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古今の小説の最高峰『海の鷹』の凄さを、ひと言で説明します。



『海の鷹』にめぐり逢うまでは


 
 プロフィールにお示ししているように、私は好きな小説に『海の鷹』『富士に立つ影』を挙げています。その理由は〈アッと驚かされる意外性〉という点(「背負い投げを食わされたような感じ」とも表現されますね)で最高峰だと思っているからです。
 私は『海の鷹』を24歳のときに読むまで、そうした点では大デュマのダルタニャン二部作(私の造語、のちに説明します)が海外作品では最高だと思っていましたが、『海の鷹』はそれを超える作品でした。
 なんでデュマという作家に「大」をつけているかと言うと、この人には息子(やはり作家)がいて、父子ともに名前が「アレクサンドル・デュマ」なので、区別するために父は大デュマ(デュマ・ペール)、せがれは小デュマと(デュマ・フィス)と、昔から言われてきたからです。ちなみに小デュマは、オペラ『椿姫』の原作者として有名です。
 
 

絶大な空想力、軽視される史実


 
 大デュマが、実在したことは分かっているけれど、ほとんど記録というほどのモノは残っていない銃士隊副隊長ダルタニャンを主人公として、そのキャラを勝手に設定し、歴史上の事件と自由自在にからませた、めちゃくちゃにおもしろい小説には『三銃士』『二十年後』『ブラジュロンヌ子爵』があります。
 副隊長の肩書は、訳者の鈴木力衛先生の解説によりました。ウィキペディアには「隊長代理補」と記されています。なお、その記述によれば、銃士隊長はフランス国王とされていたそうです。ちなみに『三銃士』の銃士隊長の名はトレヴィル(実在の人物)で、時の国王はルイ十三世でした。
 上記の三作品は、世に「ダルタニャン三部作」と呼ばれています。まあ、あたり前ですね。鈴木先生は三部作をまとめて『ダルタニャン物語』という邦題をつけて講談社から出版されました(何度も新装版が出版されています)。私も『二十年後』(完訳)は鈴木先生の訳でしか読んでいません。
 さらにいうと鈴木先生は、この三部作を十一分冊とし、それぞれに原文にない勝手なタイトルをつけてしまいました(第一巻が『友を選ばば三銃士』で第二巻が『妖婦ミレディーの秘密』とか)。
 鈴木先生のこのあたりのテキトーさは、歴史上の事件に題材を採りながら、史実を重んじなかった大デュマの豪快な精神を継承しているみたいで、私は嬉しくなります(大デュマの、私が大好きな名文句に「歴史? それは私の作品をひっかける釘だ」というものがあります)。
 

私は勝手に「二部作」と呼んでいます


 
 しかし、私は偏愛する『三銃士』と『二十年後』を勝手に「ダルタニャン二部作」と呼んでいます。
 理由は、『ブラジュロンヌ子爵』は趣きががらりと変わり、活劇ではなく恋愛ドラマに重きが置かれるようになるからで、私にとってのおもしろさは半減しています(それでも「めちゃくちゃにおもしろい」レベルは保っているのでから、やはり大デュマは怪物的作家なのですが)。
 私の個人的嗜好を措いて客観的に見たとしても、作品のボルテージがやや下がっているのは確かでしょう。
『鐵假面』(当用漢字に直すと『鉄仮面』)のタイトル(これは明治時代にボアゴベイの小説を訳した黒岩涙香の邦題からのイタダキ※)で『ブラジュロンヌ子爵』を訳された大佛(おさらぎ)次郎先生は、角川文庫版の訳者あとがきで『ブラジュロンヌ子爵』がダルタニャン三部作のベストといった意味のことを述べておられます。ですがこれは訳者印税目的のコマーシャル・メッセージとしか思えません。しかも『鐵假面』は極端なくらいの抄訳ですよ(前半部分はばっさりカットしています)。大佛先生、ちょっと、ていうか、かなりずるい。

※ルイ14世治下のフランスで、バスチーユ牢獄に常時仮面を着用していた正体不明の囚人が存在したというのは史実で、世の中には「鉄仮面の囚人」として伝説が広まっていました。大デュマもボアゴベイもこの伝説を題材とし、自作中に深い秘密を背負った囚人として描きました。
 
 

