が付いてくることは多々ある。
サリーナさん作品のブースでの展示では、多くの人が立ち止まり、左右に移動しながら、細くて短い特殊フィルムの前を行ったり来たりして、かがみ込んだり、斜めからのぞいたりしていた。

そもそも彼女のいう”try to see”「意図的に見ること。見ようとして見ること」がどこから出てきたかと言えば、タイ人社会にある身分階級の違いである。タイは階級社会が今でも人々の中に根付いており、生まれによってはどうしても就職できる仕事の種類が限定されるということもあるのだとか。仮にタイに生まれたとしても幼い頃にその社会の仕組みに気がついた時、何かしらの衝撃を受けるのではないだろうか。なぜなら、眼球の能力としては見えている人々のことを身分の違いという理由で見えていないことにするからである。しかし彼女は身分の差別を撤廃しようとスローガンを掲げて活動するアーティストではないし、社会活動家でもない。きっかけは自身が少数民族出身であることやタイの社会における身分の違いの扱いについて考えることから始まり、今は「見る」という行動についてや、社会の価値から生まれる「見えること」について、社会や外的要因にって「見せられている」ことについて、また自分と誰かの関係性によって変わる「見えている世界」についてなど、「見る」ことを追求している。

六本木の展示でも紹介されていた最新作は、彼女が日本という異国に暮らし始めて感じる感覚やそこで出会った人、そして彼女のタイにいる親戚との関係の話から生まれている。彼女は人と人との距離や関係性を「見る」という作用を通じて考え、自分にとって「見る」とは何かを考え続けている。彼女にとっての「見る」ことは、人と関わることに繋がっているのだろう。

来年博士号を取得し大学院を出る予定のサリーナさん。いつかタイでも日本でも、大きな展示をする日が来るのが楽しみだ。


サリーナ・サッタポン 2020年のドローイングも可愛かった。カバンをかぶって足が生えているのはパフォーマンスの時にパフォーマーたちがカバンの中に入って演技をすることに関連している。
作品には大量のカバンが使われるので、ドローイングにもその様子が見える。パイプの足場にカバンを吊るしたりひっかけたり、そこから取り外してパフォーマンスするので中央上の作品もそれにつながる。

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