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捨てられなかったもの

断捨離の波が再び訪れている。

今の家に引っ越してくる前に、かなり大掛かりな断捨離を敢行し、もう流石に捨てるものは、日常で発生するゴミになってしまうものぐらいな物だろうと思っていた。

しかし、ここ最近、なんだか部屋がごちゃっとしている気がしてならないのである。
どうにも、部屋が汚いという思いが脳を占領して、居ても立っても居られない。
しかし、断捨離できそうなものが、パッと思いつかないのだ。

「なんか部屋が汚い」

というキーワードでGoogle検索をしてみたり(そんな投げ方をされてGoogleもさぞ迷惑かろうと思うのだが、ちゃんとどうにかそれらしいものを答えてくれるので、素晴らしい)

その中にあったいくつかを手当たり次第に試してみた。

キッチンのシンクをピカピカに磨く、というアイディアが見つかったので、以来、狂ったように毎日ピッカピカにしている。もちろん水滴も拭き取ってピッカピカにした数秒後には何の躊躇もなく夫がドカンとグラスをシンクの中に入れてくださってもちろんそのグラスは洗わないまま放置して去られるのだが、そこもすかさず洗う。磨く。ピカ。
数分後にまた何か投げ込まれる。私はすかさず洗う。磨く。ピカ。
これを繰り返している。

ある日の夕方、あまりにも疲れ果ててリビングで行き倒れていた私が、夕焼けと共に目覚め、夫につい放ってしまった一言は「ああ、今日も家が汚いまま1日が終わった・・・」であった。

その日の夜、夫は自分が使ったコップを洗ってくれていた。
助かった。その心を永遠に継続して欲しい。

次。
コンロの周りにつけていた銀色の油避けガードを交換した。ちょっと汚くなってきたなと思っていたまま、もうちょっとしたら交換しよう、しようと思って後回しになっていたのだ。
100円ショップで買える200円商品のコンロガード。
換気扇カバーは1ヶ月から2ヶ月に1度は交換しているのだが、コンロガードも汚れたらこまめに替えよう。かなりスッキリした。

次。
夫のギョサンをブラシとクレンザーでこすり洗いして、そこそこ綺麗にした。
ギョサンは漁師も水場で滑らないというサンダルで、夫が常に愛用しているのだが、足の裏の部分(靴底ではなく足と接する方)が微妙な粒々になっていて、その隙間が汚れてくるのである。
これは、そこそこにしか綺麗にならなかったので、次回新たなる対策を立てようと思う。
しかし前よりは多少スッキリした。玄関にギョサンが脱ぎっぱなしの出しっぱなしになっていたとしても、まあまあスッキリした。

次。
困った、もう無いよ。
トイレ掃除は毎日しているし、お風呂掃除も湯船の水を抜きながら毎回しているし
あ、窓拭きか、それは涼しくなってからやらないと無理なので、一旦ミナカッタコトニスルヨー(棒読み)。

そんなわけで、家中から捨て去れるものは無いのかと血眼になって探しに探し、
リビングの電気の傘も除菌アルコールでピカピカにし、
鏡もペカペカにし、
思い切って小さな小物をさよならすることにしたり、
掘り起こしてそろそろ捨てられるかもしれないという紙の物を数点シュレッダーにかけて処分したりもした。

そして、私は、生前の祖父からもらった、手紙、数点を手にした。

もういいかなと思い、99%、処分しようと決めていた。
最後にもう一度だけ見ようと思って、開いた。

祖父は最後は膵臓癌で亡くなった。
90歳だった。
癌だと分かったのが亡くなる年のお正月明け。
亡くなったのは6月の初めだった。

祖父は長い間、ずっと私に月に一度、月末に手紙を出してくれていた。
そんなに長い文章ではないのだが、近況が綴られ、私を気遣ってくれていた。

今私の手元に残してあるのは、祖父が癌が発覚した1月から亡くなる直前の5月末に出してくれた手紙までの5通だ。

それ以外はかなり前に処分してある。

その死に向かう祖父からの5通を開いて、私は号泣した。
自分の反応が、意外だった。

祖父は自分に残された時間を知ってから、できる限りの準備をして、亡くなった。
長年気になっていたと言う古くなった墓石をピカピカに新調した。
自分の葬儀の手配を進め、葬儀屋さんと打ち合わせを重ねた。
葬儀場で振る舞われる会食のメニューからその席順まで全て自分で決めた。
葬儀費用も支払い済みだった。
祖父は田舎の小さな町で教育長を務め、助役を務め、定年退職後も町のとある会社の役員のようなことを続けていた。小さな小さな町のこと、祖父を知らない人はほとんどいなかったと言っても過言ではないだろう。生まれてから死ぬまで、彼が先祖から相続したその家を出ることはなかった。その町で生まれ、町のために働き、町で亡くなり、歩いて行ける距離にある墓に入った。

私にとって祖父の死は、私に最も「死に方」について考えさせた。
以来、夫との会話でも、どのように死ぬのがいいのか、話すことがある。

私は祖父とは生きる時代も違うし、仕事も違う、場所も違う。
だから祖父と同じように死んでいくのは不可能だろう。
それでも私にとって、一つのお手本のような死に様というのが祖父だった。

私にとって祖父からの最後の5通は、まだ消化できていないものだった。
手紙を前にわーわーと泣いて、なかなか泣き止められない座り込んだ私のところに、犬が心配して寄ってきた。
犬は慰めるわけではなく、ただお尻を私の足にくっつけて、背を向けて私に寄り添った。
多分、犬は、私なんかよりも何倍も、色々なことを悟っていて、知っているのだ。
今、慰めることが違うということも、それを理解するのは私自身がやらなければならないことなのだということも、多分犬は全て知っている。知っていて、それでもまあ、仕方のないお姉ちゃんだなとお尻を寄せてきてくれたのだ。

私はシュレッダーを片づけ、祖父の手紙をさらに大きめの封筒にまとめて、綺麗な箱の底に入れた。

あらゆるものを捨てられると思っていた。
思い出はちゃんと心の中にあるし、ものは消えたら多少の残念さは無いわけではないが、思い出は消えないし、むしろその思い出が濃くなることも経験してきた。

それでも、今の私には祖父からの最後の5通は捨てられないのだなと、わかった。

いつか、本当に捨てても大丈夫だと思える時がくるかもしれないが、
そのためにはおそらく、もっともっと、自分自身がどう生きて、どう死んでいくのかを、深く考え尽くさなければいけないような気がする。

子供のように泣き散らしている間、祖父の意識がそばに来たような気がした。
90歳の生き様のベテランからしたら、43歳の小娘なんぞに、死に様を習得して理解しつくされ消化されるなんぞ、何十年も早いぞというところだろうか。

祖父の答えは私の答えにはならない。
だから私は、私の力で自分だけの答えを見つけなければならない。

さて、泣き腫らして、
それでもやっぱり「なんか部屋が汚い」と感じているのは変わっていないので、
ちまちまと、手放せそうなものを探している今日この頃である。


最後に。食料品の瓶って無料回収でリサイクル収集されるのに、どうして瓶の蓋は有料金属回収なの。
せめて有料でもいいから同じ日に回収して。
今ゴミ箱に瓶の蓋だけ溜まってます。おしまい。


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