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自己紹介。


自分が感じたことや、

教わってきたことを、

書こうと思っておりますが、

まずは私のことを書かせてもらいます。

戦後まもない頃に、

祖母が営み始めた料理屋の、

ひとり娘。

昭和45年に、母が2代目の女将として店に立ち、

祖母が一線から退きましたので、

私は祖母に育てられました。

祖母はいろんな意味ですごい人どしたが、

祖母の話しはいずれまたにして、

3代目を意識したこともおへんし、

継ぐように育てられたわけでもおへんし、

仕事の選択肢がなかったわけでもおへんが、

19の秋に祖母が突然亡くなり、

母と叔父の間でお家騒動。

その時に、

たった一言、

母が「一緒に守ったこの店だけ残ったらええの」

母の言葉が、私を導いたんでしょうか?

あれから気がつけば30年以上の月日が流れております。

家が店、店が家で育った私には、

着物の着方、所作、料理の出し方に、器、掛け軸や花の生け方は、

生活の一部で、

色んなことは、お客様が教えてくださった気がします。

父は、設計の仕事をしており、料理人は雇っておりましたから、

母が板前のことで、苦労をしていたのをみておりましたから、

「その苦労だけは嫌っ」

料理人と結婚しましたが、そんな結婚が、うまいこといくわけおへん。

数年で離婚。

20代は濃縮ジュースのようでした。

負けん気が強く、甘えることができひんもんで、

幼い二人の子供、店、借金、両親、

全てを私ひとりが、背負っていると思いこみましたが、

子供は両親が、店はお客様が育て守って下さったことに気づくのは、

ずーとずーと後のことどす。

八年前に母が突然この世を去り、

「凧糸が切れた凧」

ある日、女将業から逃げ出してしまいました。

無責任なことをしてしまいましたが、

守ってくれていた娘のもとで

大女将として復帰するまでに、四年近くかかっております。

自分を見つめ直し、反省するには、

まだまだ程遠すが、無責任ながらも、

「逃げてたん」言えるようになりました。

70年を越え、代々血が繋がった娘が継いでいっていることが、

誇りと思えるようになれたのは、

娘や息子のおかげどす。

こんな私どすが、

お付き合いを宜しゅうお頼もうします。


#自己紹介 #京都#料理屋#女将#京都の日常#スキしてみて

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