面白い人になりたい私と、「僕は盗む」について
「僕は盗む」
https://j-lyric.net/artist/a052b38/l02c828.html
繰り返し、繰り返し、思うことがある。
面白い人間になりたい。
誰かを笑わせられる、場を和ませられる・・・陳腐な表現だけど、「潤滑油」って存在になりたかった。でも、多分この願いは一生叶えられない。わかっている。
面白い人種ってのがあって、私はそのベン図の中に生きていない。
ユーモアってなんだろう。
知的な面白さも、爆発的な面白さも、シュールな面白さも、下品な面白さも、この手の中にはない。
バズるようなツイートも、前代未聞の企画も、的確でテンポのいいツッコミも、思わず笑ってしまうブログも、居酒屋で先輩を和ます些細なジョークでさえ、全部出来ない。
誰かが生み出したユーモアを利用してしゃべってるだけ。
会話の中でも、ずっと考えている。人と接するのは接待だと思う。ろくに人を楽しませられる力もないくせによく言うよなあって感じなんだけど。会話は接待なんだ。
私としゃべるために割いてくれた貴重な時間。それをせめて楽しいと思ってもらえるものにしたい。そう思い思い必死に出来損ないのユーモアを掲げるんだけど、そのたびに自分はつまんねー人間だ、と思う。
じゃあ真面目に生きてるのか?というと違う。不真面目な人間です。真面目系クズってやつに当てはまってしまう。
それをさらけ出してオモシロに昇華できるならいいんだけど、私はどこまでいっても私がかわいくて自意識モンスターだから、自分を食材に出来ない。つまらない。
自己分析って嫌いだ。好きな人はいないだろうけど、中途半端な自分を何度も再確認させられて、かえって笑えてくる。
好きなことも嫌いなことも全部ハンパ。根暗で、ジメジメした文章しか書けなくて、だれかのオモシロに乗っかって生きているこのザマ。
たまにもう一人の自分がいう。面白くなくて何が悪い?面白さは生きるために不可欠ではない。ふざけてるより、少しでも真面目なくらいがいいって。
でも違うと思う。またもう一人の自分が言う。遊びをせむとや生まれけむ。人は楽しむために産まれて、遊ぶために働き、喜び満ちて死ぬべきだ。それなら自分の人生も、他人の人生も「コンテンツ」として楽しくあるべきだ…と自分に対して思うのです。
だから友達と話している時間はすごく貴重で。なるべく楽しんでいて欲しいし、嫌な事があったら聞いて浄化の一端を背負いたいと思う。くだらないことで笑っていて欲しいし、くだらないことを一緒に遊びたいし、その時間を放棄したくないってわがままが強い。
でもそれが叶わない。私は面白くない。面白さを人に委ねちゃいけない。つまらないことを言ったときは自分がつまらないと認めたい。笑えなかった人に笑いを求めたくない。誤ったときは変えたい。変わらないために変わり続けたい。
一生あのベン図の中には入れないと分かりつつも、少しでもその枠に近づきたいと思うのだ。少なくとも、過去の私より今の私の方がそれはしなやかになっているはずだ...と信じたい。
比べるのは昔と今の自分だけで、他の誰とも比較してはだめだ。とはいえこの世界には面白くて好かれる人間が多すぎて、それを摂取する度に生まれ変わりたいと思う。
だから盗む。彼らの言葉を、振る舞いを、飾り方を盗みたい。もともと毛ほどもない自我なんて足でまといです。大事に持ってた個性なんか捨てる。それでも残ってしまう私のくだらない人間性がアイデンティティーなのだから。
amazarashiの「僕を盗む」。初見はなんにも分からなくて、自分だけの解釈も見つからなかった。
だけど今は少しだけ説明がつく(それは間違っているかも知れないけれど)。
このセンテンスなんて、僕のことを見て歌っていると思った。そんなわけないけど。
知人と二人きりの気まずい間を、エントリーシートの空白を、「何か面白い話して」の地獄を、私は盗品でまかなってきた。ペラペラな嘘でも、私が作った物よりも良い味がする。
創作をする上で、自分に足りない物も。模倣して、盗んで、我が物顔で語っている。そのどれもが、偉人の言葉を強く引用していることを知っている。
優しい人になりたいよ。
賢い人になりたいよ。
でももう間に合わない。生まれたときから間に合ってない。
等身大の私は、いつまでもいつまでもこんな感じで、きっとおばあちゃんになっても陰鬱で、太宰治を崇めて生きていく。不幸を美談にお茶を飲む。
どこまでいっても変われないから、ボコボコになるまで自分を変える。
間に合わなくても走りたい。盗んで誰にも捕まらない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?