モヤモヤの正体
ここ2年くらい、自分の中から湧き出てきた気持ちの根拠が分からなくてモヤモヤしていた。
それでも確実に自分自身の正直な気持ちであり、私はそれに従って行動するしかなくなっていた。若い頃は多少、この心の声を無視してもなんとかなることも多かったし、体力的にも無理ができた。徹夜で勉強してもどうにかこうにか乗り切れていたし、食生活がめちゃくちゃでも病気になることも起き上がれなくなることもなかった。
私の心の奥から出てきた声は「何かを変えなくては行けない。今がそのタイムリミットだよ。」と言っていた。けれどもう一方の思考優先の私が「一体何が不満なの。何も問題はないじゃない。変えなくていいんだよ。」と言っていた。私はこの2年間、その間で揺れ動きながら、後悔しそうになる時はいつもあの強い心の声が聞こえてしまったことを思い出し「大丈夫、大丈夫。」と自分を勇気づけ続けてきた。
実は最近読んでいる2冊の本のおかげで、そのモヤモヤの正体が少しずつ明らかになりつつある。
私は一体何に対して不満を持っていたのか。何を変えなければいけないと感じていたのか。
それらをようやく具体的に見つけることができるようになってきた。
見つける、と言うよりも、目を背けてきた部分にしっかり向き合う、と言う表現の方が近いかもしれない。
最も大きなテーマは、お金のために我慢してきたことについてだった。
その我慢は本当にそのままでいいのだろうか。お金をいただくのだから全てが気にいるようにするなんて不可能だろうという強い思い込みがあったことに、最近気付かされた。果たして本当にそうだろうか。その我慢を改善するための努力を、私は全力でしたよと言えるだろうか。
何かやりたいことがあって、でもうまくいかない現実がある時、いい訳ばかりをしていたのではないだろうか。
だって社会がそうだから。
一般的にそういうものだから。
私は都度感じた違和感を周りのせいにして、不満をやり過ごし、モヤモヤしたまま見て見ぬふりをして過ごしていたのではないだろうか。通帳に振り込まれるギャラでそのモヤモヤが消えたと錯覚していたのではないだろうか。
資本主義経済社会を生きていくためには、もちろんお金も大切だ。それでもやはり、自分の中でお金のためにどこまでできるのか、しっかりした基準が必要なのかもしれない。
私は社会に流されて、お金を必要とし、一つ一つの不満が小さいが故に蓄積したことを見落とし続けて、長い年月をかけてフェルトになってしまった降り積もる埃にように、何かが堆積してしまっていたのかもしれない。
お金のために本心とは違う行動をせざるを得なかった過去の私を振り返って、今、私は私に質問する。「本当はどうだったらハッピーだったの?」
私は多分、心の底から素敵だなと思うこと、美しいなと思うこと、楽しいな、良いな、魅力が溢れているなと思うことを、どこかの誰かと分かち合いたかったのだ。
それがどんなに社会的に評価の低いことやお金に換算したら低価格なことであっても、私自身が本気で気に入っていたら何の問題もない。
素敵なことを、誰かと共有して、またそこからさらに楽しい輪が広がっていく。
そういう生き方をしたかった。
これを資本主義経済とくっつけるのは、簡単ではないかもしれない。世の中の宣伝や売れるものを作り上げることは、研ぎ澄ましていく修行的な考えや哲学的本質のようなところからは大きくずれていることが多い。現代資本主義社会における広告宣伝というのはそういうものだから、これは致し方がないのである。
だとしても、私は私の違和感に対して解決策を真剣に練っただろうか。何かの方法を全力で試してみただろうか。嫌だなあと思うことに蓋をして、逃げていただけだったのではないだろうか。
今ならちょっとくらい、自分が思う理想の形になるべく近づく方法を探ってみてもいいのかもしれないなと、急に最近思えるようになってきた。
自分の中の変化というのは、とてもわかりづらい。
本当は毎日コツコツ少しずつ変化しているのかもしれないのだが、それを自覚するのは困難だ。ある時、突然、ポンっと階段を2段飛ばして登るように、何かが変化したように感じる時がやってきて、ようやく自覚するのだが、本当はちゃんとどこかで1段分は登っていたし、なんだったら2段目までを階段脇にあるスロープでなだらかに上昇していたのかもしれない。
変化と結果が見えづらいと、人は挫折しやすい。落ち込みやすくもなる。
考え続けることをやめてしまうと、1ミリも進まなくなってしまうから、結果が目に見えていない時でも止まらず考え続けるしかない。頭でその理屈はわかっていても、疲れてしまう時もある。休みながら、進めばいいのだけれど、休むと余計に焦ってしまうこともある。
これから私はまた停滞しているなと感じる時があったり、今も正直前進しきれているなとは思えないのだけれど、モヤモヤしてきたりすることもあるのかもしれない。
でも、おそらく親族の寿命から想像したとして、私はすでに人生を折り返してしまっている。父が亡くなった歳を考えるならそこまであと4年半しかない。
そんな私に今できることはなんだろうと考えた時に、後悔のない生き方を全力でやってみるべき時期にきたのだとわかる。もうあまり時間は残っていないのだということを、私は時々ちゃんと思い出さなければいけない。
自分に嘘をついたら、絶対にモヤモヤする。
薄いモヤは次第に濃くなり、心を蝕んでくる。
自分の心に、嘘をついてはいけない。
それを現代社会でやるのは、大変かもしれないけれど、挑戦する価値はあると44歳になった私はやっと思えるようになった。
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