八百万の神々が好き
今更自覚したのだが、私は日本の神様が好きだ。小さい頃からとても身近に感じていた日本の神様たちは、あまりにも身近すぎて、大好きなんだなあと自覚するまでに44年もかかってしまった。家の行事としては仏教に関連することが多かったように思うし、大人になってからもお寺にいく機会もあったし、それなりに厳かな気持ちで仏像に手を合わせたりもしてきたのだが、今思えば圧倒的に八百万の神々との方が心理的距離が近かったのだ。
最も大きな原因の一つは、小さい頃に龍神様の社に頻繁に参拝に連れて行ってもらっていたことだった。祖父母の家から歩いていける距離にある龍神様の小さな社は、ドア付きの小屋のようになっていて、中に靴を脱いで上がって参拝することができた。大きな社ではなく、近くに住む町の人たちが昔から大切にしてきた地元の社であり、派手さはなく、けれどもみんなに愛されてきた温もりのある神社だった。
ある時、祖母に連れられて社の中に正座をして参拝していた時、誰かが近づいてきた足音をはっきりと聞いた。私も祖母も二人とも聞いていたので空耳ではない。草に囲まれたその社に、誰か次の参拝の人が来たのだろうと思った私たちは、そろそろ順番を譲ってお暇しましょうかと、入り口の扉を開けた。すると、誰もいない。そして足音がした方向が、そういえば社の裏手あたりから聞こえたことを私は思い出した。そこは断崖絶壁で人間が歩いてこられるような場所ではなかった。動物の足音と聞き間違えたのかとも考えたが、確かに人間の重量感のある二足歩行でガサ、ガサと草を踏み分けてくる音だった。祖母と私は「龍神さんが来たんだね」と言いながら帰宅した。
そういった不思議なことは小さい頃には身近にあり、私の周りの大人たちもそれをナチュラルに「なになにの神様だね」と日常会話のように受け流すように喋るような人たちだった。その影響があってか、今思えば私は小さい頃から、何かが自分の近くにいても気に留めなくなっていたように思うし、目には見えないものの中に何かがいても特別奇妙には感じていなかったように思う。山に遊びにいくときには山神様に入りますと手を合わせて挨拶してから入るというのが普通のことだと思っていたし、川の神様も滝の神様も、身近な全てのところに大切な何かがいると思っていた。
そういうことにちゃんと気がついたのは、大人になってからだった。大人になるにつれて、よくある話ではあるのだが、周りにいた目に見えない何かを感じる機会がどんどん減っていき、私はそれを感じることを忘れて、日々の新しいことに奔走していた。
ここ最近の1年くらいで、やっとその感覚を私は取り戻しつつある。随分と遠回りしてきたように思うのだが、その間も私たちの周りには見えない何かはちゃんと居て、ただ私があまりにも違うことに向かいすぎて、八百万の神々のいる何かと焦点が合わなくなっていただけだった。
私が思っている八百万の神々は、人の想いとは全く違う場所にいて、ただそこに在るということをナチュラルにやっている物物だ。だから願いを叶えてくれるかと言われると、ちょっと難しい。人の想念とは違う世界にいて、時々は人に関わることもあるにはあるのだが、それは面白いからとか楽しいからであって、人に崇められているからということではない。「じゃあ初詣で必死にお願いしてたのに、あれはなんだったのよ」と思うかもしれないが、お願いされた側からしたら逆に「なんだったのよ」である。「そういうことじゃないんだけどなあ」と思いながらも神社にたくさん人が来てくれるからまあいいかな、くらいのテンションを感じることが多い。もちろん神社によっては色々だと思うので、人の想念を請け負ってくれる何かがいるかもしれないので一概にはなんともいえないし、そもそも誰かに頼み事をするときに初めましてで行っていきなり「これしてほしい」「お金ちょうだい」「宝くじ当てて」とは言わないだろうに、神様にはそんな態度で何かをお願いしても平気と思ってしまうあたりで、「なんだかなあ」と思われても仕方がない。
近所のおじいちゃん、おばあちゃんとの関係をイメージするのが少し近いかもしれない。例えば縁側でのんびりしているおじいちゃんがいたとする。その家の前を通るとき、毎回挨拶を交わす。たまに町内会の用事ておじいちゃんの家に立ち寄ることもある。そんな時はちょっと座っていつもより長く話したりもする。「また来てね」「また来るね」そんな別れ際の挨拶をして立ち去る。神社参拝はちょっとそれに近い。
都心の駅の中で電車に乗るまでにたくさんの人とすれ違うが、どんな人がいたのか全ての人を記憶に留めているわけではない。むしろ9割は記憶に残らないだろう。それと同じように、あらゆるところに神々がいるのだが、人間の日常の意識の中にはっきりと入り込んでくるケースは少ない。けれど意識的に「今日は駅にいる人を観察してみよう」と思って改札を潜れば、結果は変わってくる。色々な人に意識が向き、服装や表情が記憶に残る。周りにいる八百万の神々も、焦点を定めて意識的に探さなければ、素通りしてしまうことも多い。
とはいえ私も、はっきりと何かの形があるものとして神々を人間の眼球で視認できるわけではない。ただ、「あ、ここにいるね」とわかる、くらいのレベルだ。その感覚は、空き家か、人が住んでいる家かの違いを外から見て感じられるかどうか、に似ている部分がある。
実は以前、家を売ったことがあった。不動産屋さんに買い取ってもらったので、それは鍵の引渡し日に即日空き家になった。所有権が不動産屋さんになった翌日、なんとはなしにその家の前まで行ってみた。外壁も表札すらもパッと見には全く何も変わっていないように見えるその家は、明らかに「空き家」になっていた。人にまつわる何かが明らかに消えていたのだ。私も、夫も、夫の弟もその場にいたのだが、全員がそれをはっきりと感じていた。ああ、空き家になったんだと。あの違いを言葉で説明するのはなかなか難しい。心の感覚として感じられる、人の気配の消失とでも言えばいいのだろうか。本当に不思議だった。
地域の人たちに愛されている神社は、「空き家」になることがない。そこには確実に気配がちゃんとある。神社だけではなく、何もない空き地や森のような場所も、「空き家」ではない何かがある気配がちゃんとある。もっと早くこの感覚を取り戻せていたら、生きている中でもっとたくさんのことに感謝をしながら過ごせてきたのかもしれないが、44年目に再認識することに意味があるのかもしれないから、これからは「いるなあ」とナチュラルに感じながら過ごそうと思う。
そんなわけで今更ながら伝統的な神様たちについて学び直そうと思い、2冊を同時に読み始めた。わかりやすくて楽しい。
予備知識が全くない方は
『宇宙一やさしい!日本の神様図鑑』
をまず初めに読んで、その後『日本の神様解剖図鑑』でより詳しくみていくとよりスムーズに理解していけるかもしれない。
最近は神社もウェブサイトが充実しているところが増えてきたので、お正月に参拝した神社は誰が祀られていたのかしらと調べてみても面白い。
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