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直感らしきものとの付き合い方

「私は全てと隔たっている。
 同時に私は全てそのものである。」

ある日突然、この言葉が何処かからやってきて
はっきりと心の中にコトリと落ちた。

未だ自分の頭の中に来た言葉でありながらも
この2文の明確な意味を掴み切れないでいる。

意味が曖昧なままでありながらも
確信を持った言葉やイメージが
時々心の中に突然やってくることがあって
それは経験上、重要な何かであることが多い。
そして随分時間が経過してから
はっきりと、それが何だったかの
答え合わせがやってくる。

「私は全てと隔たっている。
 同時に私は全てそのものである。」

この一見矛盾しているようで強い文言が
どういうことなのか
なぜ今私の心に届いたのか
ゆっくり観察しながら考えたい。

ずっと忘れていたし、
もうぼんやりとした記憶しかないのだけれど
多分私は小さい頃からこうやって
いろんなことが心というか頭というか私自身に届いて、
それを素直に楽しんでいた時があったはずだった。

それがどういうわけか
大人になるまで封印されていて
そしてまたどういうわけか
時々投げかけられる様々なキッカケがやってきて
今徐々に思い出されつつある。

この感覚を思い出し始めた頃は
私は私に対して疑いの塊だった。
そんなはずはない、
きっと気のせいだろう、
激しい思い込みに違いない。

しかし少しずつ
心に届いたものと現実の世界を照らし合わせながら
トライアンドエラーで実験していくうちに
届いたものの見方も少しずつ思い出し、
最初は曖昧な映像のようなものしか届かなかったのが、
はっきりとした何かが届くようになってきた。

こうなると便利なようにも思えるが
弊害もあった。
私利私欲にまみれたものや
搾取の想いがあるものが
ぐいぐいと人から伝わってくるようになってしまい、
それはメールなどの電子的なものでも感じるようになってしまった。
そういう場合は距離を置けばいいだけなのだけれど、
実は結構心理的にダメージを受けていたりもする。
最初の頃はそれらのダメージに対して自分の心を守る方法も分からず、
自分をしっかり保つこともままならなくて
寝込んでしまうこともあった。

相手は言葉や態度としては何も悪いことは言っていないのに
相手そのものが持つ本心というか念というかオーラというか
なんと表現していいか分からないのだけれど
その人から出てくる圧倒的に強い風に
打ちのめされてしまっていたのだ。

人と接するのが辛くなったし
面倒にもなったし、
メールや電話が来るのが怖くて
スマホの電源を切ってしまう日もあった。

真実が見えたらいいなと思うこともあったが
見えない方が安穏としていられるのだと
理解もできた。

その上で、「さあ、これからどうしますか?」
と問われているのだなとも思った。

総合的に考えれば、
やっぱり全てのことは順番に
そして最適なタイミングで
発生している。

今のような、感じたり見たりすることが
もっと早くからあったらよかったのに
と思うこともあったが
もっと早くから起きてしまったら
私はバラバラに崩壊していただろう。

私である「全て」は
私の準備ができるのを
気長に待っていてくれたし、
次に今は、私が決めるのを
待っていてくれる。

「全て」は決めてはくれないから
そこは私が決めるしかない。

あとは決めるだだから
好きに決めたらいいよ
と言われているのだけれど
どうしたものかしら。

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