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はだいろのクレヨン

最近、Xで、欧米の人が書いたらしいという、映画への感想が話題になっていた。

すべては我々(白人)のために作られていて、我々が世界の中心なんだと疑う事もなく信じていた。現代の子たちにはそういう時間がわずかにも無いことが残念。

という話らしい。
このレビューが実際にあったのかどうかの信憑性は置いておいて、これを見て思ったことがあるので書いていく。

まず、日本人だと、こういう風に感じたことはないと思う。なぜなら世界の中心は日本ではないのだと、かなり幼い頃から気づかされているからだ。

幼い頃、ハリーポッターを見るには字幕か吹替を見るしかなかった。
そして、そこに出ている人々は現実世界ではほとんど見た事がない、色が白くて目鼻立ちがクッキリとした人々だった。たまに自分たちに似たアジア系の顔つきの人が出てくるが、話している言葉は日本語ではないし、なんだかリアクションも表情も日本人ぽくない。でもこれは世界中で大ヒットしている映画らしい。
どうやら日本は世界の中心ではないらしい、と幼心に感じさせられた。

私たちは幼い頃お絵描きをするときに、人の顔や体を「はだいろ」と書かれたクレヨンで塗った。
それは黄色やオレンジよりは白みがかっているが、白よりは色がしっかりあって、ベージュや茶色よりは明るい、そんな色だ。
この色が「はだいろ」という名前の色なのは、世界共通なのだろうか。それとも白人の人々が使う「はだいろ」、黒人の人々が使う「はだいろ」は別の色なのだろうか。こんな疑問を持てたのはもう少し大きくなってからだった。
(ちなみに現在は「はだいろ」という名前は無くなり、「うすだいだい」になったらしい)

世界の中心としての大きな問題としては、
残念ながら自分の所属が世界の中心ではなかった場合、世界の中心の存在と交流しようとする時に非常に大きな努力や労力が必要とされることだ。
なぜなら中心から、中心ではない側へと歩み寄ってきてくれることはないからだ。
だから、中心でない側は、その世界のルールに合わせなければならない時があるし、覚えなければならない常識もある。そして、そういったことを合わせるということは、自分を変化させ別の人間へと作り変えていくことに等しいと思う。
それは時として素晴らしい経験になる時もあるが、それは本人がその変化を求めていた場合のみであり、そうでない場合は非常な苦痛になる時も少なくない。

これは想像でしかないが、もしかしたらそれはLGBTの人々が感じる苦悩や違和感に、近いものがあるのかもしれない。生まれついたときに世界の中心(白人なのか、異性愛者なのか)はどちらなのか、そして自分はどちら側なのかが、希望する事も出来ずに決まっていて、もし中心でないに生まれついた場合は、勝手に世界からマイナー側として扱われる。そこに違和感を感じても、中心側はなかなか理解してはくれない。

白人の話に戻そう。
そういえばアメリカの本屋にはアメリカ国外の人が書いた本が少ない。
しかも、アメリカ以外の国の重要な本は、英語に訳される。自分たちが努力して言語を学ばなくてもほとんど海外で通用するし、必要な書物は訳されたものを読める。
英語圏の人が書いた本を読むだけで十分に量があるし、海外の人が書いた本というのは世界の中心ではない人々が書いたものだという思いがもしかしたらあるのかもしれない。

そしてアメリカ人は、そもそも海外にいく必要性をあまり感じていない。
アメリカが広くて外に出るのに時間がかかりすぎるから?
もしかしたら、アメリカが中心だと思っているからかもしれない。
日本でこれはあり得ない。なぜならアメリカやヨーロッパ、アジアなどの国の情報が(特にアメリカ)多様に共有されていて、映画もあればバラエティ番組の特集もあるし、学術書もある。
日本の外には日本よりももっと素晴らしい国々が沢山あるのだという教えや情報が刷り込まれている。(現実は逆な部分もある気がするが)

だがこれに似た状況をもう少しスケールを小さくして考えてみる。
この状況を日本国内で例えてみると、東京出身の人で、あまり地方に旅行に行くことがないという人が結構いる(もちろん旅好きな人もいるが)。
関東の外には、修学旅行でくらいしか行ったことがないという人も多い。これは東京にはなんでもあり、日本の中心なのにわざわざ労力をかけて、いわば中心の外に出ていく必要がないと感じるからかもしれない。

さらにスケールを小さくして考えてみよう。
先ほどの問題は、東京に限ったことではないかもしれない。
私が学生で北海道に住んでいた頃、テレビは北海道の情報がほとんどだし(天気予報では北海道は各地域の予報が出るのに、本州は東京だけ。)、本州出身の人も周りにはほとんどいなかったので、なんとなく北海道が世界の中心のような気さえしていた。
もちろん、テレビで東京の地域の特集番組や、東京の地名が普通に話されているのをみて、日本の中心は東京なんだと頭では認識していたが、実感は乏しかった。しかし、一番認識を改めることになったのは、上京して北海道出身だと話した時の東京の人々の反応である。「えー、すごい遠いところから来たんだね」と驚かれるのが最も多い反応だった。しかし、遠いと言っても飛行機でわずか2時間だ、そんなに遠いだろうか。
そしてひどい時には「ほとんど外国から来たようなものだよね」と言われる始末だった。東京の人々にとって、いかに北海度が遠い外側の場所だと思われているのかがわかり、衝撃を受けた。

そういう意味で、修学旅行は重要な役割があると言えそうだ。旅行という一連の活動を実際に体験するという学びももちろんあるが、自分たちが住んでいる地域の外にも文化や歴史があり、素晴らしいものが沢山あるのだと学ぶことで、自分の地域が中心だという錯覚を払拭できるのかもしれない。

ここから世界の中心という認識について再び考えよう。
そもそも国とか地域とかよりも、もっと小さな範囲で、世界の中心は自分だと思ったことはないだろうか。もちろん世界を動かすとか、世界から注目されるといった意味ではなく。
なぜなら人と関わっている時間以外の私の意識はほとんど私だけのものであるように思えるし、世界は私という場所を中心として認識が始まっているように見えるからだ。
これは認識論という哲学の問題に繋がる。

つまり私たち人間は(ある意味とても愚かなので)、勝手に自分は世界の中心のように思い込んでしまっていて、それを疑うことなく生きている。
そうした誤りは、現代ではテレビやSNSによって否定されたり、社会に出ると周りの人々の反応によって修正されていくのだが、周りも似たような考えの場合が厄介だ。
例えば性差別の問題などは、一部の女性にとっての生きにくさは実際に存在しているのだが、自分を世界の中心と勝手に思ってしまっている男性や一部の女性達にとっては、批判的意見はとても偏った一部の意見に見えてしまうだろうし、周りの人間(マジョリティ)が自分と同じ立場だったら余計にその思い込みは加速していく。

つまり、精神的な意味での自身の立ち位置の評価が歪んでしまっているのだ。
精神的な意味での空間的認知能力、自分はどこにいてなにをしているのか?の能力を上げていくことが必要なのだろう。

そうした訓練を今後社会が用意できるかが課題ではないだろうか。





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