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生い立ちと性格形成

「ああ、また今日も始まってしまったんだ。」

頭のてっぺんからつきぬけてくるような母の叫びと鬼の形相。完全に無視して飲み続ける父。
怒りが爆発して、父を罵り、物や子供に当たる母。
イライラした母の手からお皿が滑って割れると、
「あんたたちがうるさいから、割れたじゃないの」と、怒鳴りちらす。
姉がその理不尽さに食って掛かると、目がつりあがり往復ビンタ。泣き叫ぶ姉。
それでも部屋にこもって黙っている父。

そんなとき兄がテレビを見てたりしたら最悪で、
母は大きなハサミを持ってきて、テレビのコードを切ってしまう。
呆れて怒鳴る兄。さらにわめきたてる母。
こんな日常がどれだけ繰り返されたことだろう。

はたから見ると、かなりまともなエリート公務員の家の内情は、実はとても悲惨でした。

勉強もできて学歴もあって、実家の家族に優しい父は、実は自分の家族には無関心で、家では、一人でお酒をのんで、黙ってるだけでした。

婆やや執事に囲まれて育ったお嬢様育ちの母は、戦後の若い男性の少ない時代に、やっとできたお見合いで結婚し、台所も共有のたったひと間、今でいうワンルーム?に嫁いできて、子供までそこで産みそだてました。

そこから、もう無理感満載ですが。
とにかく若い男性がいなかったそうで、
今は貧乏でも将来がありそうだと、祖父が話をすすめたそうです。
早くに父を亡くし、五人の兄弟の長男として真面目に働き、小学生だった弟を大学にまで行かせた家族孝行なところも気に入られたのかもしれません。

しかし、それは結果としてはおお外れだったことがあとでわかるのですが、それこそ後の祭りでした。
子供が生まれ育っても、ほとんど興味も関心も示さない父。そして、普段無口な父がはっきりとこう言ったのです。
「弟たちで僕の子育てはもう終わったから」
と。

家事もろくにしたこともなく、小さいときから、日本舞踊やピアノを習い、蝶よ花よ🍀と育てられた母のわりには、
少なくとも初めのうちは必死に頑張ったらしいのですが、
貧しい暮らしのなか、子育てまで一人でするのは無理があったようで、いつしか化け物のような母に変貌を遂げてしまったのです。
まあ、もともとエキセントリックな芸術家気質の人だったようで、質素で平凡な暮らしは向いていなかったのでしょう。
父ももっと穏やかな家事好きの女性と結婚していたら、きっともっとしあわせだったことでしょうに。

子供のころ、このおぞましい家の中で、私はいつも丸まって震えていました。

少し年が離れている兄と姉が、果敢に母に歯向かい、いっそう激しい嵐になるのを見るにつけ、3、4歳だったか、まだ小さかった私は、1人丸まって、黙って、嵐が過ぎ去るのを待っていたのです。
いつしか、黙っていると、少しでも早く嵐が収まることに気づいてしまったから。

そして、子供心に
「お父さん、お母さんは、こんなに仲が悪いのに、何故離婚しないのだろう?」と、いつも不思議に思っていたのを覚えています。

少し成長してからも、どんなに理不尽なことを言われても、納得がいかなくても、とにかく黙って耐え続けました。

すると、いつしか嵐が収まり、しばしの平穏が戻ってくるから。

しかし、やがて、三兄弟が成長するにつれ、家族問題は良くなるどころかもっと複雑になり、ちゃぶ台返しに物が飛び交う、悲惨な状態にまで悪化してしまいました。
いわゆる家庭崩壊状態ですね。

こんな家庭で育てば、子供が問題をかかえて育つのは、ごく当たり前のことなのかもしれません。

相変わらず、ハチャメチャな母と、いいたい放題、やりたい放題の兄、姉に挟まれて、私は成長とともに仲裁役としての働きを担わされるようになったのです。

兄の暴力や姉が家を出てしまったことは、それはそれは哀しくて辛くて、消えてしまいたいと思ったことも何度もありました。
でも、自分がいなくなってしまったら、この家はどうなってしまうんだろう?
という不安と、生まれつきの小心さ故に、その生活から抜け出すことはできませんでした。

そんな私にとって、学校はまさに
オアシス。
不登校なんてありえません。
堂々と家を出られるだけでも嬉しいのに、友達に会えるのですから。
残念ながら、その頃の私は、友達に家の悩みを話して相談をするほどの勇気はありませんでした。
まだ、積み木崩しや、DV等が表にでているような時代ではなかったし、みんなにどう思われるかが怖くて、一歩が踏み出せなかったのだと思います。
それでも、みんなといるときの自分だけは、ごく普通の一学生でいられたから。
くだらないお喋りや部活の練習が救いの毎日でした。
楽しくて、嬉しくて、笑顔でいられるひとときでした。

ともあれ、ささやかな平和をひたすら望み、何を言われても、何をされても、目を閉じ耳をふさいで暮らしてきた私。
そして長きにわたり、家族の間にはいって、我慢したり、なだめたり、まとめたりして生きてきた私は、いつしかそれが体の芯まで染まってしまったようで、気づいたときには、誰にも文句を言えない大人に育ってしまっていたのです。

自分では、すごく我慢をしているわけではないのです。
怒鳴られて怖いこともあるし、
理不尽なことを言われて落ち込むことも、泣くことも、勿論あります。
でも、母のアレに比べれば、他人さまが外で言う文句なんて、比べ物にならないくらい大したことないし、反撃する気にもならないのです。

いつしか、怒鳴るとか泣きわめくとか、私のなかでは全くありえないものとなってしまっていたのです。

とにかく、腹が立ちません。

いつのまにか、感情がどこかに消えてしまったのでしょうか?

もしかしたら、どこかの線が一本切れてしまっているのかもしれないと思い悩みました。

目茶苦茶な家庭環境の中で、長い年月をかけて自分を順応させていくうちに、自分なりに一番生きやすい方法を身につけてしまったのかもしれません。

改めて考えると哀しいことですよね。

でも、長い月日をかけてつちかったことが、急に変わるわけないし、急に変えようとしたら、私が私でなくなってしまう気もします。

家でどんなつらいことがあっても、友達といると、幸せでついニコニコしてしまった私。

これも嘘偽りなく本物の私だったのだから。
だから、裏表があるんじゃないか?とか、二重人格なんじゃないか?とか、そんな風にいろいろ悩むのはやめにしました。

怒れないけど、喜んだり、幸せを感じることはできるのだから、感情が欠損してしまったんじゃないか?とかも、思わないようにしました。

おかげで、回りの人たちと喧嘩したりもめたりすることなく、うまくやって行けるのも事実だし。

今は、そのまんまの自分を受けとめたうえで、こんな風に考えるようになりました。

媚びることなく、穏やかに正直な気持ちを伝えられれば、怒れなくても、腹が立たなくても、むしろかえっていいんじゃないかと。

どんなに哀しいことや辛いことがあっても、
大好きな人達といるときに、思いっきり幸せを楽しめれば、それでいいんじゃないかって。

それに、金子みすゞの詞にあるように、
『みんな違って、みんないい。』
だから、他の人たちと違ってもいいんじゃないかって。
同じになる必要なんてないんじゃないかって。

そして今は、とても穏やかな気持ちで、いろんな人の相談にのれるようになりました。

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