『モンテ・クリスト伯』と『スパイ大作戦』


 
 大デュマといえば、『モンテ・クリスト伯』こそが、古今の小説の最高傑作とする読書家は多くいます(矢野徹さん、栗本薫さんほか)。そう思われるのもよく分かるのですが、私はダルタニャン二部作のほうを採ります。
 なぜかといえば、少なくとも私にとっては、〈アッと驚かせる意外性〉という点で優っているからです。
『モンテ・クリスト伯』の、家族関係、愛憎関係、社会関係、財産関係…などなどを見事にからませ自在に操る、巧緻を極めた壮大な復讐劇は、確かに圧巻のひと言で、今後このパターンでこれを超える作品は出て来ないでしょう(ちょっと乱暴な比較をすれば、わが『忠臣蔵』は、要するに大勢で押し入ってひとりの首をちょん切る、という話ですね)。
 その昔のテレビドラマ『スパイ大作戦』(原題・Mission:Impossible)が何であんなにおもしろかったのかというと、良くできた回のエピソードのプロットは、現実のスパイ活動よりも、むしろモンテ・クリスト伯=エドモン・ダンテスの神謀鬼策を基本フォーマットにしていたからです。だから、それをバッサリ捨ててしまった映画版の『ミッション・インポッシブル』シリーズは、私にはおもしろくない。トム・クルーズ君の頑張りは認めるけれど。

『モンテ・クリスト(巌窟王)』も凄いけれど


 しかし、それほどの超絶名作『モンテ・クリスト伯』でも、仇敵三人への復讐が半ばまでくると、むろんハッキリと、ということではないのですが、何となく見えたのです。エドモン・ダンテスの仕掛けた企みのゴールが。これは私の『モンテ・クリスト伯』初読が、少年少女版『巌窟王』(訳者失念、出版社は偕成社ではないかと思われますが不詳。なお初めにこの邦題で『モンテ・クリスト伯』を訳したのは黒岩涙香です)だったことも要因なのかも知れません。
 涙香訳の『巌窟王』は登場人物の名前などを勝手に和風にしています。例えば主人公のエドモン・ダンテスは團友太郎(だん・ともたろう)、仇敵のひとりでダンテスの同僚船員ダングラールは團倉(だんぐら)、同じくのちに検事総長にまで登りつめるヴィルフォールは蛭峰(ひるみね)といった具合です。これは当時の日本人読者には外国の人名がおぼえづらかったためで、今でもそういう理由で翻訳小説を敬遠する人は思いの外いるものです。
 ダンテスの恋人メルセデスはお露(おつゆ)、乗船ファラオン号まで巴丸(ともえまる)になっています。国名・地名は仏蘭西(フランスとルビを振っています)とか馬耳塞(マルセーユ、同)などと表記。エルバ島(ナポレオンの流刑地)はエルバ島です。落魄(らくはく)の身から逆襲に転じるけど、結局敗れてしまう元皇帝は、「拿翁」をナポレオンと読ませていました。
 閑話休題(それはさておき)。
 栗本薫さんは「『モンテ・クリスト伯』を何千回読み返したかわからない」と述べておられました。コレには逆立ちしても敵いっこありませんが、私もダルタニャン二部作を二十回ちかく読み返していると思います(『三銃士』に限り、少年少女版も含めればその回数はさらに加算されます)。
 ダルタニャン二部作は、何度読み返しても驚きの連続で、新鮮さが色あせません。ハラハラドキドキ、手に汗握り、そしてうっとりとなってしまいます。よく知っているはずのストーリーなのに、読むたびに波乱万丈の展開に興奮し、その世界に没入してしまうのです。
 
 

ダルタニャンの正体をフェミニストが知れば


 
『三銃士』を、少年少女版でしか読んだことのない方は多いと思います。
 ですが、「どうせあらすじは分かっているんだから」などとおっしゃらず、ぜひ鈴木力衛先生訳の大人向けをお読みになることをお勧めします。それこそアッと驚くこと請け合いですから。
 詳しいことはネタバレになるから書けませんが、ダルタニャンの人間像に対する見方が百八十度変わります。
 差し障りのないことを打ち明けると、彼のことを「虚栄心が強い」※1とか「どちらかといえば冷たい心の持ち主」※2とかハッキリ書いています。
 しかしそんなコトで驚いている場合じゃない。
 私は不思議です。フェミニストの皆さんが、「『三銃士』のどこが名作だ! サイテーの小説じゃないか!」と糾弾しないことが。「問題の箇所を削除していようが、こんなクズ男をヒーローに仕立て上げた物語を子ども(とくに男児)に読ませるな!」という悪書追放運動を起こさないことが。
 しかしながら、虚栄心が強かろうが、心に冷たさがあろうが、×××で××××であろうが、勇気と侠気あふれる快男児ダルタニャンのことが、私はもうれつに好きで、最高に魅力的な男だと思っています。
 お分かりですね、そうなって(つまり惚れこんで)しまえば、どんなヒドイ欠点も魅力のうちです。

