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初セカチューして思うこと

小学生の時から、いつも読書感想文を書く時はギリギリになってしまい、
よく母に怒られたものだ。
今回は「余裕持って書こう」と思っていても、結局気づいたら8月の終わり。それはアラサーになっても変わっておらず、「人間なかなか変わらんもんだな」とか「まだ2日あってよかった」と謎の開き直りさえしている。(ここまでは、28日に書いてた)
そして結局8月最終日を迎えてしまった。

それは確か先月の半ば、トキさんのスペースに参加していた時のこと。
ひょうんなことから、「世界の中心で、愛を叫ぶ」の話で大盛り上がり。
そこで「あえて今、セカチューを読もう!」となったが、私にとっては 「あえて」でなく、初めてのセカチュー。
当時はやってドラマや映画化したのは覚えていたけど、日本におらんくて、海外にいたのでいまいち流行りの波に乗れず、セカチューを楽しむタイミングを逃していた。
でもうっすらと中国人の同級生に「めっちゃ泣けた!ピュアラブストーリー!」って薦められた気がする。というか中高時代、全部流行ってたドラマとかはその中国人の同級生に教えてもらってたくらい、私は疎かった。
あと当時からだいぶ捻くれていたので、純愛ストーリーを苦手としていたのもセカチューを通らなかった理由のひとつ。
とりまあ、いろんな言い訳ばかり書いてきたけど、本題の初!セカチュー
どやったってところなんですが・・・・

2人の間に流れる時間や見たであろう風景を想像して、忙しない日常の中で、癒しに・・・というか、尊い二人。
日常は、自分が存在する限りは続く。
けどいつまで続くか、自分が知るよしもなく、仮に知ってしまった場合は、
いい意味でないこと。
本を読んだ後、自分の大切な人ともっとの時間をちゃんと過ごそうって
改めて感じた。限りあるほうが、終わりが見えてしまうからこそ、向き合う気持ちになるけども、もし自分が先に死んでしまっても、相手が死んでしまっても全力でちゃんと過ごしていたら「一緒に過ごせてよかった」気持ちが増えるかなぁって。「ああしたかった」という後悔はきっと出てくると思うけど、そうなったときに「でもこうやって過ごせてよかった」と「よかった」の部分が大きくなるかなって。
そんな風に思った。

あと朔太郎やもし朔太郎と同じことを思っているひとへ
確かにキリスト教のお葬式は賛美歌を歌ったり、
「死」に対してもイエスのいえる天国へ行くために、「よかったね」と
悲しみ要素が傍からみれば少なく、楽観的なのかもしれない。
けれどクリスチャンでも「死」に対して悲しまない人なんていないし、
だけど「天国」という場所があるからこそ、安心していられる部分があるこそ、「楽観的」になれることもあると思う。

そんなわけで、きっかけをくれてありがとー!
トキちゃん!


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