※1 『ダルタニャン物語』(講談社版ハードカバー函入り)第1巻昭和
43年8月刊347ページ
※2 同 第2巻同年同月刊44ページ

 
 

生き生きと描かれている人間の〈真実〉


 
『三銃士』は、今日の分類でいえば、エンタメ小説になります。
 誰がどう読んでも純文学なわけがありません。『海の鷹』と同じく改造社版の世界大衆文學全集に収録されているように、戦前~戦後にかけては大衆文学(小説)と呼ばれていたジャンルです。
 なお、「大衆小説」はストレートに「エンタメ小説」に移行したわけではありません。
 その間に「中間小説」と呼ばれていた時代が長くありました。これは大衆文学と純文学の中間といった意味合いですが、きちんとした定義ではなかった、と言って良いと思います。発表媒体がどれもこれも「中間小説誌」になってしまったので、掲載された小説群は抵抗なく「中間小説」として受け入れられていたわけです。
 エンタメ小説と純文学の違いについて、一般的には「前者は娯楽性を重視するので人物を類型化して描き、後者は芸術性を重視するので人間の真実を探究する」といった理解がなされています。
 概して言えば、それで合っているとは思うのですが、しかしダルタニャンの人物造形などは、作者自身の内面の深掘りに終始する大半の純文学などより、よほど人間がリアルに描けている、と思うのですが、どうでしょうか(人物造形という点につきまして、私は『海の鷹』そして『富士に立つ影』にも同様のことを思っています)。

いきなりハートを鷲摑み、奔放な空想力で


 
 ダルタニャンのことを、タイトルである三銃士のひとりと思っている方、多いのではないでしょうか。このテの勘違いは珍しくありません。これ以上ないくらい都会的なお話の『ライ麦畑でつかまえて』を、タイトルだけで勝手に田園の物語と思い込んだり、とかですね。
 登場時のダルタニャンは銃士隊員志願の若者で、年齢は二十歳ごろ。彼が銃士隊員になるのは、『三銃士』の半ば近くのことです。ダルタニャンは
物語の冒頭で三人の銃士に次々に出逢います。そしてダルタニャンと三人の銃士たちは意気投合…したわけじゃありません。
 さあ、出逢いの連続で何が起きたか。事件です。事件また事件です。思いもかけない。凄いですね、大デュマの奔放な空想力。吃驚(びっくり)しますね、ワクワクしますね。読者の心は、この出だしでもうわし摑み。そして、うーん…と唸ります。この導入部からして、もう小説のおもしろさが、ぎっしり詰まっていますね。でもこの小説、ここからさらに、どんどんどんどんおもしろくなって行きます。何とダルタニャンは、フランス一の権力者、リシュリュー枢機卿を敵に回してしまうんですね。リシュリューは凄い凄い、策謀の天才です。リシュリューの配下として、何とも知れん妖しい美女ミレディーが暗躍します。これに何と、フランス王妃アンヌ・ドートリッシュとイギリス宰相バッキンガム公の不倫の恋がからみ、ダルタニャンは窮地に立つ王妃を救うため、王妃のダイヤモンドを追ってイギリスに渡ります。まさにロマンですね。さあ、どうなるんでしょう、ハラハラしますね、ドキドキしますね(淀川長治調)。

「物語」の醍醐味、ここに極まる!

 昔(1960年代)の少年漫画週刊のハシラ(ページの余白)には、「毎号どんどん面白くなる〇〇〇〇〇(作品タイトル)、さあ、読もう!」なんてフレーズがしょっちゅう使われていました。ですが、これはまあ蝦蟇(がま)の油売りの口上みたいなもの。そうそうおもしろさを増大させることなんて、人間業でできるものではありません。
 しかし大デュマはそれを見事にやってのけています。何しろ彼は怪物なんですから。
 『二十年後』は『三銃士』よりもさらにおもしろさをスケールアップしているのです! ああ、『二十年後』の世界に没入することの、何という快感!
 少年少女版も含めれば、『三銃士』をお読みになった方は多いと思います。比較すれば、『二十年後』の読者はさほど多くない。
 しかし、「物語を貪(むさぼ)り読む悦楽」を求める方には自信をもってお薦めします。
 『二十年後』をぜひお読みください。


洒落た台詞回し、鋭利なユーモア

 ダルタニャン二部作の大きな魅力として、ストーリー展開のおもしろさの他に、思わずニヤリとさせられてしまう洒落た台詞回し、ユーモアの横溢が挙げられます。この要素は『モンテ・クリスト伯』には、ないわけではないけれど、希薄です。
『二十年後』では、リシュリューすでに没し、フランスの宰相にはイタリア生まれのマザランが就いています。マザランは美貌をいまだに保っている太后アンヌ・ドートリッシュ(『三銃士』の王妃)に取り入っており、国王はまだ10歳。マザランは狡猾ですがリシュリューとは較べるべくもない小人物です。太后との仲もわが国の弓削道鏡と孝謙天皇みたいにうまくやっているわけではありません。
 詳細は割愛しますが、政治犯の釈放を求める群衆が王宮に押し寄せて騒擾(そうじょう)状態となり、彼らの要求を代弁する大司教輔が太后に威圧的に迫る(つまり脅す)シーンがあります。

(以下、太字は鈴木力衛訳からの引用

「今年は王室にとって厄年でございます。イギリスの例をごらんくださいませ」(と大司教輔)
「そうです。が、さいわいにもフランスにはオリヴァー・クロムウェルのような男はいませんからね」(と太后)
 ここで二人が話しているのはクロムウェルによる清教徒革命のことで、物語のこの時点でクロムウェルは国王勢を圧倒していました(ダルタニャンは国王救出のため再び渡英しますが果たせずチャールズ国王の斬首刑が執行される現場に立ち合うことになります)。
「さあ、どうでしょうか。ああいう連中は雷に似ております。落ちてからハッと気がつくもので」
 一同は身ぶるいした。
 あたりは一瞬、静まり返った。

 太后は懸命の抵抗を試みるのですが、群衆の勢いに怖れをなしたマザランが見苦しく取り乱し、太后に釈放を懇願します。
 止むなく太后が釈放命令書に署名し、大司教輔が群衆を取り鎮めて立ち去ったのち。

「まあ! なんという憎らしい坊さんだろう! 今日はわたしを苦い目にあわせたけど、いつかはきっと仕返しをしますからね」
 マザランがそばに寄ろうとすると、
「かまわないでください! あなたは男ではありません!」
 太后はそう言って部屋を出て行った。
「というのも、あなたが女でないからですよ」マザランは口のなかでつぶやいた。

 こうした台詞回しや形容の多寡(多い少ない)は、作風=筆致(タッチ)の違いとなって、作品全体のムードを如実に支配します。
 同じ作者の手になるものですが、『モンテ・クリスト伯』は悲壮にして荘重です。比較するならばダルタニャン二部作は軽妙にして闊達自在(かったつじざい)と言えます。
 大デュマ(1802~1870)のこうしたセンスは、国籍や民族は違えどサバチニ(1875~1950、伊英のハーフ)や、辛辣なユーモアで知られる映画監督・脚本家のビリー・ワイルダー(1906~2002、オーストリア生まれのユダヤ人)と、とても似通ったものがあると私は思っています。
 なお、大デュマは黒人のクォーターで、彼の父方の祖父はフランス貴族、祖母は黒人奴隷でした(祖父は当時フランス領だった現在のハイチでコーヒーやカカオの農園を経営しており、祖母はそこで働いたのです)。

結論


 
 そういうわけで、サバチニの『海の鷹』が、どれだけ凄い小説か、ひと言で言います。
 ダルタニャン二部作をも遥かに凌駕する、おもしろい小説なのです!
(何を書いてもネタバレになるので具体的なことは一切書けません)。




※本稿の『海の鷹』『巌窟王』についての記述は世界大衆文學全集(改造社)版をテキストとしています(前者は昭和十四年刊、小田律訳。後者は上下巻から成り、ともに昭和六年刊)。ただし『巌窟王』のタイトルは旧漢字を当用漢字に改めました。
 

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